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ソチはそちらでSHはこちらで(意味不明)

ソチ冬期オリンピックが始まり、例によってTVを点けっぱなしで何かしらLIVEで放送される競技をBGM代わりにしています。
開会式突端からフランスのゴーモンTVのロゴのような5個の菊紋飾りが、あっ1つ開かない―――4輪になっちゃったよー、そのあとのプーチンの苦虫をかみつぶしたような顔と言ったら。

先日、といってももうかなり日数がたちますが、Amazon UKからSHERLOCKシーズン3のBlu-rayが届きました。
最初はとにかくざっと鑑賞―――何と言っても話の展開が知りたい
翌日からサブタイトルを出して一時停止しながら1回目に聞き取れなかったところを確認しつつじっくり鑑賞。
熱心なシャロ・ファンの方々のサイトにプレビューはお任せするとしていくつか気がついたことを。トリビアというほどもないけれど、私なりにおもしろいと思った個所を紹介します。

どうしても内容に触れるところがあるのでネタバレが嫌いな方はご注意ください。

第1話 The Empty Hearse  hearse:霊柩車、つまり死体はなかったということで。執拗にSHの死を疑うアンダーソンが作ったグループ名なんでしょうか。のっけから妄想爆裂でいかにあの墜落を偽装したか、いろいろ見せてくれます。
地下鉄を使った爆破テロ、2人が歌っていた"Remember remember the fifth of November, Gunpowder, treason and plot." 1605年にイギリスで起こったガイ・フォークスの陰謀事件を歌った歌。火薬庫に火をつけて国会議事堂を爆破しようとした、でも未遂に終わりましたけどね。イギリス人にとってガイ・フォークス・ナイトのお祭りはハロウィーンよりもなじみがあるみたいです。
ドラマ冒頭にジョンが221Bの前で出会う子供がガイの人形を引き回して"a penny to the guy!"と呼びかけているシーンあり。ここで、爆破テロと火あぶりが連想されるんですね。そういえば"V フォー・ヴェンデッタ"はまさにこのガイ・フォークスが下敷きでしたわね。

第2話 Clair de Lune:クロード・ドビュッシーの"ベルガマスク組曲"の第3番「月の光」言わずとしれた名曲。余談ながら美しいピアノ曲で(下手ながら)弾きつつうっとりなってしまいます。ディズニーがこの曲に月の光が漏れくる夜の森にひっそりと鷺が水辺を歩き、飛んでいくアニメーション短編を作っています。それは絶品。

第3話 His Last Vow モリ―とマイクロフトはSHにとってスーパーエゴ的役割を果たすところが散見されますね。それに対してモリアーティはタナトスか。
中盤、SHの危機的状況に際して瞬時に脳内に現れるモリ―とマイクロフト。的確な状況判断と冷静な対処を促す最高のコンビかと。SHの逃げ込んダンジョンにいたのはタナトスたるモリアティー。one more pushで楽になると誘いますが。
モリアティが歌っていたのはマザー・グースの"It's raining, it's pouring..."(雨降り)ですが、メロディーはそのまんま、PPMの"It's raining"
PPMのフォーク・ソングって今の人にはオールディかもしれないけれど、わたしにはお気に入り。この"It's raining "もすごく好きでした。歌詞の続きは"He went to bed and he bumped his head and couldn't get up in the morning"とベッドで寝たお爺さんが頭を打って朝になっても起きてこれなかった……というなんだか意味深なものです。確かにモリアティーは"SH is dying.."って物騒なこと歌ってましたけどね。

さて、終盤にSHの処遇を決める政府内のとある会合で、SHに対する処罰(?)が寛容すぎるのはマイクロフトの兄弟に対する温情からかと聞かれてマイクロフトが漏らした答え、"I am not given to outbursts of brotherly compassion. You know what happened to the other one."(湧き上がるような兄弟愛など持ち合わせていません、もう一人がどうなったかご存知でしょう)……って、もしやこれは長兄のシェリンフォードのこと? 聖典には書かれていないけれど"SH ガス燈に浮かぶその生涯"などの年代注釈書には1845年生まれの長男(次男のマイクロフトは1847年、SHはその7年後)がいたと書かれています。
シーズン4に何か言及があるかも。楽しみです。
ジョンのことをthis danger-obsessed man(危険志向のやつ)といい放ち
メアリー:"I'll keep him in trouble."(彼にはいつも何か事件を絶やさないようにするから)
SH: "That's my girl."(それでこそぼくが見込んだ女性だ) この会話、好きだなあー
たった4分の国外追放が終わり(マイクロフトからの電話に答えて、どっちにするのかはっきりしろと言った挙句)戻ってきたジェット。
ジョン: "...If he is, he'd better wrap up warm. There's an east wind coming."(もし本当に彼がいるのなら……しっかり着込んで暖かくするがいいさ、東の風が吹いてくるんだ)戻ってきたSHが彼にとって(彼を滅ぼす)東風になるという意味で。

シーズン2からのクリフハンガーほどではありませんが……でも含蓄のあるいい終わり方だったと思います。それにつけてもまた2年も(?)待つのは……つらいですなあ。

引用した台詞、確認していないので違っているかも。違っていたらスミマセン!

四つの署名———フリーマンによる前書き

Sign_of_four

さて、大詰めに近づいてきました。今回は「四つの署名」前書きはマーティン・フリーマンです。
カンバーバッチよりもさらに話口調で、ワトソンのキャラクターがそのまま話しているようです。
これまた前回同様、言語明瞭意味不明瞭というところがあります。おそらく読まれると、ははあこれね、とわかることと思います。
わたくしことながら、明日から一週間旅行に出るので、それまでにアップしてしまおうと急いだ楽屋裏があります。
フリーマンの言葉を借りれば、こういったことは大急ぎですべきじゃないんだ、ということになりそうですが。
では、どうぞ。

↓ここから

「マーティン、シャーロック・ホームズの現代版へ出演を依頼したいんだが?」
あれ、ま。

頭の中で警報がなった。テレビ用語で「現代」ってどういう意味だ? ラップで推理をやるのか? ホームズとワトソンがレクサスに 乗ってレストレードに会いに行く道すがらロンドンの街中に爆弾を投げ回るのか? しかもレストレードは車イスに乗ってるレスビア ンで昼食にはクラスAのドラッグがお好みだったりして。

実際は、このドラマについてのデイリー・メイルの記事を読めばぼくたちの作り上げた物がわかる。
だが、脇道へそれるが…ほんとうに警戒していたのはホームズが「かっこよく」なるという考えだった。いい意味のかっこいいじゃなくてテレビでの「かっこいい」だ 。それは、ほら…ちっともかっこよくないだろう? 
それにちよっと心配だったのは原作から離れすぎてしまうんじゃないかというこ とだった——ご推察の通り、原作はどれも読んだことがなかったんだけど、ね。

  コナン・ドイル?要チェック。バスカヴィル家の犬?要チェック。(あなたが投げかけてくれるホームズもの、どんなバージョンでも 見ますよ)ラスボーンとブルース? もちろん!(彼らはぼくの初めてのホームズ体験だった、今でもすばらしいと思ってる)
いい話は(はいはい、モファットとゲイティスはさておいて、後で彼らの話はするよ)ベネディクト・カンバーバッチにホームズをや らせようとしていることだった。オーケー、なかなか耳寄りな話だ。ずっと彼はいい仕事をしてると思っていたし、シャーロックにう ってつけだ、問題ない。しかし、だ。ぼくにワトソンをやれだって。これっていいことか? 興味がもてる役だろうか?別のやつが賢 さをひけらかしているときに、カメラの外で何かもごもご言うなんて、ちっとも面白いと思わなかった。

そのうえ、ナイジェル・ブルースに心からの敬意を払っていうのだが(ぼくにとってのワトソンは彼だけだ)、彼は永遠のワトソン役 でぼくよりも731年くらいも年長だった。(まあ、そういう感じに見えたのだ——ずっと昔のことだ。当時彼はやっと26歳だった)

脚本が届いて何もかもが、そうまったく何もかもすべてが腑に落ちた。雰囲気、進行速度、シャーロックとジョンの関係、アクション と、ぼくが会話の掛け合いと好んで呼ぶ部分のバランス———それらがページから飛び立ちぼくはぶっとんだ。スティーヴン・モファ ットとマーク・ゲイティスは間違いなく優秀な尊敬に値する脚本家だ。だが、ワトソンはぼくが思っていたよりもずっと活動的だった 。彼らが確かにそうしたんだね? 「もごもご」を引っ込めて代わりに「ドスッ!」(*重たい打撃音の擬態音、ボスッ、ドコッ)を加 えた?

