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パイレーツ・オブ・カリビアン3──Goofs

Poc_awe2
先日IMDbのトリビアを紹介しました。今日はGoofsといわれる部分です。
こちらはぴったりの言葉がないのですが、ちょっとした辻褄が合わない部分とか、時代錯誤であるとか、撮影中にうっかりして舞台裏が見えてしまっているところ、とか、いわばあら探し的なお楽しみです。
例によって最後にネタバレ注意の項目が3個あります。ご了承下さい。

Goofs forPirates of the Caribbean: At World's End (2007)
○連続性(前後で辻褄があわないところ); ジャック・スパロウと「真っ白な砂漠」のシーンで、そこは全くの無風の世界であるはずだが、ジョニー・デップの髪が微風にそよいでわずかに動いている。
○連続性; デヴィ・ジョーンズ・ロッカー(海の墓場)でキャプテン・ジャック・スパロウがブラック・パール号に乗っているシーンで、右手にいくつか長いひっかき傷がある。しかし数分後、バルボッサがクルーを率いてジャックの救出に来たときには傷は消えている。
○間違い暴き; 大渦の戦闘シーンでウィル・ターナーがブラック・パール号からフライング・ダッチマン号へロープで乗り移るとき、実際にはオーランドのスタント・ダブルがロープで渡り、デッキに飛び降りる。しかしそれはオーランド・ブルームが立ち上がってフレームに入ってくる数フィート後ろの場所である。
○時代錯誤; 映画の初めの部分で、ベケット卿の頭髪のカールは現代のヘアピンできちんと留めてある。
○間違い暴き; いくつかのシーンで、バルボッサが血走った目にみえるようにコンタクトレンズを入れているのが見える。
○連続性; エリザベスが船縁で海賊達を鼓舞する熱弁をふるうとき、正面向きクローズアップでは、エリザベスの髪は部分的に結い上げてある。後ろから取った映像では完全に髪は下りていて濡れてだらりとしている。船縁から飛び降りたときは、髪は結んでいず、乾いていてへたれていない。同じシーンのウィル・ターナーの髪は、時にはきちんと後ろでまとめてあり、また時には風になびいて顔にかかっている。
○誤って報告された例; 一部の観客の中には冒頭で海賊の歌を歌う少年が歯列矯正のブレースをつけているのが見えたという人がいるが、実際は少年はジャックのように歯に金属冠をかぶせている。違いは少年のは黒ずんでいるが、ジャックのは金冠であるという点。
○間違い暴き; キャプテン・サオ・フェンが初めて一同と会ってコインをとって耳に当てるシーンで、付け爪のしたに本物の爪の半分がはっきり見える。
○音声/映像の不一致; デヴィ・ジョーンズがオルガンを弾いている時、音程は低くなっているのにジョーンズの蛸足は鍵盤の上を上がったり下がったりして、音楽の流れとあっていない。
○連続性; イギリス海軍がシンガポールの隠れ家を襲い、戦闘が始まるときに一人の兵士が倒れたテーブルにつまずく。次の兵士を正面から撮ったシーンで、別の角度からまた同じ人物がつまづき、まったく同じ様子で倒れる。明らかに二台のカメラで撮影していたということである。
○連続性; 最後にウィルとエリザベスが浜辺にいる時、大写しになったときに、砂の上にカメラの台車のあとが現れたり消えたりするのが見える。さらに、足跡がさいしょとは岩の反対側に移っている。
○誤って報告された例; シンガポールの街は、この映画の設定の時期よりも後に築かれ名付けられたとよく指摘されるが、実際には「シンガプラ」という名──「ライオンの都市」の意──は14世紀に最初に付けられた。
○時代錯誤; 船から船へロープで飛び移る時に、一人の海賊が「ジェロニモ!」と叫んでいるのが聞こえるが、ジェロニモが生きたのは1829年から1909年である。
○地理上の誤り; 映画でシンガポールの港として描写されていたのは、明らかに山々に囲まれた港湾だった。実際にはシンガポールは小さな平らな島で一番高い山Bukit Timahでもわずかに海抜164mである。
○連続性;ブ ラック・パール号が砂から海へ引き出された直後、船の舳先に係船索があるのが見える。その後シーン毎に綱は消えたり現れたりする。
○その他; 海賊がシンガポールの海賊の隠れ家にこっそり侵入するとき、(一見)鉄のように見える円形の鉄格子が行く手を阻む。猿のジャックがミュージック・ボックスを鳴らし出したら海賊たちは横木をのこぎりで切り始める。次のシーンで格子を取り去るが、格子はそのままの形をしている。(格子は四隅を切り取られたのであって、最初に仕事に取りかかったように中央を切り抜いたのではない)
○時代錯誤; 冒頭、多くの人々が海賊に与した咎で絞首刑にかけられる。足もとの跳ね戸は1880年までは使われていない。
○間違い暴き; バルボッサに率いられた中国船のクルーがジャックを救うために航海しているとき、星の光りを反射している水の映像があるが、反射が星空と合っていない。
○事実との相違; ベケットがダッチマン号をサオ・フェンの追跡に向かわせるとき、部下に命じて連絡させる。今日のように手旗信号で行われる。しかしながら、18世紀のイギリス海軍は、海兵が甲板で行うのではなく、いくつかの組になった旗を船のマストに掲げて連絡している。
○間違い暴き; ブーツストラップ・ターナー(靴ひものターナー)が初めて現れる時、特殊メイクの終わった端、首筋の下のほうに素肌が見える。
○間違い暴き; ジャックがブラック・パールを引っ張ろうとしたとき、使っているロープはピンと張っていない。ところが、ジャックは体重をかけて引いている。
○連続性; 営巣に入れられたカリプソがデヴィ・ジョーンズと話すときに、右目のマスカラが涙で流れている。ところが、次の切り替えで彼女のメイクは元通り完璧に戻っている。
○時代錯誤; シンガポールは中国系海賊の砦として描かれているが、実際のところ、19世紀中葉から20世紀初頭の大英帝国の支配下で移住を始めるまでは、中国人はシンガポールに元から居住していたのではなかった。
○連続性; (含むネタバレ)結末近くで、ウィルと共に浜辺にいるエリザベスの右目のそばのあざが出たり消ええたりする。二度目は10年後にウィルを待っている時も同様。(エンドクレジットの後)
○連続性; (含むネタバレ)サオ・フェンが殺される時、エリザベスの被っている帽子が飛ばされる。髪型がそのあと変わり続ける。ほとんどの髪が下りた状態から、ほんの少し房が垂れ下がっているところへ変わる。続く数シーン、クルーが彼女をキャプテンと認め、彼女がノリントンと話すシーンでもめまぐるしく変わる。
○連続性; (含むネタバレ)最後で、ジャックのペソ銀貨(piece of eight )が帽子の下から見えている。

