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巨星墜つ...

小松左京氏が亡くなった。
まさに日本SF 界における一時代が終わりを告げた。
近年は体力も衰えられてほとんど公に姿を見せられることもなかったが、亡くなったと聞いてその喪失の大きさに悄然とするばかりだ。

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わたしにとってのSF は小松に始まる。忘れもしない、中一の夏、暑さも忘れて魅入られたように読みふけった「果てしなき流れの果てに」――いまだにわたしのオールタイム・ベストである。
物語のスケールの大きさ、構成の妙、それでいて時の流れの中では目にもとまらぬような個々のささやかな人々へ向けられる優しさ。大と小、密と粗、転換の鮮やかさに魅了された。

わたしはいまだにストーリーの展開中に早々と挿入されたエピローグ2(現実的結末)が醸す風情を超一流の美しい文章だと思う。そこに流れる日本的なゆるやかな時間の経過、いかに科学技術が進んだ時代になろうと、人びとの営みは大きく変わることない。宇宙的時間に比すれば束の間にもならない短い人生の時間を、悩み苦しみ諦め愛し生きて死んでいく、そして個々の人間の生死にはまったく頓着せず、等質の時間が百年、千年と過ぎていく。
この物語にはもう一つエピローグがある。時系列的にはエピローグ2の前にくる1である。ただし、読者はずっと先に提示された2で物語の行く末を知ってしまっている。だが、そこに至る道のり想像を絶する遠いものだった。幾人もの意識が多くの時間と多重宇宙を経験したのちにやっとたどり着いた結末なのだ。まさに時空のオディッセイアともいうべき長大な物語が2の穏やかな結末の背後に控えていたのだ。

中学生という感性がようやく研ぎ澄まされ始めるころにこの本に出会ったことで何かがその後のわたしを形作る一部になったようだ。そういう事情もあってこの作品だけはわたしにとっては別格の宝物なのである。

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小松氏の著作は圧倒的な多さがある。「果てしなき……」よりも作品として完成度の高いものは他にもあるし、ベストセラーになり映画化されたものもある、千変万化のアイディアに富む中短編も捨てがたい。
しかし、わたしは初期の著作の中にわたしが最も惹かれる小松らしさの萌芽を見る。「易仙逃里記」(エキセントリックの語呂合わせだということはおきづきですよね)「お茶漬けの味」「地には平和を」「時の顔」どれもいつ読んでも知的好奇心を掻き立ててくれるアイディアとそれを支える描写力がある。「地には……」のラストで語られていることでプルーストを読み、「女狐」の日本古来の土着のおどろおどろしさに魅せられ関連書籍を読み、「ホムンよ故郷を見よ」では異星人の異文化を紐解く中にあらわれてくる驚愕の真相に心ときめかした、いまとなっては懐かしい限りだ。

小松氏の著作と活動は膨大だった。どの方面から切り口を入れるかで見方も論評も変わるだろう。
わたしとしては自分が読んだ限られた著作から受けた印象で氏を判断するしかないが、わたしにとっての小松氏を今後も大切にしていきたい。

一番好きなところは何かと言えば、口幅ったいが、人類に対する惜しみない愛である。この愛すべき愚かな人類、どうしようもなく愚かで道を誤り傷つきながら、それでも上を目指そうとし続ける人類に対する宥恕と信頼と愛情、それが著作の諸所に見え隠れしている。コメディであるが「彼方へ」に見え隠れする人類の行く末について、人類の一段上への進化についての壮大なビジョンは後の「ゴルディアスの結び目」で遠く共鳴を響かせている。
センチメンタルだと笑われてもいい、わたしはそれが好きでならない。
ある小説の最後に繰り返し書かれた「人類よしっかりやれ」という物議をかもした文言しかり。氏の愛は人類のみにとどまらない。「自分の滅亡すら肯定できる」心の持ちよう、悪魔に象徴される忌み嫌われ唾棄されてきた邪悪な存在すら「捨てられ顧みられなかった可能性の一つ」とする遍く惜しみなく降り注がれる愛、その懐の広さが、なんとも心地よいのだ。

最近読んだ上田早夕里の「華竜の宮」のラストシーンに久々にこの小松っぽさを感じて不覚にも熱いものがこみあげてきた。それはこういう具合だ。人類滅亡の危機に際して、人類そのものの存続は望めなくても人類が存在した証として人間の精神機能をまるまるコピーしたアンドロイドを宇宙に送り出す。おそらく人類の滅亡後であろうが、アンドロイドたちは人類を賞して、「彼らもよくやったよ」と評す。
長く忘れていたこの味、甘酸っぱい諦観、希望、安定、余韻、情感。小松氏の衣鉢を継ぐ人がちゃんといたとうれしくてたまらなかったことを覚えている。