いや、実際にはそうじゃない。スティーヴンとマークがシャーロックの脚本家としてやったことは奇跡に他ならないことだったと言い たいのだ。彼らの創案と革新は天才の技にちかいものだ——もしそういうものがあればだ。しかしぼくはおいおいわかっていくことに なるのだが、コナン・ドイルの素材は思っていたよりもずっと現代的で、ちっとも小ぢんまりとはしていなかった。

ジョンは傷病兵としてアフガニスタンから帰還した軍医だった、原作のワトソンと同じである。肉体的に堅固な男で、これも原作通り だ。さっきも言ったように現時点でぼくはコナン・ドイルを読み切っていない。だが、ジョン役をやるとサインしてから原作に親しみ 始めた。それは今も続いている。こういったことはあわててされるべきじゃないし、まだまだ読む原作が残っているのはうれしいこと だ。

たくさんの話がドラマ化してくれとせがんでいる———ほとんどがドラマ化にこれ以上いい話が思いつかない話であるのは偶然ではな い。ただ筋立てがとても巧妙だからというだけではない、実際とても巧妙なのだけど。また、人物がとてもうまく描かれているからと いうだけでもない、実際とてもうまく描かれているのだが。
会話の掛け合いが絶妙なのだ!読めば読むほど、さまざまなTVと映画の脚色において、ドイルの編み出した会話のすべてがまったく変更されていないということがわかってくるのだ。そこにはドラマがある。 真の機知がある。あなたが今手に取っている本がそのいい例だ。

ぼくに言えるのはこの本にメアリー・モースタンがでてくることだ。ジョン・ワトソンにとっていい知らせだ。残りはあなたがご自分 で見つけ出してください。そして、たっぷり楽しんでください。

マーティン・フリーマン

おや、この回には訳者による注はなかった、それだけわかりやすかった…のかな?


バスカヴィル家の犬———カンバーバッチによる前書き

The_hound_of_the_baskervilles

三冊目となりました。今回の前書きはSHERLOCKのタイトルロールを演じるベネディクト・カンバーバッチ。
ゲイティスやモファットと世代が違うというか、わたしが彼らの年代に近いので心情に親近感を覚えるだけかもしれませんが、いままでとちょっと変わった雰囲気の語り口です。まるで目の前でベニーが話しているようです。
中にはこりゃなんじゃ?というような箇所がありましたが、前後からおそらくこういうことを言っているのだろうと類推して訳したところもあります。おいおい訂正すべきは訂正するつもりなので、ご愛嬌としてご覧ください。では、始まり始まり。


↓ここから

「ホームズさん、それは巨大な犬の足跡だったんです!」
  すごい一節だ。
  おわり。
  ちょっと待て、ほんとうにぼくに「犬」の前書きをまるまる書かせたいのか?
 (もしこれがミュージカルだったら、いつもの調子でやれるのに。”ハウンド!” ミュージカル…ああ、いい思いつきが… 集中しろ、カンバーバッチ!)

これってマーティン・フリーマンの陰謀じゃないのか? 彼はあのシリーズは遠からず(*シャーロックじゃなくて)"ジョン"と改名さ れるだろうと確信しているんだから。
結局のところ、これはホームズの原作中で一番よく知られていてしかも恐ろしい話だ。それでいて全編15章のうちホームズが出てこな い章が6つもある。なぜなんだ?

あきらかに犬のせいだ! おっとすまない、これはネタバレだった……
しかし、シャーロックなら近場にいるでかい犬について嗅ぎまわることであっさりと正解に達してしまうだろう。そしてぼくらは221B に戻ってゆっくりタンタロスの煉獄(*暖炉のこと)をこじ開け石炭入れからもう一本タバコを取り出す余裕ができるというものだ。
ともかく、マーク・ゲイティスがこうしてはいけないってことはないよね? マークはぼくらのバージョンの犬を書いたし、おまけ犬も飼っているのだから! 名前はブンセン!
マークと(それにブンセン)に対してフェアであるために言っておくが、炎は「そのかっと開けた口から吹き出」さないし、(前の晩 に食べたニシンの臭いにおいを出さなければだが)、目が「熾火のように」光ることもないし、「逆立った毛や垂れたのど」の体の輪 郭が「ちらちらした炎に」包まれているわけでもない。それどころか、ブンセンはごろごろ転がってよだれを垂らしおなかを出して撫 でてくれとせがむのだ。

ぼくはシャーロック・ホームズに関しては晩生だった。3年前にやっと手をつけて今もなお進行中である。今でこそホームズもの を全部読んだが、最初はまったくのど素人で、知り合いだったふたりのホームズのビッグマニアに頼りっきりだった———そう、ス ティーヴン・モファットとマーク・ゲイティスのことだ。世界で一番偉大な(コンサルト嘱託、とはいうが思うにオールラウンドの) 探偵を演じるうえで必要な直感を彼らにリードしてもらった。ぼくにとって幸運だったのは、彼らがはったりじゃなくて本物だったこと、 そしてわが国のトップクラスの脚本家の二人であったことだ。
ぼくは最初から読み始めた。そして「緋色の研究」を読んではたと気がついた。原作はすべてのキャラクターの位置づけのための青写真で、シャーロックを演じる際の天の恵みだったのだ。

ドクター・ワトソンは、職業柄、とても観察眼の鋭い人だ。(ふん、見るには見るが観察しているとは限らないと、ホームズはしばしばワトソンにくぎを刺す)しかし、ページの中でホームズに生き生きした実像を与える人物としてワトソンは申し分なくすばらしいのだ。だから役作りのための読書にいっそう拍車がかかった。この驚くべき物語に関するあらゆるものが加速度的に大好きになっていったように。ホームズ聖典を読むのが課題だとは、なんて喜ばしいことだろう。ああ、役者冥利に尽きるというものだ!

初期のころにワトソンがホームズの外見的特徴に関するすばらしい描写をしている;「彼を観察しているといやおうなしに思い出すの が純血種のよく訓練されたフォックスハウンドだ。懸命になってクンクン鳴きながら途切れた匂いを再び嗅ぎあてるまで獲物が潜んで いるあたりを行きつ戻りつ駆け回るのだ。」
のちにホームズは自分を「狼ではなく犬だ」と表現しており、匂いをつけていくときの興奮しきった犬の一面を持つとともに一方では 221Bの暖炉のそばでの無気力にふさぎ込んで夢見るような振る舞いでもう一つの犬の姿を見せるのである。

ホームズ聖典にはたくさんの犬が登場する。夜に吠える犬、吠えない犬。「グロリア・スコット号」ではホームズは大学時代にブルテ リアに噛まれて治るのに10日かかったということが明らかになる。あの印象的な雑種犬のトビーもいる。半分スパニエルで半分ラーチ ャー(*狩猟用に仕込んだ雑種犬)の心強い味方。(確かあれは四分の一がグレイハウンドとアイリッシュウルフハウンドじゃなかった かな? 集中しろ、カンバーバッチ!!)
ともかく、ラーチャーにかけあわされたスパニエルのことよりも(物語の展開から考えると…この例では犬のサイズが優性だったよう だ)ホームズは「ロンドン中の刑事よりもトビーの助けの方が欲しい」と思ったことを考えるんだ!