また、これは自分で調べてわかったことですが、ミストレス・チェンを演じていたのはタカヨ・フィッシャー(本名たかよ・つぼうち)さんという日系の方。
また、ヤング・ウィル・ターナーを演じていたのは、「シャーロットの贈り物」でウィルバーの声をやっていた、ドミニク・スコット・ケイでした。


パイレーツ・オブ・カリビアン──アト・ワールズ・エンド

Poc_awe_1  パイレーツ・オブ・カリビアン;ワールドエンドを見に行きました。かなり遅くなってしまいましたがw
さて、映画レビューはまた時間のある時に回すことにして、今回はIMDbで取り上げられていた、PoC;AWEの映画のトリビアを簡単にご紹介したいと思います。
トリビアとは言え、かなり映画の内容に踏み込んでいますので未見の方は、ご用心ください。特に最後の項目はIMDbでもネタバレ注意の部分にありましたので。
簡単な訳ですから、間違いがありましたら、ご容赦下さい。大して興味を惹かれない部分は飛ばしました。中にリンクをつけたのは、途中で偶然見つけたので参考までに。

Trivia forPirates of the Caribbean: At World's End (2007)
○まだ脚本が完成する前に撮影を開始した
○シャドウ・オブ・パール号の撮影のために60フィートのBP号の前半分のレプリカをユタ州の塩の平原に建造。撮影予定は19日、実際には4日
○ドイツで公開されたシリーズは題名が統一されていなかった。第一作は「カリブの呪い」第二作「パイレーツ・オブ・カリビアン──カリブの呪い2」第三作「パイレーツ・オブ・カリビアン──世界の果て」
○エンドクレジットのあとにボーナス・シーンあり
○プリントフィルムは「ラミー(ラム酒から──大酒のみ)3」と銘打って劇場に配給された
○世界の果ての滝から落下した直後スクリーンが暗転する、その時おどろおどろしい音楽と声が聞こえるが、ディズニーランドのアトラクションライド「カリブの海賊」で用いられている物である。一番よくわかるのがポール・フリーのドクロと交差した骨(スカル&クロスボーンズといいます)の声、不吉にもライドに乗る客に「死人は何も語らない」と脅かしている
○バルボッサのファースト・ネームが始めて映画で使われた。それはヘクターだが、第一作のDVDのコメンタリーで明かにされている。
○海戦の直前、バルボッサ、エリザベス、ジャックがVOD側の代表と対決するシーンはセルジオ・レオーネ監督の「マカロニ・ウェスタン」のスタイルを踏襲している。特に三人が徐々に近づいてくるシーン、交互にそれぞれのキャラの顔の超クローズアップを見せる点、もちろん音楽も1968年の「ウェスタン」のハーモニカのテーマを彷彿とさせる。
○海賊の首領の一人ミストレス・チンは実在の中国の海賊、17世紀初頭に南シナ海を支配していた鄭一嫂 (or 石香姑)がモデル
○映画の最後のシーンでオーケストラはレッド・ツェッペリンの「天国への階段」を短縮して演奏している
○シリーズ初の映画冒頭のクレジットシーンがある
○猿のジャックが震えているシーンは、猿を震動する箱の上に座らせて撮影した
○歴史上の事実として海賊の評議会が実際にあった
○海賊達が「掟の書」を運び出したとき、バルボッサが、掟は「モーガンとバーソロミュー」によって定められたと言う。これは大海賊ヘンリー・モーガンバーソロミュー・ブラック・バート(準男爵/浅黒い男など諸説あり)・ロバーツへのオマージュである。 ヘンリー・モーガンは当時、ポルトベロ(当時はフォート・ノックス)を含む難攻不落と思われていた都市を陥落させ略奪した事で有名である。黒髭やキャプテンキッドほど有名ではないが、冒険的な企てを首尾良く達成した点では二人に比肩している。 また、優雅な衣服や宝石が好みだった(彼によって今日の海賊の原型のイメージが定着したと言える)。 最初に部下の乗組員に守るべき厳格な掟を定めた。違反者は死の苦しみを味わされた。三作を通じて引き合いに出された海賊の掟はこの条項から指針を得ていると思われるが、モーガンが死んだとき、ロバーツはわずか6歳であったことから、ふたりが知り合いであった可能性は、まあ少ないであろう。