皮肉なことだが、亡くなったことで著作が再版されて、新たな読者ができるかもしれない。しかしそれでもいい。「影が重なるとき」「お召」「比丘尼の死」「保護鳥」「夜が明けたら」「継ぐのは誰か」「結晶星団」……数え上げるときりがない。一人でも多くの人に小松作品の面白さと大きさ、美しさを知ってもらいたいものである。そしてまた小松作品について語り合えることがあればこれに勝ることはない。

福島正実氏、星新一氏、光瀬龍氏、に次いで小松左京氏が亡くなった。一つのまったきよき時代が終焉を迎えたのである。

まだ見ぬ同志 とも

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近所に古紙回収業者のトラック置き場がある。そこにはいつも新聞の束や雑誌、段ボールなどが山積みになっている。
収集してきたものの一時置き場なので山ほどあったかと思うと翌日にはすっかりなくなってトラックだけが止まっている、そういう状態である。わたしたちは近所の役得で新聞雑誌など少したまると即、集積所へ置きに行く。

二日ほど前、例によって新聞の束を持って行ったときのことだ。ふと一つの段ボール箱が目を引いた。いらない文庫本を整理したのだろう、ぎっしりカバーのかかった本が入っている。そのカバーに見覚えがあった。
茶色に黒の筋、Univ Coopの文字--大学生協のカバーだった。もちろん全国の大学生協で同じ仕様の文庫カバーを使っているのだからこの本の持ち主が本を買ったのがわたしの母校とは限らないのは承知であるが。

好奇心から本を取り出してみた。その時の気分といったら、まさに驚愕、ショック。まるでかつての自分の本棚を見ているようだった。
生協のカバーのほかに今はもう店舗が移転してしまった市内の書店の茶色にゴシック文字のデザインのカバー、もう一軒の書店の深緑の地に白い鳥の線描のあるカバー。
わたしが学生のころ買って保存していた本が、いま目の前に並べられたような錯覚にとらわれた。カバーはすべて几帳面にぴっしり本に合わせてきっちり折ってある。この「本フェチぶり」はただものじゃない、とかつての自分を揶揄する気分になった。

カバーがかかっていない本もあった。平井和正の新書版「幻魔大戦」が幾冊もあった。あっと思って手近の文庫本を確かめると、豊田有恒、筒井康隆……おどろくことにすべてSF だった。

運命論者ではないけれど、何か不思議な天の配剤を感じた。この箱が捨てられた日にわたしが新聞を捨てに来て目をとめた。一日違いでこの箱はどこかへ移されて処分されただろう。SFに興味がない人が見ても気にも留めなかっただろう。大学生協のカバーがかけてなかったら目を留めなかっただろう。

持ってきた新聞をおいてわたしは迷うことなくその段ボール箱を抱えて家に戻った。一冊ずつ取り出して中を改める。わたしの記憶にある当時のカバーであるからこの本の持ち主はわたしとそれほど年齢は離れていないのだろうと思われた。広げながら、持ち主の気持ちがわかるような気がしてきた。そして知らず知らずのうちにその人に語りかけていた。

文庫の天地や小口の着色はそれ相応の年代を経ていることを示している。しかしどこにもシミ一つない。表紙の日焼けもない。おそらく読んでからずっとカバーをかけらて本棚に並べらていたのだろう。きっと大事にされたんだね。でも、あの当時SF 好きというのをおおっぴらに示すのは照れがあった。当時はオタク視されかねなかった。だから本棚に並べるときにカバーをかけていたんだね。外にタイトルも書かずに。わかるよ、その気持ち。

筒井康隆が好きだったんだね。小松左京、光瀬龍の最高傑作もある。文庫版だね、わたしは日本SF シリーズで持ってるよ。
平井和正の幻魔大戦、漫画連載が打ち切られSFMの新幻魔大戦も中断、その後出た新書版を期待して読み始めた。矢継ぎ早に出る続刊を読むうちに、こんなはずじゃなかった、と思いながらまだ惰性で読み続ける……そして、心が離れてしまった。若い巻はカバーをかけてあるのに最後の方は投げやりになっている様子が見える。その遍歴が目の前に見えるようだ。わたしもそうだったから。

その後本はずっとご主人の本棚にいた。青春の思い出であり、かつてはひそかに心ときめかした大切な本だったから。しかし、長い年月が過ぎ、自分の中で「もういいか」という気持ちが少しずつ大きくなってくる。再読する機会もなくそこにあるだけで心が落ち着いた本だったが、そろそろ現在の自分に衣替えする時期だ。こうして〇ook Offへ持って行っても買い取ってもらえない本たちはまとめて段ボールに入れられて破棄された。

わたしは幾冊か抜き取って残りは集積場に返しに行った。不思議に気分が高揚していた。日本海側の地方のこの小さな市に、わたしの近くに、同じ頃に同じ本を読んで心ときめかした同志がいたのだ。どこの誰か確かめるすべはないし、知ってどうしようとも思わない。その人とて同好の士が近くにいたなどとは当時も今も夢にも思わないことだろう。

まだ見ぬ同志 とも よ、とわたしは呼びかける。わたしたちは孤独じゃなかったんだ。何十年か後にそれがわかった。それでも遅くない。わたしはうれしい。偶然の不思議さ、この出会いのうれしさ。これこそまさに Sense of Wonder !!