しかし、ホームズ聖典の中でほんとうに重要な犬は一匹だ。それはダートムーアの霧の中に禍々しい歩みを進める——バスカヴィル一 族にかけられた古の呪いだ!

ぼくはこのすばらしい話を最初に読んでもらったのを覚えている。学校の先生だったか、人を楽しませるのが上手だった父だったか、どちらかにだ。怪奇の部分に芯から震え上がったけれども、きっとわれらがヒーローのホームズが倦むことなく論理で突き詰めて迷信の蜘蛛の巣を吹き払ってくれるだろうと期待した。
だが、待てよ! ドクター・ワトソンがダートムーアへ行くことになった…それも一人で! 最近のぼくたちのBBCのSHERLOCKでは ロンドンを離れロケーションで数日を過ごした。物語のもうひとりの主役ともいうべきダートムーアに出会うために。
それは呆然となるほどの光景だった。なだらかに起伏する丘や谷が急に広漠として荘厳なムーアに変わっていく。日没の薄れゆく日 の光の中にその景色がどこまでもずっと続いていく。日が沈むとまたたく間に気温が下がり、あたりの景色はどことなく人を寄せ付け ないよそよそしく荒れ果てたものに変わる。これこそ、コナン・ドイルが巧みに急峻な岩山と霧の悪夢の風景に作り変えた、寂寥感あふ れる凄絶な美しさあふれる場所なのだ。
物音が実際より近くに聞こえる。あなたは伸ばした手の先の闇の中に潜むものにおののいて胸がぎゆっと締まる。そして、彼方から吠え声が…そのおぞましさと救いのなさに背筋が凍る。飢えと復讐に満ちた獣の咆哮!

あなたが本書を初めて読むのなら、ようこそ。これから本の中でスリルが待ち構えるていると思うとあなたがうらやましい。旧友に会いに 戻ってきたのなら、このようなことで時間を取らせてしまったことをお詫びしたい。
さあ、紳士淑女の皆々様! シャーロック・ホームズの扱った事件の中でも最も有名で愛された、恐ろしくもぞっとするほど美しい物 語、バスカヴィル家の犬でございます。

    これでよかったかな? もう一度やらせてもらえる? 
    え、これは撮影と違うって…?
    ああ、なんてこった!

ベネディクト・カンバーバッチ
(*は訳者による注)


緋色の研究———モファットによる前書き

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前項のゲイティスさんに続いてスティーヴン・モファットさんによる前書きを紹介します。
コナン・ドイルによる60篇のシャーロック・ホームズ小説(長編4、短編56)の記念すべき第一作である「緋色の研究」(A Study in Scarlet)です。

モファットとゲイティスの制作したBBCドラマSHERLOCKの第一作は「ピンク色の研究」(A Study in Pink)は、もちろんこの作品へのオマージュです。
彼のシャーロック・ホームズへの愛はゲイティスのそれに勝るとも劣らぬくらいです。言葉の端々から愛がうかがわれます。読んでいる読者としてもほほえましいというか羨ましさまで感じるほどです。それでは、お楽しみください。


↓ここから

小さい頃、シャーロック・ホームズの名前は聞いたことがあったが本も読んだことはないし、映画も見たことはなかった。
一度だけホームズ=ワトソンの映画をちらっと見たことはあるが(わたしはどうも彼らをあべこべに受け取ったようだ。ワトソンの方が年上に見えたので賢いのだろうと思い込んだ)すぐに子供部屋へ戻された。その時放送していたのは「バスカヴィル家の犬」でとてつもなくおっそろしいシロモノだったからだ。
案の定その夜、ベッドの中で震えながら頭の中では妄想が始まった———階下がダートムーアと化し、下から巨大な犬の吠え声が聞こえてきたのだ!

シャーロック・ホームズは探偵だ、それは知っていたし推理小説も楽しんでいた。(たとえほとんどが謎解きの説明で基本的には答えが出せなかったクルードのゲームみたいなものであったにせよ)(*Cluedoイギリス、ワディントン社の犯人当てのゲーム)だが、明らかにこのシャーロック・ホームズの話は他とは違っていた。そこには怪物と戦う探偵がいた…

「シャーロック・ホームズってどんな人なの?」わたしは何度も父に聞いたものだ。あのころは答えを見つけるのが簡単ではなかった。インターネットは何マイルも離れた図書館にしかなくて、そこへ行くにはバスを乗り換えなければならなかった(ブロードバンドのスピードが遅いと不平を垂れていたのと同じころの昔の話である)。おまけにわたしがよく行く書店にはシャーロック・ホームズの本などなさそうだった。

そうこうするうち、ある週末にわたしは祖父母の家に泊まりに行った。いつもはこのお泊りは好きだったのだが、その時に限ってわたしはむっつりしていた。友達や両親が恋しくなりかかっていたからだ。祖父母の家に残されて(ぽいっと放り出されるようにだ、間違いなくわたしにはそう思えた)ふくれっ面でわたしは自分にあてがわれた部屋へ行った。するとベッドの上にプレゼントがあった。たぶんわたしに対して悪いという気持ちがあったのだろうが、そんなことはどうでもよかった。なぜって? それは本だったからだ。それも部屋の入り口からでもどんな本か分かった——表紙には黄色っぽい霧を背景に鹿撃ち帽をかぶった男の黒いシルエットの横顔があった。

黄色い霧だ! とっつきにこれ以上かっこいいものがあっただろうか! 大気汚染防止法は大いに褒められるべきものだが、詩的文学に関してはいかがなものだろうか? さらにじっくり見ると、その本は今あなたが手にしている本、つまりサー・アーサー・コナン・ドイルによる「緋色の研究」だった。シャーロック・ホームズの冒険というキャッチフレーズがあった。そう、疑いの余地はなかった。

実際それは単に有名なシャーロック・ホームズの話であるにとどまらなかった——第一作だったのだ!そもそもの始まりの話。ほんとうのいの一番なのだ。この出来事のおかげでわたしはホームズの全作品を読破したすべての人々の中で、最初から正しい順序で読んだ数少ない読者になれたのだと思いたい。
まさに第一作目の本の第一ページ目をめくるとき、本は巨大な扉が開くように軋み重々しい音をたてたにちがいない———その後決して離れることのない新しい世界に第一歩を記したのだから。

読み出した後に押し寄せてくるありとあらゆるものがわかっていたならば、わたしはページをめくることができなかったかもしれない!
ムーアに跋扈する巨大な犬、呼び鈴の紐を伝う蛇、卑劣なモリアーティと美しいアイリーン・アドラー。ブルース・パティントン計画と夜間に番犬の用をなさない犬。さらに戦時下のロンドンでナチと戦うバジル・ラスボーンとスパイダー・ウーマンの非現実的な夢、そしてジェレミー・ブレットはグラナダテレビの優れたシリーズでそれまで退屈だったテレビに劇場の演劇なみの衝撃を与えてくれた。ビリー・ワイルダーは天分を子供のころのお気に入りに余すところなく注ぎ込み、美しくも不気味な——それでいてとびきり面白い———シャーロック・ホームズの冒険(*The Private Life of Sherlock Holmes 1970年 脚本・監督・制作)をわたしたちの前に繰り広げた。