○バルボッサは数シーンでイーグル・スカウト・リングをはめている。この指輪は「イーグル」というボーイスカウトの最高位を極めた者を示している
○海賊船によって揚げられた旗は実際の世界の海賊の旗を元にしている
ムーディ(赤い旗に、黄金の聖杯、腕とナイフ、ドクロと交差した骨)、チュー(反り身のナイフ(カトラス)と腕)、ド・ヴラン(ドクロと交差骨を棍棒にしている男)、ロバーツ(骸骨と躍る男)、ロウ(赤い骸骨)。BPが掲げた旗はラカムのドクロと交差したカトラスナイフ。
○ラゲッティとピンテルが劇中で名前を呼ばれたのは本作が最初
○海賊の典型、片目会いパッチが出てきたのは三作でこれだけ
○ジョニー・デップが演じるジャック・スパロウは最初33分間登場しない
○イタリアでも公開名がさまざまに変わった。第一作「新月の呪い」第二作はオリジナルとの折衷「パイレーツ・オブ・カリビアン──ゴースト・チェストの呪い」第三作に至って、やっと正しく訳された題名に落ち着いた。
○「ウィルヘルム、スクリーム」大渦の中での戦いのさなか、爆発音の中で誰かがこう叫んでいるのが聞こえる
○映画の最後で小舟から海賊旗(ジョリー・ロジャーと呼ばれている)が飛ぶが、これは実在の海賊、ヘンリー・エヴェリが旗を飛ばしたことへのオマージュ
○緑の閃光は実際の現象だが、ごく稀に日の出と日没時に海でもっともよく観測される光学現象である。大気による光の反射が蜃気楼によって増幅されることによって起きる。
○映画の最後でバルボッサが「若さの泉」を探しに行くと乗組員に示すが、海図の肝心な場所が盗まれていて果たせない。次のシーンで小舟に乗ったジャック・スパロウが海図の回転部を聖杯の形に合わせると、「若さの泉」の在処が×印で明らかになる。その×印は、なんと皮肉にもフロリダ──キャプテン・ジャック・スパロウが今日も生きている「ディズニー・ワールド」である!

映画をご覧になった方にはかなり面白かったのではないでしょうか?
明日はgoofs、ネタバレその他間違い探しやうっかりのように、ある意味重箱の隅を突っつくような事ばかりあげつらった項目を簡単にご紹介してみたいと思います。お疲れさまでした

とりあえずアカデミー

明日というかもう今日ですが、アメリカで2007年アカデミー賞受賞式があります。ってことで、例年通りWOWOW視聴者のわが映画友のお宅に朝から押し掛け、最後まで見てこようと計画しています。
午前9:30からといっても解説、赤じゅうたんと実際の始まりまでは30分は余裕があると見ました。洗濯すませて出られるかな?
もう年中行事化していますが、アカデミー賞受賞式がライブで入るのをあれこれいいながら、おせんにキャラメルならぬ、コーヒーにお菓子、正午ともなれば、持ち込みのお弁当食べながらひたすら見て興じて楽しむのです。
これはもう楽しい。賞の行方ももちろん興味津々ながら、途中でおおよそ流れがわかってしまうのも毎度のこと。まあお祭りということで楽しまなきゃ損ですね。
会場にいるスター達の様子が見られるのも楽しみの一つかな。ファッションも楽しみだし。
昨日押っ取り刀で、とにかくドリーム・ガールズだけ見てきました。
よかったですよ、懐かしいサウンド。ジェニファー・ハドソンがさすがノミネートされるだけあって、ビヨンセもかすんでいました。
さあ、どういう結果が出ますか、お楽しみに!!