世界SF大会Nippon2007

横浜まで行って参りました。実際に現地へ行ったのは3日、正会員になるほどの時間的経済的余裕もなかったので、展示会場で行われる長野剛さんのサイン会の時間を目当てにお邪魔することにしました。
会場はパシフィコ横浜、みなとみらい駅に直結しています。到着は12:30ころ。入り口近くのオーストラリアのブースでは2010年のワールドコンの誘致プロモーションで、コアラの人形(お土産によくある大型洗濯ばさみみたいなあれ)を配っています。気のいいボールディのお兄さんとしばし語らいました。
さて、まずは展示会場Aのオークラ出版さんのブースを目指します。横着してデジカメを持参しなかったので携帯のカメラでお茶をにごして、一枚。
Ohkla_sオークラ出版さんのブースです。バックには先日エフエックスから発売されたUVGの大きな非売品ポスターがかかっています。机上にはLJとJQの既刊、更にLJの5巻の先行発売も揃っています。
編集のIさんと、7月上旬にもお会いしたので、即おしゃべりを。
すぐにお隣にいらした長野さんにも紹介して頂いて、ご挨拶しました。とても折り目正しい方で画集や本を買い求める人が続く中、一人一人に名前入りで丁寧にサインをされていました。
前日よりメールを頂いて待ち合わせしたMさんと合流して、辺りを一回り。その後しばらくブース付近で話をしながら売れ行きなどを見ていました。中には全巻大人買いをしてくださる方が二人も続いてかなり興奮しました。ところで、自分もせっかく来たのだからやはりサインを頂こうと、画集を購入。しっかりミーハーしてきました。
丁度前のアート・ショーでは会員限定のオークションが開始されていて、なにやら1000ドルなどという(物騒な)価格が聞こえてきたり、かなりなエキサイト振りです。
サイン会の定刻になったのでブースを辞して、展示を一回り覗きました。
ゲスト・オブ・オナーの小松左京さんの作品、懐かしいハードカバーが並んでいました。見ればほぼコンプリで持っています。わたしの中では日本SFの第一人者と言えば小松さん以外の方の名を挙げられません。初めて「果てしなき流れの果てに」を読んだとき(中学生でしたが)には完全に頭の中をひっくり返される程の衝撃を受けました、中間部に挿入された現実的結末の情緒に痺れてそれ以来小松さん=神様という図式ができてしまいました。「地には平和を」「お茶漬けの味」以来の短編集も「暗黒星団」「ゴルディアスの結び目」中編も、「虚無回廊」も、どれもあくの強さを感じながらも、現在進行形で抗いがたい魅力に引きつけられています。
歴代SFコンのロゴの入った年代物Tシャツや、記念マグ、ヒューゴー賞レプリカなど、時間があったらもっとゆっくりみたいお宝ばかりでした。
世界SFコンベンションとはいえ、無料展示コーナーなので、なにやら(これで良いのか、ニッポン?)と問いたくなるような似非エキゾチックアイテムや、無国籍バッタモンの販売も行われ、実際に書籍の販売が少なかったのは少し残念。萌えキャラのコスプレなど人目を引く扮装の方も見受けられました。
会場を後にしてMさんとお茶を飲んで更にいろいろお話しました。横浜を出たのは4時くらいでした。曇りのお天気のお陰で思ったほど暑くもなくて助かりました。
思い返せば、中学生のころ、一丁前に背伸びして柴野拓美さんの「宇宙塵」に参加したり、中高生で作るファンジン、同人誌の走りみたいな物ですが、それに名を連ねてみたりしたことがありました。お仲間に難波弘之さんなども記憶にあります。
当時の夢は、世界SF大会(当然アメリカで開催されるものという認識しかなかった)に一度参加してみたいということでしたが、よもや日本で叶うとは思ってもみないことでした。もちろん本会場の催しには参加できませんでしたが、展示会場と物販ブースを見てまわっただけでも、多少ともSFコンの味を楽しめたことで満足しています。
ちなみに来年の日本SFコンはダイコンだそうです。昔、一度ダイコンに行ったことがありますが、なんだか急に来年大阪へ行きたくなってきました。また懲りもせずSFをめぐるお楽しみ心に火が着いてしまったんでしょうか?

付記
デヴィッド・ブリン氏がメインゲストで来ていらっしゃったんですね。OAZOの丸善にブリン氏の原書と文庫が特集で置いてありました。ハヤカワから出た最近作「キルン・ピープル」(上下)を購入。でも読むのは順からマイケル・クライトンの「恐怖の存在」(上下)が先になります──というか、これは読みやすい。あっという間に上巻が終わってただ今下巻。