もしまだこの本を読んでいないなら、さあさっさと読んでください。わたしはネタバレはきらいだし、あなたも、どうなるかだんだんわかってくるにつれてネタバレがなくてよかった、と思うようになるだろう。だから、さあ今から読んでください、読み終わったらまた次の文の頭に戻ってきてください。


やあ、再びようこそ。驚きだったでしょう? なんと大胆に小気味よくスマートな語り口であることか。いかにヴィクトリア時代の枠を超えて控えめに現代風に書かれていることか。最初の登場にしてキャラクターが完全に出来上がって、しかも恐ろしいほどのシャーロック・ホームズについてはどうだろう? すべての小説の中のもっとも偉大なヒーローの一人、その男の最初の姿をわたしたちはどのようにして知るのであろうか。なんと彼は解剖室で死体を鞭打っているのだ。
それから100年以上もたって、マーク・ゲイティスとともにわたしたちなりの現代版を制作した折に、われらの新シャーロック・ホームズの登場に際してまったく同じことをさせた。このわたしたちの勇気とエネルギーに対して多大な喝采をもらった。だが、わたしたちが得たほかの多くの秀逸な着想と同じく、これも原典からそのまま使ったものだった。

そのうえ、われらのヒーローはまったく正統派ヒーローっぽくないだろう? 冷徹でうぬぼれやでユーモアのセンスがなくて、自分の選んだ職業に没頭する様子は気味が悪いほどだ。常人には不可解な秀でた能力をもつ一方で彼の知識にはとんだ欠落がある、それについてワトソンが作ったぞっとするリストがある。
ずっと昔には、わたしのヒーロー像はこんなものではなかった。わたしが期待したのは、魅力的で勇敢で心優しいヒーロー——でも、そこはほら、わたしはやめずに読み続けた。わたしを駆り立てたのは「推理」だった。ああ、なんとその推理にぞくぞくしたことだろう。はじめて会った時シャーロックはたちどころにワトソンが最近アフガニスタンから帰ってきたことを知った。しかし、どうやって? ドイルは答えを明かさずにあなたに待ちぼうけをくらわしただろう? そして彼は初めての事件現場へ赴き、みんなに殺人者は赤ら顔の人物だと告げるのだ。わたしはここでもどきっとした———どうしてそんなことができるのだろう? どうしたらこういう顔だという証拠が空気中に残るのだろう? またもやドイルに手玉にとられて読者はページをむさぼり読むことになる。どうやってこんな不思議な芸当ができたのか探り当てようと必死になる。

本を読み終わるころには自分がほんとうにシャーロック・ホームズが好きなのか確信が持てなくなった——正直言って、どうして好きになれる?——だがいままでに読んだ本の登場人物でこれほど虜にさせられ、胸を躍らせたキャラクターはいなかった。ホームズはわたしを安心して落ち着かさせてくれなかった。わたしはいつも自分の立ち位置がわからなくなった。しばしの間素晴らしい頭脳のひらめきに畏敬の念に撃たれたと思うと、次の瞬間に彼は傲慢さと残酷さでわたしの横っ面をひっぱたくのだった。そしてストーリーテリングの達人であるドイルはさらにそれに輪をかけて持ち上げたり蹴落としたりするのだ。

本書のすぐ後に書かれた「四つの署名」でホームズは事件が途絶えた退屈さをまぎらわすために麻薬を使う——心底ショックを受けた———ところがすぐに彼はひとつの懐中時計から持ち主の全体像を推理するのだ。そしてわたしはそれにまた心を躍らした。
同時にホームズはドクター・ワトソンに対していつも意地悪く接する。女性に対する許しがたい発言をするし、一連の作品の中でドイルが繰り返し描くことになる素晴らしい天才のひらめきをもって自分が登場する話を酷評するのだ!
(*ワトソンの書いた)「緋色の研究」がこうむったもっともひどい(*ホームズによる)批評を知りたいなら続編を読むといい。(*四つの署名の冒頭)———シャーロック・ホームズは自分の仕事の報告書としてのこの本が気に入らないと公式に表明する。とっくに野心的な出版社がシャーロックの言ったこきおろしを引用して表紙に載せてもいいころだと思うのだが。
ドイルの文才へ手放しの賞賛を送ることが多いが、生意気な態度と信頼性とを結びつけるこの大胆なアイディアには毎度のことながら笑わされるのだ。

もうひとつの物語が連作の中で進行している。静かにゆっくり近づいてくるので読者はその存在になかなか気がつかない。そして徐々に頭の中に姿をとり出すすべての事のように、それが肝心要なのだ。
これらすべての輝かしい小説はひっくるめて見ればふたりの友情の物語に他ならない。すべての小説作品の中で、最高の不滅のもっとも心温まる友情。このふたりの男たちが互いに愛し合っていることに疑いの余地はない。しかしそれは物語中では決して明言されていない、触れられてすらいない。
二人は一緒に冒険をする。ホームズは冷淡でワトソンは忍耐強い。ホームズは才知をひらめかせ、ワトソンは勇敢さを示す。しかしふたりは常ににともにある。常に全幅の信頼を互いに抱いている。まさにそれだけのことである。おおよその男同士の友情と同様に、なにもかもが推測の中にあり、なにひとつ言葉では語られないのである。

ああ、ひとつだけをのぞいて。ただ一度だけ、それが読者の運なのだ。もしあなたがわたしがしたように出版されたとおりの順で読み進むならば「三人ガリデブ」に行き当たるまでにずいぶんと長い時間待たなければならない。(*シャーロック・ホームズの事件簿掲載、56ある短編の49番目)だが、焦ってはいけない。順を追って読み続けたまえ——その瞬間が訪れたとき、きっとあなたは涙を押しとどめようと瞬きを繰り返すだろう。

先日、マークとわたしはSHERLOCKの来シーズンについて制作発表をした。当然のことながら、シャーロック・ホームズの永続的な魅力はなんですかという質問が出た。マークは「推理、そしてもちろん友情だ」と答えた。もしシャーロック・ホームズの物語が小説という形で最大のヒットであるならば———まったくその通りなのだが———人が彼らのようなヒーローを好むということから人間についてどのようなことが推論されるだろう? 結局のところ、わたしたちは心地よい理性と佳き友情を愛する、ということなのだ。

  それがあればわたしは生きていけると思うのだ。

スティーヴン・モファット

(*は訳者による注)

シャーロック・ホームズの冒険———ゲイティスによる前書き

The_adventures_of_sherlock_holmes

BBCの"シャーロック"のヒットによって、原典のサー・アーサー・コナン・ドイルの一連のホームズ作品が新たな読者を獲得している模様です。
ペーパーバックも表紙をドラマの写真に一新して新版を発売しています。「冒険」「緋色の研究」「四つの署名」「バスバヴィル家の犬」、それぞれにM.ゲイティス、S.モファット、B.カンバーバッチ、M.フリーマンが前書きを書いているというおいしいおまけが付きます。
ゲイティスの前書きの簡単な抄訳をしてみました。いかにホームズ物を愛しているかが言葉の端々から伝わってくると思います…が。(伝わらなかったら訳の拙さだと思ってくださいね)


↓ここから

古いブライアーのパイプを取り出して、未開封の手紙を暖炉の上にジャックナイフで刺し止めたわたしは物思いにふける。窓の外では秋分の大風が唸りをあげて、見知らぬ人が必死に呼び鈴の紐を引いているのが聞こえる。さあ、冒険に乗り出す準備完了だ。用意はいいか?