The Lake House──イルマーレ

Lakehouse_s6月頃に一度これについて書いたことがありますが、本日やっと劇場で見てきました。
夏映画とクリスマス映画の狭間で、いわゆる「秋映画」はロマンス物、文芸物が多い落ち着いた時期です。中にはアカデミー狙いの小佳作が顔を出すことも時々ありますね。

さて、この映画は、そのような野望もなく、甘きに流れず、色めいたシーンもなく、ある意味淡々と、幾重にも重なった不思議な縁で時を越えて結ばれていく男女を、シカゴという街自体の歴史時間を封じ込めたような背景と共に、スケッチしたような作品です。

深みは……ありませんが、スタイリッシュで、洗練されていて、さらりとした風が吹くような情感を見る者に感じさせてくれる映画です。
タイムパラドックスが幾つか見られて、そこで批判の声があるようですが、いつもならTPに関しては、私もかなり重箱の隅を突っついてあら探しをするのですが、この映画に限っては、そこで評価するのは的はずれかなと言う気がします。
時系列でどのような事が起きたかは、最初の2004年から最後の2008年に至るまで、Wikipediaにまとめてありますので、疑問のある方はご参考になさってください。ただし、あくまでもネタバレですからご注意のほどを。

個人的にはキアヌよりもサンドラの演技の方に共感できました。
やはり女性は地に足が付いている。夢想はしない。たとえこの映画のように全く現実的ではない状況に面と向かって、納得出来ないなりにもその流れに流されて行っても、どこか現実との接点を失わない──すぐにでも夢の世界を切り上げて現実世界に戻ってこれる強さを持っている、それを感じました。
男が夢を紡ぐ仕事──建築家であるのに対して、女は医師というこれ以上現実的なものはない職業。
男は父親を否定して、超克して、最後に許す為に仕事をするけれど、女は旗を振りかざさない、つまらなく見えようとただ毎日の仕事を一つずつ片づけていくのみ。理想も野望もないと批判するのは簡単だけれど、とどのつまりは人間の営為なんて多少の違いはあっても、そのような物ではないのだろうか。
サンドラは実にうまく日常の積み重ねを見せてくれた。必要以上に深刻に重くもならず、かといって倦怠感も見せず、私たちが毎日些事に時間を取られてやりたいことの1割もできない、だからといって嘆きもせず自暴自棄にも捨て鉢にもならず、また次の日、ささやかな希望を抱きながら朝を始める、まさにそういう生活仕方を見せてくれたように思う。

結局、二人を引き離した原因を突き止めたときに、一番の行動力を見せたのが女性であり、すべてに違う結果をもたらすことになったのも彼女の熱い思いだった。男性は(影をひそめ)受動的に、書かれた手紙に従って時の至るのを待った……だけだったのですよね

まったく映画の内容に関係ないこと書いてしまいましたが、特殊遠距離恋愛についてそれほど書くことがなかったので、純粋な感想として取ってください。

キアヌと父のクリストファー・プラマーの関わりがよかったですね。特に亡くなったの短いシークエンスにお互いの心持ちがよく現れていて唯一泣けたところでした。
シカゴの街、湖の風景も一人前の重要登場人物(?)でした。重厚さと清潔な開放感がとても印象的でした。

脇役に前述のプラマーやサンドラの上司になる女医、ショーレ・アグダシュルー(何度言っても覚えられないw)がいい味を出し手今した。特に後者がサンドラと一緒に飲む短いシーンは、ふと娘の話をするあたり、仕事がすべて思える様な人が、実は家庭や趣味といった個人の素顔を覗かせて、また新たな人間的な魅力を感じさせてくれるふくらみを暗示したいい場面だったと思います。