「シャーロック・ホームズの冒険」の前書きを書く機会をいただいたことは真に名誉であるとともに大きな喜びである。ひとつには本書はわたしにとってすべてのホームズ小説の中で最高の一冊だからである。本書はアーサー・コナン・ドイルによって書かれた最初の文学作品としての成功を収めたもので、彼の驚くべき独創的な才能からあふれ出たとどまるところを知らない機知にとんだすばらしい着想のうねりの中で書かれたものである。

しかしながら本書がわたしにとってこれほど身近な存在であり続けたのにはもう一つわけがある。まさにこれがわたしが最初に読んだホームズとワトソンのコンビが事件を解決する本だったからだ。
文学における「不滅の友情」を初めてそれと意識したのがいつだったかはっきりしないが、7歳以前に教室の壁にホームズの絵がピンで留められていたのをはっきり覚えている(それには"名探偵"という題が付いていた)。バジル・ラスボーンとナイジェル・ブルースのすばらしい映画は、永遠に消えることのないイメージをすでにわたしの心に焼き付けていた。
どうしようもなくダサい子供だったわたしは小さな黄色いプラスチック製の曲がったパイプにココナツ・タバコ(*甘いお菓子)を詰め込んで(何せ1970年代のことだったのだ!)、懐具合の悪いときはこれは刈ったばかりの草になったりしたが、父の吸うエンバシーno.3の煙草の灰の長さから彼の行動を推理しようとした。だが父が泥に足を踏み入れた、そしてネイションワイド(*BBCの平日のニュース番組)を見ながら煙草に火をつけたということ以上にわかったという覚えがない。

ところがわたしはまだ原作のどの話も読んだことはなかった。ある運命的な土曜日が来るまでは。
それは、ようやく風疹が治りかかったところで、病気でがまんしたごほうびにWHスミス(*英国中心に展開する本、CDなどの大手チェーン店)で何でも好きな本を買ってもらえることになった日だった。
たくさんの欲しい本の中であれこれ迷った末に、わたしの手の真っ新の50ペンス紙幣と交換する栄誉に浴したのは、表紙がシドニー・パジェットのイラストの分厚い紫色のパン・ペーパーバックだった。それが「シャーロック・ホームズの冒険」だった。どのページをめくってもぞくぞくするようなミステリーと、ややあくの強いヴィクトリア朝時代の魅力があふれているという予感がした。わたしはたちまちぞっこん参ってしまった。
しかし本編が始まる前に前書きがあった。内容自体はあまりよく覚えていないが、その最後が感動的な情感に満ちた文で締めくくられていたことだけははっきりしている。それはこんな具合だった。「自分がまだこの話を読んでいなければどんなによかっただろうと思う、これが初めて読むのであったなら!」その夜わたしはベッドに戻ってその文に身震いした。ぼくはこれから初めて読むんだ!と。

ページをめくり、ハザリー氏の親指の恐ろしい顛末を知り(*技師の親指)、あの悪名高いアイリーン・アドラー(*ボヘミアの醜聞)や高慢ちきなジャベズ・ウィルソン(*赤毛組合)に出会った。奇妙なネズミ(A Rat)の意味に気づき(*ボスコム谷の惨劇)、イライアス・オープンショウに死を宣告する封筒の中身を知った(*オレンジの種5つ)。まだある、アイザ・ホィットニーと「金の延べ棒」(*唇のねじれた男)、クリスマスの鵞鳥に隠された秘密(*青い紅玉)、ストーク・モランにあるロイロット家(*まだらの紐)。
全編が深紅色のヴィクトリア時代のベルベットにも引けを取らない濃厚でめくるめくメロドラマで「冒険」はわたしの期待を裏切らなかった、いやそれ以上のものだった。
どの物語も核心部分には、これ以上似ても似つかぬという二人の男の間に通う暗黙の心にひびく友情があった。世間に通じ、直裁で尊敬に値するワトソンと浮世離れした冷徹で傲慢なホームズ。わたしはこのくだりを読むや、ふたりがとてつもなく好きになった。「シャーロック・ホームズにとって彼女は常に『あの女(ひと)』である。」ロマンスの香りをかぎつけ、それが失われたことをそれとなくほのめかす憂いを感じたからだ。

これらの物語からベイカー街221Bの舌なめずりしたくなるような情景の詳細を知ることができるし、決して読むことができない事件について初めての言及があるのも知ることになる。(パラドール・チェンバーの怪事件! アマチュア乞食クラブ事件!ワーバートン大佐の狂気!)(*オレンジの種5つ/技師の親指)ホームズの冷徹なくせに人を魅了する天才ぶりを改めて感じさせられるのである。

スティーヴン・モファットとふたりでこの話を現代版でやるという着想を得たとき(正確には現代版をまたやろうとしたときというべきか。ラスボーンとブルースがもうやっていたからだ——*ユニバーサル制作、1940年代に舞台を設定した。ラスボーンがホームズ、ブルースがワトソン)
豪華絢爛のヴィクトリア時代に愛着が持てずに舞台を現代にしたのではない。むしろ彼らの不滅の友情を覆い隠す霧を(文字通り)ふきとばしたいと思ったからだ。わたしたちはすっかりホームズとワトソンの二人に夢中になった、そんな気がした。
どうしてこれほど彼らに恋焦がれてしまったのかをはっきりさせるために、まず素晴らしい原典に立ち戻りたいと思った。この作業を行ったことで、このまえに書いた脚色の中で、わずかであるが原作のいくらかの部分をドラマ化して描くことができた———これはかなりうまくいったと自分で言えるのがうれしい。
たとえばバーツ病院での二人の運命的出会い、死後の痣の出方を調べるために死体を鞭打つホームズ、戦争で負傷したはずなのに妙に楽に動き回るワトソン、関心のないことには驚くほど無知なホームズ、地球が太陽の周りを回っているという事実を知らないとか! これらのことである。

わたしたちは自分たちが創造したベイカー街のやんちゃ坊主たちに対する反響に感動したり喜んだりしつつも、常に回帰すべきはドイルであることを忘れなかった。いくども問題が頭をもたげたが、いつも答えはサー・アーサーが用意してくれていた。
「花婿失踪事件」(*本来なら同一人物事件とでもいえばいいのか)を読み返していたときに珠玉の発見がたまたまあった。
作中でホームズとワトソンは一人の女性が221Bの番地表示をためらいながら見上げるのを観察している。「『こういったそぶりは前にも見たことがある』暖炉に煙草の吸い殻を投げ込んでホームズが言った。『舗道でそわそわするのは恋愛沙汰と決まっている。助言が欲しいけれどこういったことは内容が微妙なので人に話したりわかってもらえるかどうか迷っている。だが、ここからでもはっきりわかる。男にひどい目にあわされた女はためらったりしない、そういうときにはたいてい呼び鈴の紐を引きちぎる(ほどに鳴らす)ものだよ』
これ以上に純粋で素晴らしく書き得ることができるだろうか。

「冒険」をむさぼるように読んだあと、わたしは他の話も全部読みたいという愚かな願望に取り付かれて「コンプリート・シャーロック・ホームズ」(*ホームズ全集)に手を出した。
もちろんモファットが指摘したがるように、シャーロック・ホームズ全作を読んだことが子供の遊び仲間のなかで名誉の勲章になるなんて妄想するのは完全にいかれてるやつだけなのだ!
今日に至るまでわたしは時間をかけてもっとじっくり作品を味わっていないことが悔やまれる。いまでもあの古いよれよれになった本は手元にとってある。どの黄ばんだページにも愛着があり、中にあるたくさんの喜びに心をときめかす。あの最初の一連の作品「冒険」はいつでも一番のお気に入りである。

ゆえに、はるか昔のPanペーパーバックの前書きの言葉を借りるならば、"この本を読むのがこれが最初ならどんなによかっただろう。”と言いたい。
もしこれを読んでいるあなたが、まだこの作品の神聖なページをめくっておらず、阿片窟と悪魔のような継父の世界や、血塗られた高価な宝石と復讐を誓う秘密の結社などの世界にもろに頭から突っ込んでいないのなら、わたしはあなたがうらやましい。 ほんとうにうらやましく思う。あなたは今一生に一度の楽しいひとときを経験しようとしているのだから。

マーク・ゲイティス

*印は訳者による注

怖い話 ———昔猩々、今SHERLOCK

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こういうものが出てくる季節となりました。

実際真夏に飾るものってあまり無いんですね。
例年、七夕が過ぎると貝殻や浮き球を使った海仕様か器にガラス玉や睡蓮の葉を浮かべる水盤仕様あたりを交互に飾っていたんですが、何か飽きてしまって。
今年はこれ、以前に紹介した「めでたや」の"おばけ~"。

火の玉くんの横目に一目ぼれしまして値段も見ずにレジへ。幸いお手頃価格でよかったあ。

記憶に残る最初の怖い話は———小さいころ見た映画。
たぶん夏休みの東映動画と二本立てで何の心構えもなく見てしまったもの。
記憶の中では白黒で、ストーリーも何も覚えていません。
時代劇。豪華な着物を着て髪を高く結って簪がちらちら揺れる典型的お姫様が(あんみつ姫スタイルを想像して)白い巨大狒々にさらわれるお話。
毛むくじゃらの白い怪物(今にして思えば猩々だね)が深夜お屋敷の中庭に現れてそれを取り囲む捕り手、縄を投げたり刺又で取り押さえようとするのだけれど白猩々の怪力の前には無力、次々に跳ね飛ばされて、哀れ姫君は猩々に掻っ攫われて屋根の上に…。
詳細は違っているかもしれないけれど、とにかく猩々の顔の恐ろしかったこと、この世ならぬ怪物の姿が恐ろしく画面を見ていられなかった。
私のあまりの怖がりように一緒に行った母が「こわかったら外へ出ようか?」と言ったのをよく覚えています。
映像で見た恐ろしい姿はその後ずっとトラウマチックに何度も暗闇に現れてきました。

文字で読んで恐ろしかったのは創刊間もない週刊マーガレットに載っていた「本当にあった怖い話」的な読み物。
今にして思えばポーの「黒猫」あたりがネタなのでしょうが、外国の(ここがミソ、いかにもありそうという先入観を与えるのです)古い建物で、そこに住むことになった少女が(ここで自分と同年代で感情移入を誘う)月光に照らされた壁に見知らぬ少女の姿が浮かぶのを目撃するといったお話。殺されて壁に塗り込められていたといいます。
ご丁寧にも直視しても見えず鏡にだけ映ると。
月光、鏡、直には見えない、死んでいる少女———こ、これは怖いっ。
おかげでしばらくは白壁を見られなかったし、とにかく明かりをつけて回ってました。

怖さには視覚的なものと想像が関与するものがあるようです。精神活動が単純な年少の時には特に視覚的に怖いものが印象に強く残りやすい。
大人の感覚で陳腐なありふれたお化け屋敷風の映像でも子供心には大きなダメージを与えるかも。
となるとそういうものを子供に見せないように周囲の大人が気を配らないといけないんでしょうね。
自分が平気だからといって子供にホラー映画を一緒に見せるような鈍感大人であってはいけない———これ、自分の事です。今更ながらに深く反省。

想像力が働いて怖いものがさらに怖くなるのは年齢的にもう一段階上のことになるのでしょう。
こちらはもう自己責任というか、怖がりながらもどこか楽しんでいるところがあります。お化け屋敷に入ったり、ホラー映画を見に行ったりする一種の自虐的M的行為かと。

現実的に怖い話はいっぱいありすぎます。家にいても地震、竜巻、外へ出れば暴走車に出合い頭の無差別殺人、ものを食べれば添加物に残留農薬、薬害もあれば熱中症、年金はあてにならないし…つまり怖い話に囲まれて生活しているようなものです、こうなると怖い話が当たり前になってしまいますね。

現実のつまらない怖い話はさておいて、最近での一番怖い話は"SHERLOCK2"の第3話、ライヘンバッハ・フォール。

onionさんのブログコメントにもあったように、初めて見たときには一週間もあのシーンが目に焼き付いて、何度も頭をよぎった、まさにそうでした。
でも、私の場合は例のシーンのちょいと前、あのモリアーティの凄惨シーン!

脈絡なしに浮かんだ言葉が「肉を切らせて骨を断つ」、それに「帝都物語」の目方恵子が加藤との対決のために行った覚悟の行為…

偏執的と言ってしまえばそれまでだけど、好敵手、いや一生に一度巡り合うかどうかという自分に匹敵するライバルを滅ぼすために、最後の障害となるのが自分ならばその道を断つという、その判断の確かさ、そして判断に基づいて論理的に導かれる解決策を一瞬にしてためらいなく遂行する強い意志、実行力。まさにスポック的。
しかし決定的にスポックと違うところは、この冷静な判断の下には暗い鬱勃とした情熱があること。触れるものを焼き尽くすような暗く熱いパトス。

試しにモリアーティの感情を追ってみましょう。
自らが認めた生涯のライバルを完璧に打ちのめせると確信した歓喜と陶酔。しかし裏返しにすれば征服・被征服の関係は次の一手でまったく逆転する可能性があるとの認識があるので、極めて危ういがゆえにさらに甘美な勝利の陶酔です。
勝利を確信している優越感ゆえに敗者が消えゆくことを惜しみ、好敵手が消えた後の世界は退屈極まると嘆く。
互いに他の存在が自分を輝かせることを知っている。だから二者は一体。表と裏。まさに愛の告白!

しかし両立はあり得ない。ゆえにシャーロックを滅ぼす計画の唯一のほころび、脆弱点が自分だと悟った時、迷わず自分の消滅を図った。ここまで自分を追い込んだ相手に心からの謝辞を残して。ふう。
あの"Thank you"には戦慄を覚えましたね。ここまで熱く自らの熱望に従える無垢さをもったvillain(悪党)の造形に拍手。

はい、はい、ストーリー的には無理があるのは十分承知の上で原作も加味してああいう風に持って行った脚本のすごさに感心しているのです。あの衝撃的、予想だにしなかった展開に、その次の衝撃シーンもかすんでしまったというか(これは主人公の第一法則がありますからね)。

ちなみにあの世紀のでっち上げシーンの真相には諸説ありますね。どれも一理あり、また無理ありなのですが、脚本のモファットさんはすべておぜん立てはしてある、手掛かりはすべてあきらかにしてあるのに誰もが見つけそこなっている。いろいろ説を立てているけれどみんな見逃している。われわれは(制作側)どうやってシャーロックが生き延びたのかちゃんと合理的に考えてあるし、実際に何が起きたか、その一部はもう撮影してある、ってなことをインタビューに答えています。
引用した原文はこちら
Steven Moffat, who wrote the series with Mark Gatiss and Steve Thompson, has said all the clues pointing to how Sherlock survived were in the episode. ‘It’s all set up,’ he said. In an interview yesterday, he teased fans further by saying: ‘There is a clue everybody’s missed. So many people theorising about Sherlock’s death online – and they missed it! ‘We’ve worked out how Sherlock survives and actually shot part of what really happened. It all makes sense.’