韓国版イルマーレと比べると、洗練された大人の物語になったという気がします。どちらを取るかと言われれば、やはりこちらになるかなあ。

付記
TPの扱いですが、最後はハッピーエンドになるべくして作ってあるのはわかるのですが、意地悪に見ると……サンドラが書いた手紙でキアヌが道を渡るのを止めた時点、、2006年2月14日が分岐点になってキアヌが生きている未来と死んだ未来が枝分かれします。サンドラの記憶ではキアヌは自分の目の前で死んだのですからこれは変わり様がなく、分岐した未来の方でキアヌは生き続ける。つまり2008年に手紙を書いた方のサンドラの前にはいくら待ってもキアヌは現れないということに──彼女の主観としては手紙は失敗に終わったことになってしまいます。
それとも百歩譲って彼女の手紙が功を奏してキアヌが道を渡らなかったとしても、彼女の記憶はどうなるんでしょうね。あの時点から事故があった記憶と何も起こらず母親と昼を過ごした記憶が二重になるのかしらね?
「オーロラの彼方に」では、特にきちんと書き込んであるノベライゼーションで、過去が変わるたびにジャックの頭に二重、三重の記憶が流れ込んできて、母の死んだ記憶、母が生きている記憶、父の死んだ記憶、父の生きている記憶……それらが混在するように描写してありますが、これもちょいと無理があるような。
もう一つ、最後の警告の手紙は2008年2月14日に書かれているので、当然受け取りは2006年2月14日になるはず。そのためにはキアヌは一度市内からレイクハウスまで手紙のあるなしを確認しに帰らなければ受け取れない。でも、あの時点でキアヌは今日が2月14日だと気が付いて昼休みに間に合うようにデーリープラザへ急いだはず……当然手紙は読めないですよねえ。
イルマーレでは、そもそも手紙をやりとりする前、つまり彼女がイルマーレを去る所に男が現れて、彼女が書いたばかりの手紙(2年の歳月を経てくたびれた同一の手紙)を手にして、これから起こるはずのこと、起こったはずのことを話す、というエンディングでしたが、これも空しい──彼女にその記憶がなかったら、同じ感情を持つかどうか、それすら未知数ですから。
その意味でハリウッド版のほうがエンディングはTP抜きだったら十分納得できますね。

Lois & Clark

L_and_c1 onionさんお薦めの「新スーパーマン」の原題です。以前にTVでも放送をしていたらしいのですが、全く知りませんでした。
今回お薦めで見始めましたが、しっかりはまってしまいました。
ファーストシーズン(11巻)だけレンタルでコンプリしました。でも結局ボックス1,2を購入しました。
1993年から97年までの放送でしたが、今なお根強い人気もあるようです。実質的には今夏の「スーパーマン・リターンズ」に便乗してそれまでのスーパーマンものを一気にDVDでリニューアルして販売し出したようですが、商法にまんまと引っかかったというか、お陰でこんな楽しい物に出会えたというか……

他のスーパーマンものとの一番の違いは題名にもあるとおり、クラーク・ケントのアイデンティティの方が中心になっているということでしょうか。実際スーパーマンになっているときよりも、クラークでいるときの方がずっと魅力的でチャーミングです。
L & Cの(勝手に略してますが(汗)のロイスこと、テリー・ハッチャーのキャラが大変よろしいのです。鼻っぱしが強くて自分勝手なのに妙にロマンに恋する乙女チックなところがあって、素直なロイス・レーンが魅力的です。(あ、同じ形容詞が並んでしまった)
というのも、今までのロイス・レーンはすべて女性の目から見ると反感を持ってしまうキャラばっかりでw リーヴ/スーパーマンのマーゴット・ギターは嫌いなタイプ(うるさいし、女性であることを逆手に取っているような勝手さが鼻について仕方がなかったし)ラウス/スーパーマンのケイト・ボズワースにはまったく魅力もなく母親役としても共感できなかったので(あんたも勝手だし、ある意味打算的ね!としか……)

L & Cはスーパーマンものというより、ラブコメといったほうが当たってるのかもしれませんが、とにかく二人の掛け合いが楽しい。第1巻特典のコメンタリーで脚本を担当したデボラ・レヴィンが、このドラマはロミオとジュリエットで行くつもりだったと、結ばれそうで決して結ばれない二人を描きたかった……と言っているように、見ていて、思わず「ほら、気が付けよ」とか声をかけたくなるようなやきもきするすれ違いや、反対に拍子抜けの、力の抜けた楽しさ、思わずにっこりさせられるようなほっとしたゆとりがあるのです。
軽妙な会話の魅力も大きいと思います。DVDを英語字幕にしてみると、実に細かいところにお楽しみが隠れていることがわかって、全巻見直しました。IMdbに名画面の台詞を網羅してあるのですが、それを読んでいると思わず顔がほころんで来ます。うぉー、早く次が見たい……アメ版リージョン1でなら2,3,4シーズンがあるんですが(いけない、このままでは勢いで購入してしまいそうです)