クリフハンガーはさておき、あれはあれでまさに近頃まれな怖い話でありました。しかもそれを自分が結構肯んじているということがまた怖かったりして。

悩めるポワロ

Poirot_oex_2満を持してのオリエント急行殺人事件のTVドラマ化である。主演デヴィッド・スーシェ。
あまりにも有名なA・フィニー/ポワロの映画のイメージを払拭する出色の出来、しかし実に考えさせられるドラマだった。

見所はwhodunitの謎解きの面白さももちろんであるが、それにもまして前面に現れたポワロの深い苦悩である。それは理性と感情の葛藤、文化との大義の矛盾、宗教と現実の相克であり、わたしたち個々に対しても普遍的な疑問を投げかけている。

ポワロはかつては警察組織の一員として法の番人であり、引退した現在も、犯した罪は理由の如何によらず犯したという厳然たる事実により、身を持って贖わなければならないという懲罰に対する感覚を持っている。
それを端的に表した短いエピソードが最初に描かれる。その場面でポワロは罪は罪とのスタンスを貫き、その結果犯人が命を自ら絶つのだが、そのことが彼に迷いを与えはしないし、彼に後悔を迫ることもない。彼の信念は揺るがない。
ちなみにこれは原作ではポワロがフランス陸軍内の事件を解決した手際の良さと、何故に彼がシリアにいるのかという合理的説明のために添えられている挿話に過ぎないのだが。

その後、いよいよわたしたちがよく知っているオリエント急行殺人事件の幕が上がる。
しかし、ここにまた周到に原作にはないもう一つのエピソードがさり気なく加えられている。
主要登場人物であるミス・デベナムとアーバスノット大佐の初出の場面。現地の女性が姦通罪で衆人に石を投げられて懲罰を受ける、それを目撃してショックを受けるデベナムにポワロが語る。あれは私怨を晴らすリンチではない、現地の不文法であり、彼らは正義を行なっているのだ。残虐に見えるからといってわれわれに批判はできない、文化の違いなのだと諭すのである。
後に自らの言葉に対峙しなければならなくなるのは全くの皮肉である。実に練られた脚本であるといえよう。

物語は原作に忠実に進む。様々な国籍の老若男女を乗せた国際社会の縮図のオリエント急行列車内で大金を持った粗野で素行の怪しいアメリカ人男性が殺害される。しかも大雪のために列車は立ち往生して密室状態になる。捜査依頼を受けたポワロは被害者が何年か前にアメリカで起きた幼児誘拐殺人事件の犯人であることを知る。しかもこの男は逮捕されながら金とコネを使って訴追を逃れて行方をくらましていたのである。列車に乗り合わせた一見無関係の人々から聞き込み調査を行ううちにポワロは驚愕の真相をつかむ。それはwhodunitよりもwhydunitに着目した結果だった。

クリスティは作品にいくつか推理小説の禁じ手を使っている。「アクロイド殺人事件」それにこの「オリエント急行殺人事件」がそのひとつである。詳しいことを書くのは興を削ぐのでやめておこう。とはいえ、もう周知の事ではあるのだけれど。

終盤にポワロは殺人の実行者、つまり殺人犯をユーゴスラビア当局に(列車が立ち往生したのがユーゴスラビア領内なので)引き渡そうとする。法に従った当然の処置である。しかし彼にはもうひとつの選択肢が提示される。架空のマフィアが殺人を犯し逃亡したという第二の「真相」で、証拠物件まである。法を遵守するポワロはその第二の解決を一言のもとに退ける。

犯人はポワロにこう訴える。法のもとに正義が行われない時はどうしたらいいのか。神の裁きを祈るだけなのか。自分は冷酷な殺人者のせいで命を失った5人のために現世では期待できない正義を行ったのだ、と。
ポワロは激しく反駁する。罪を贖わせるためにこそ法があるのだ、個人が正義を盾に報復で人を殺せばそれは取りも直さず「殺人」なのである。殺人に正義も不正義もない。複数人で行えばリンチである。正義の名における殺人を正当化することはできない、と。

しかしポワロのルサンチマンは犯人の主張に共鳴している。法は人が安全に生きていくために人が作ったものである。しかるに、その法が人を守れない時、否、むしろ人を害する時にそれを遵守する価値があるのか。法と言えど、あくまで自分たちの社会のルールであり、それが普遍的な正義である保証はない。文化が違えば集団殺人が正義となる社会も存在する――冒頭のシリアでの出来事を自らの口で語ったではないか。
彼が拠り所としている法の原点である戒律「汝殺す勿れ」にしても、その戒律を破った者には相応の罰が下される。つまりは報復法なのである。
よって罪を犯しながら罰を逃れていることは許されないのである。法によって罰が下されるのが理想的であるが、現実はその限りでない。ポワロの情は犯人に傾く。彼を押しとどめるのは個人が罰の執行者にはなってはいけないという「局地的な文化に根ざした法」への遵法意識だけである。彼はもう「絶対的正義」が存在しないことを知ってしまったのだ。

もう一つポワロに突きつけられた疑問は、人が神の代理人になってはいけないのかということである。
ここに至るためにドラマでは早くに敬虔な宗教人としてのポワロを描いている。今までのシリーズには珍しくポワロがロザリオを持ち、聖母の祈りを唱えるシーンがある。違和感を持ったが、ポワロの内的な苦悩を浮き彫りにするための布石であった。しかも祈るポワロの姿と交互に誘拐殺人犯が隣室で祈る姿が描かれる。人はおのれのためにおのれの神に祈る、われわれの外に神が在るのでない、神はわれわれの中に在るのだと言わんばかりに。

ポワロとて宗教は(所詮)おのれを律するための心の拠り所であることは理解しているだろうし、現実にはどうしても神の意思とは思えないような不条理があることも経験しているはずである。
正義が行われない事実の解決を神に肩代わりさせてしまうことを潔しとはしないであろう。むしろ彼はそのような理不尽に対しては憤りを感じる人である。

よって法に代わって、そして神に代わって、正義のために殺人を犯した人を一律に「殺人犯」として告発していいのだろうか、という疑問が彼の心に芽生える。
翻ってもしそれを許すならば、今度はポワロ自身が殺人を見逃すということで法を破り、しかも殺人を肯定するということで戒律を破ることになる。更に百歩譲って正義の処罰を認めたとしても、犯人は殺人を犯した罪を贖う責任がある。


最後までポワロは遵法者であろうとする。しかし、寒さと苦悩で憔悴の表情の彼が現地警察に行った報告は第二の「真実」であった。
ポワロによる告発を覚悟して列車の外に出ていた犯人は驚きのうちに安堵する。しかし、ポワロに心の平安はなかった。
彼は列車から遠ざかるように歩き続ける。殺人を見逃したことで彼もまた犯罪者であり、殺人を肯定したことで彼もまた戒律に背いた背教者となったのである。彼の心には「犯罪者!」「背教者!」というおのれを糾弾する言葉が鳴り響いていたことであろう。

ポワロはおのれの心の信じるところに従ってこの決定を下した。彼を動かしたのは法でも宗教でもなく血の通った人間に対する情であった。しかし、なお善良な宗教者であり法の守り手であるポワロは自分を許すことができないでいる。大願成就に安堵する人々の間に戻っていくことはできない。
ポワロの内面で、今までゆるぎなかった法と宗教に対する信念が打ち砕かれようとしている。彼を支えて来た価値体系が瓦解しようとしている。
様々な感情がないまぜになった中でポケットから取り出したロザリオに許しを請う口づけをすることもせず、かと言ってロザリオを投げ捨てもせず、ポワロは泣きながらなおも列車から遠ざかるのであった。