さて、少し脱線しました。さらにこのドラマで忘れてならないのが、クラークの両親です。映画では父親は、早くに亡くなってしまいますが、TV版では健在。なかなか活動的で息子のピンチには二人でメトロポリスまで出てきたりします。いつもはカンザスの田舎に住んでいますが、スーパーマンにしてみれば立派に通勤距離圏内ですよね。だから1週間に1回はママの手料理の夕食を食べに実家に帰るようです。考えてみればこちらの方が当たり前ですw そこで色々悩みをお父さんに相談したり、元気なお母さんにはっぱかけられたりして、また元気になってメトロポリスへ帰るんですよね。こういうホームドラマ的な暖かさがまた、たまらなく楽しい。
スーパーマンの活躍よりも、秘密のアイデンティティを抱えながら、クラークとしてロイスの愛を勝ち取りたいと健気に頑張るケント本人にライトを当てたドラマの作りが何より楽しくて仕方ありません。
クラークを演じているディーン・ケインの笑顔がまたこれ、かわいくて、思わず一時停止ボタンを押してしまうわたしも相当いかれてますけどねw

気に入っている名台詞を一つ。
[about his break up with Lois]
Clark: So what are you saying? That I should go crawling back on my hands and knees?
Martha: No, honey, fly back, it's faster.
[ロイスとの別れ話が出て]
クラーク; じゃおかあさんは僕にどうしろっていうんだい? 彼女の所へ両手両膝をついてはいつくばって帰れっていうのかい?
マーサ;  いいえ、飛んで帰りなさい。その方がずっと速いわ。

まだ当分この熱は冷めそうにもありません。こまったものです。

女性化したスーパーマン

Superman_returns 2006年8月30日、旧作スーパーマンでジョナサン・ケントを演じたグレン・フォードが亡くなりました。
新作の公開とあまりにタイミングが合いすぎて、一層惜しまれます。

※末尾に少し追記をしましたのでお時間のある方は、もう一度ご覧下さったら幸いです。

スーパーマンが帰ってきました。
思い起こせば二十数年前劇場で見たスーパーマン、当時でもこの超人コンセプト、このコスチュームはぎりぎりアナクロニズムと滑稽さの瀬戸際だと思ったものです。
しかし今回は寛容さと期待を持って見ることができました。冒頭の暗転、スーパーマンⅡの終わった直後から5年目の話であることが述べられ……

You will travel far, my little Kal-El, but we will never leave you-even in the face of our deaths. You will make my strength your own. You will see my life through your eyes, as your life will be seen through mine. The son becomes the father. And the father, the son.

マーロン・ブランドの声が聞こえます。そして、あの文字が光芒を引きながら拡散して、ジョン・ウィリアムズのファンファーレが轟き、身見る者すべてに、「あの」スーパーマンが帰ってきたのだと直感させるのです。
しかし、歳月は撮る者も演じる者も観る者も変えていたようです。以下は今回のスーパーマンを観て、何かとは特定できなかったものの、引っかかりがあったところ、お友達のonionさんのレビュー を拝見して、それと気づき、再度映画館に足を運び、確認して来たことをいくらか書いてみたいと思います。

スーパーマンが優男になった……最初の印象です。
隆とした筋肉、2m近い上背、あのコスチューム、リーブ演じたスーパーマンと変わっていないはずなのに何かが決定的に変わっていました。おそらく初回に感じた違和感は、一言でいえばスーパーマンの中性化、もしくは、更に進んだ女性化であると思われます。
なぜそう感じたのかというと、まずonionさんも指摘しているように、プロポーションから受けるイメージの変化。身体に比して肩幅が狭く感じられ、スーパーマン=逆三角の上体のイメージだったのに、なで肩に感じられます。身体つきも、見事な筋肉はあるのに、ボディビルマッチョというより、ぐっとソフトになっています。またローライズのパンツのせいで、胴長に見えるのも「のっぺり」感を助長しているようです。
さらに、CG処理の弊害であろう皮膚のきれいさ。初回に、コーカソイドでありながらどこかアジア系の要素を感じたのは、黒髪、黒い眉以外にきめの細かい肌のせいだったと気が付きました。ズームされても当然あるはずの顔の細かい毛穴とか、見えるはずの髭の跡も極力消してあります。もちろんスーパーマンは地球人とは違いますから無くて当然ともいえるのですが、人間っぽさが消えました。

では、どうしてこのような変化が起きたのでしょうか。あくまでも私見ですので、一つの見方として読んでいただけたらと思います。
男性中の男性であるはずのスーパーマンから、極力セクシュアリティを省いた理由は、ひとつはそのような対象として観られることを恐れたからではないでしょうか。
スーパーマンはホモセクシュアルの男性のお気に入りのキャラだといわれています。男性美の極致で、しかも無敵の力を秘めた肉体を持ち、真摯な正義感、good will の持ち主──そのキャラをいやが上にも強調するような描き方を、非常に鋭敏な感性で持って避けたのではないかと思われるのです。
あのぴっちりタイツ姿で、どうしても視線が引かれるのが下半身です。
しかし、大写しになったのは上半身のみ。全身が現れる時には歩いているか走っているか、もしくは前半の山場、シャトルを持ち上げたときのような「様式化」したスタイル。美しさを感じましたね。
実は再度見たときには、彼がどのような体勢をとるか、そこに注目してずっと観ていたわけですが、いわゆる「仁王立ち」スタイルの少なかったこと! 空からゆっくり垂直に降りてくるときの軽く片足を曲げた姿勢。初回は自然さを感じましたが、二度目には作為を感じました。たとえレックスにこてこてにやられる場面でも、どたんと上向きに倒れる姿勢は取っていません、必ず片足を立てています。コミックのスーパーマンの体型と比べてみると、太股の強調が控えられています。ポスターの姿勢もほとんどが上からの視線、上半身の強調と自然に腰から下が隠れる角度で描かれています。

さらに、空中で停止する場面が幾つかありましたが、その時左右に広げる手の指先に注目。バレエの型のような繊細な形を取っています。(X-MENでもストームがマントを閃かせながら垂直に降りてくる所に同じような、軽く片足をまげ、指先をすっと伸ばした型があったと思います。ブライアン・シンガーの好みなのでしょう。ただストームは女性なので違和感を持たなかったのですね)
力尽きて空中を落下する時でさえ、アルカイックな微笑みを浮かべ指先を伸ばした繊細感を湛えています。この指先の繊細さからも、ごつい男性美は感じられません。思うに、生々しい男性らしさを消して中性に近づけようという思惑が、功を奏し過ぎて、行きすぎて女性化すらを感じさせられるようになってしまったのではないでしょうか。
しかし、決して嫌な気分はしません。女性化によってスーパーマンの剛胆さ、無敵さ、よりも繊細さ、脆弱さがうかがえて、そんな物もてるんか?というほど重い物を持つときには、軽々とではなく、渾身の力を振り絞ってというデティール描写が見えて、むしろ生身のスーパーマンとして身近に感じられましたから、初期の目標は十分達成されていると思うのですがいかがなものでしょうか。
個人的に気に入っているシーンは幾つかありますが、地球を下に見下ろしながら(どういう訳かマントがさわさわと風になびいているのですがw)物思いにふける場面、この記事の冒頭に上げた画像もそんな感じですね。それと、ロイスに助けられたあと、島に戻るために雲の上に出て太陽光を浴びてエネルギーを取り戻すところ(前半でロイスの口からエネルギー源は太陽光、弱点はクリプトナイトと説明をされていますね)、あのときも拳のズームでその課程を描写してましたっけ。

今回はスーパーマンの強さと同じくらい「優しさ」と「細やかさ」「哀しさ」すら感じてしまいます。ロイス・レインをストーカーまがいにつけ回したり、大気圏外まで登って物思いに沈んだり(例の足曲げポーズで)、先程書いた落下シーンの哀しいほどの微笑み等々。
どちらかというと、これは女性の目から見ても、「絶対的な強者、頼る一方の存在」というより「母性本能をくすぐられる弱さを潜めた強者」なのです。
期せずして端的に表しているのが地球に帰ってきたシーン。おそらく空気との摩擦で表面が燃えさかる宇宙船の炎を背景にすっくと立ったスーパーマンのシルエットが見えるものと期待していましたが、よろよろばったりと育ての母親の手の中に倒れ込み、(長旅を終えて疲れ果てて帰還した息子のイメージそのもので)老いた母は"My boy..."とかき抱くのです。このシーンがなんら抵抗無く受け入れられたのも映画全体の基調を定めているように思われます。

音楽にもその傾向は顕著でした。J・ウィリアムズのファンファーレが高らかに響いたのはメインタイトルとエンドクレジットの時のみ。もちろんあの勇壮な序奏を感じさせられる箇所は多かったものの、同時に女声コーラスを使った「細やか路線」が多かったこと……エンドクレジットも最後まで女声でしたからね。
また第2テーマともいうべき緩やかなメロディラインはジョン爺のオリジナルテーマの一部を倍以上にテンポを落とした変奏になっています。メロディラインの嫋々とした流れ、連綿と次々に紡ぎ出して行く様子は、それだけ聞いていても心をかき乱されるような哀愁に満ちています。
すべてがすべてそうだというつもりは全く無いのですが、父と子という男系の繋がりがサブのテーマであるのにもかかわらず、非常に女性論理に傾いた(だからこそ、見ていて好感を持ったのですがw)作り方であったような気がしてならないのです。

最後にジェイソンにかける言葉
You will be different, sometimes you'll feel like an outcast, but you'll never be alone. You will make my strength your own. You will see my life through your eyes, as your life will be seen through mine. The son becomes the father and the father becomes the son.