原作ではポワロは結論を出していない。込み入った動機と詳細に練られた計画で行われた前代未聞の殺人事件の真相という第一の解決と、マフィアの犯人逃亡という第二の解決を提示して、選択はオリエント急行の重役に委ねて自分は退いている。1974年の映画でも同様に事件の解決と現実にどう対処するかは切り離して自分は任を降りている。その結果、オリエント急行の中でシャンパンで乾杯、これで手打ちということになる。この結末を見た時に面白いけれどこんな脳天気でいいのかという疑問で、あっけらかんとした明るい結末に違和感を抱いたものだった。

このドラマはおそらく映画では欠如していたポワロなら当然悩んだであろう葛藤に焦点を絞った秀逸な作品である。ポワロ物の中でも一、二を争う秀作になることと思う。


世界で一番おいしい紅茶の淹れ方

P1090862NHKの番組「極める!」で知った極め付けの紅茶の淹れ方です。

わたしも長年紅茶を飲んできましたが、今までこれぞおいしい紅茶というものがどういうものか、実感できたことがありません。
よく聞くのが、ポットを温めるとか、茶葉は人数分プラス1を使うとか、そそぐ湯は沸騰してから一呼吸置いたものがいいとか、湯を注いでから3分蒸らせとかいうような注意ですが、その通りやっても出すぎて渋みが強かったりで、本当にこれが「おいしい」のだろうかと首をひねりたくなります。

「極める!」では、まずイギリスで長年の議論の的だった「ミルクが先か、紅茶が先か」についに終止符が打たれたことが紹介されました。
「ミルクが先」だそうです。どちらを先にしても出来上がりは同じミルクティーだろうと考えますが、微妙な差異が生まれることを科学的に実証……したのです。
いわく、ミルクは温めることによって独特のにおいが強くなる。だから90度近い熱い紅茶のカップにミルクを少しずつ注ぐとミルクの温度が急激に上がって牛乳くさい香りが先に立ち、飲み口ももったりしてくる。
逆に先にカップ1/4くらいミルクを入れておいてそこに紅茶を注ぐと、ミルクがゆっくり温まり紅茶の香りの方が先に立つようになる、飲み口もあっさりとする。
よってミルクが先が望ましい。さらに詳細をいうと、茶葉はアッサム、水は軟水、ミルクは低温殺菌のもの、カップは広口の陶器製マグカップが望ましいとのことである。王立化学協会(Royal Society of Chemistry)が大真面目に出した結論なのだからあながち眉唾ではないのかもしれませんね。

さらに「極上の紅茶を淹れるゴールデン・ルール」で、ポットの中で茶葉が活発に上下する(ジャンピングといいます)ために注意する点として、湯に空気をたくさん含ませるために
1 水道からヤカンに水を入れるときシャワー状にして勢いよく入れる
2 湯が沸騰すると含まれる空気が激減するので、沸騰直前(98℃くらい)で火からおろすこと
3 ポットに湯を注ぐときなるべく高い位置から注ぎ、ここでも空気を含ませるようにすること
その後3分蒸らして、温めたカップに室温に戻したミルクを先に入れておいて、その上に静かに紅茶を注ぐと出来上がりです。飲みごろは65度が最適だそうで、ミルクに紅茶を注ぐとちょうどそれくらいの温度になり、すんなりと抵抗なく飲めます。

さっそくやってみました。写真で見る限りは何の変哲もないミルクティーですが、確かにまろやかで後口がさっぱりしています。
アールグレイやアフタヌーンティーなど茶葉を変えてみても同じようなまろやかさが生まれます。この淹れ方、思わぬ拾い物とうれしくて仕方ありません。当分毎日このゴールデン・ロイヤル・ミルク・ティーを楽しもうと思います。

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フォ、フォースが……効かない? 効いた?



ネタとしては古いかも知れませんが……
朝の特ダネ!で紹介されたアメリカ、スーパーボウルで放送されたフォルクスワーゲンの特別CMです。
解説の必要もないほどのあっぱれな出来です。
それにしてもSWはしっかりサブカルとして根付いているんですね。それが嬉しくって。
ちなみにこの6歳の子役くんはSWは「怖いので」まだ見たことがないそうです。
でも彼の手つき、歩きっぷりがいいですね。ベッドの上の人形はROTJのすっぴんヴェ-ダーをちょっと思わせたり、ママが滑らせるパンのお皿とか、随所に楽しめるツボが満載です。
でもSWを揶揄したり利用したりするものではないというスタンスが各所に感じられるのがこのCMを健全で(?)心地よいものにしているようです。

黄金期



それは突然にやって来た。それはある種の啓示。
最近サティにどっぷり浸かっている。グノシエンヌ1番を弾いているとき、それは突然にやって来た──これどこかで……。
正確には知ってる、ではなくてこの感じを覚えている、だった。

記憶の隅にしまい込まれて二度と明るいところへ浮かび上がらないものがたくさんある。たまに何かに触発されて覚醒すると奥底から密やかな波を送り出すものもある。
波が徐々に伝わって意識の表面に達して波紋を広げるとき、わたしはじっと待つ。それが何かつかもうとして慌てて手を振り回すと、あっけなく消えてしまう。だからじっと待つ。
すると波紋は途切れることなくじわじわと強さを増しながら深部から湧き出してくる。そして──矯めた力でひときわ大きく湧き上がったときにわたしは確実に思い出す。
記憶がリボンのようにするする伸びてほどけていく。なぜかくも長く忘れていたのか──強烈な印象が覚えた時と寸分変わらぬ生彩を放って時の流れを一気に飛び越えて現前する。
グノシエンヌ1番を弾きながら浮かんだイメージ──荒野、フリーク集団、火吹き男、道化、天使、ナイフ投げ。
それを大事に膨らませる。あれはCM、何の? たぶんアルコール系だったかそれとも光学系だったか?

ともすれば逃げていきそうなイメージを言葉に置き換え検索を重ねてやっとたどり着いたのが80年代のサントリーのウィスキーのCMだった。 サントリーHPにも制作データしか残っていないが幸いにも動画サイトで見つけることができた。
音楽はマーク・ゴールデンバーグの「剣と女王」、グノシエンヌ1番に通じるところがある。
改めて見て鳥肌の立つようなCMだと思った。現在では作ることができない職人芸。当時は見るたびに「背徳」という秘めた暗い情熱を感じたものだった。アナログ表現の爛熟期。世紀末というにはまだ時間はたっぷりあり、未来への希望が持てた時代、過去を覚えている時代。

80年代にはこの「ランボオ篇」以外にもすばらしいシリーズがあった。
シュールな「ガウディ編」、マグリット風に始まり中国、日本と墨絵で東洋を前面に出した「大地の歌」。



どちらも確かに見た覚えがある。
ガウディは画面に現れる建築も人物も「異質」、われわれの想像の及ばない異次元世界を垣間見たし、逆にマーラーの「大地の歌」では西洋の生んだ東洋の倒錯した美しさに微笑み、想念の東洋を実感の東洋と読み替えるわれわれの感性の豊かさを嬉しく思った。
そろそろ溜め込む一方だったイメージや記憶の断片を呼び起こし、つなぎ合わせ、甦らせて、本当に覚えておくべきものを選りすぐり、最初に接した時の感動を再び紡ぎ出す時期になってきたのかもしれない。

いつ、どこで、何がきっかけで突然降臨してくるかわからない過去からの呼び声を聞き漏らさないためにも心の耳を研ぎすまし20代の感性と30代の緻密さと40代の想像力を持って懐かしくも新たな感動を味わいたいものである。