父のジョー=エル(マーロン・ブランド)から伝えられた言葉と後半は同じですが、端的に父から子へそしてまたその子へと伝えられる孤高の生き方に対する覚悟のように聞こえますが、ブランドの言葉はそのように、ラウスの言葉は柔らかく穏やかに聞こえるのまで、前作との間におよそ三十年近い年月が経ったことを否応なく思い出させくれるようです

付記 
久々にC・リーヴ主演のリチャード・ドナー版スーパーマンを見ました。
忘れていたけれど、今回観て、いかにスーパーマン・リターンズでこの作品に対するオマージュがたくさんあったか改めて気がつきました。
メインタイトルと音楽はもちろんのこと、ルーサーが富豪婦人(リーヴズ版スーパーマンでロイス・レーンを演じた女優さん、ちなみにクリストファー・リーヴ版で走る列車の中で少女時代のロイスの横にいる母親役もやってます)の遺産で我が物にした船のラウンジに備え付けてあったライブラリーですね。ルーサーがクリプトナイトのことを調べるシークエンス、まんま旧作のオマージュですね。旧作ではグランド・セントラル駅地下のアジトでした。リターンズを見たときに今時ライブラリーでもないだろうに、最新データを調べるんならネットでしょう! と違和感を感じましたよね。そう、78年に敬意を払っているのです。
他にも実に細々したところで台詞が引用されています。
ロイスが How many "f's" in "catastrophic"?  と聞いていますが、ロイスのスペリングに弱いところは前作にも何度か登場。同じパターンというのが楽しませてくれます。
シャトルを分離してジャンボを救った後の"I hope this hasn't put you off of flying. Statistically speaking, it's still the safest way to travel. " これはヘリコプターから落下したロイスを救ったあとの台詞そのままでした。その後ロイスが気絶するところまで丁寧になぞっていましたね。
クラークが思わず言う "Swell!"(すごい、とか素晴らしいの意) ロイスに今時そんなこと言わないわよと笑われた言葉。
ルーサーが"What did my father say?"とキティに聞くと"Get out!" 
前作はミス・ティシュメイカーが笑わせてくれました。ルーサーが見せる土地にこだわる所も同じなら今回はサン・アンドレアス断層以東とか、オーストラリアではなくて、自分で造ってしまおうという希有壮大な話になっていて、しかもCG技術の進歩のおかげで、荒唐無稽が実際にあることの様に描かれて、どんな脚本でも(チープに見えなくなって)ありの時代になったなあと、的はずれなところで感心することしきりでした。

もう一つ、衣装について。スーパーマンのあの赤・黄・青のonionさんの言葉をお借りするなら「信号機コスチューム」あれだけは見ている方が気恥ずかしくなってしまうのですが、旧作と比べて一目瞭然に赤色をぐっと抑えて暗赤色にしてあるので落ち着きが出ました。マントの丈が長くなって後ろ姿は長い重量感のあるマントを羽織っているようにしか見えません。背中のべったり「Sマーク」も消えました。胸の「S」もぐっと小さくなり、エンボスでレザーの素材感が出ています。全体に重量感が出てチープさが少なくなりました。黄色のベルトも細く、青のバランスが大きくなった分、ぐっと見やすくなりました。(だからのっぺりみえたりして)

同じテーマで人物も同じでほとんど設定を変えないで、しかも確実に新しい時代に合う物を作る苦労があちこちに見受けられた映画でした。

M:i:III

今日はM:i:IIIの先先行なるものに行ってきました。
うーん、MI:2よりはよかったかなあ。ちなみにジョン・ウーが好みじゃなかったりするから。
見方によってはずいぶん忙しい映画でした。アメリカ→ベルリン→アメリカ→ローマ→アメリカ→上海→アメリカと、よう動いてくれました。
画面の粗さにも...別にフィルム・ノワール的なものを狙っていたのではないと思うんですが、時々気になりましたし、同時に色調を抑えていた部分もありましたね。

さて、映画は相変わらず「トムちんのトムちんによるトムちんの為の映画」でした。
2でもこれはもうMIじゃなくて、イーサン・ハント物語だと思いましたが、今回もその通り。だってトムが制作だものね。自分のかっこよさをどこまで見せたいのかな? 過ぎたるは及ばざるが……ということわざを教えてあげたい気分。
おまけに恋人~奥さん役の女優さん、ケイティ・ホームズそつくり。公私混同するなよ!

ところで、あの綿密な計算と役割分担で不可能を可能にするMIはどこに行ったんだろう? 2よりは仲間の活躍という点が強調されてはいましたが、どうも動き方がはらはら、薄氷の上を幸運に支えられた一か八かの作戦...なんというか面白くないのです。ローマのロケに時間を掛けたといいますが、バチカンへ入るにしては何というかお手軽でした。トムくんは司祭の服は似合いませんね。
かえってチェサピーク・ベイ・ブリッジの、軍用ヘリまで調達しての攻防戦は見物でした。
手際のよさ、と言う点で敵方に一本取られました。護送車の壁を瞬間冷凍??して剥がすあたり、なかなか面白かった。

物語のサブプロットにある内部密通者は誰かという疑問。これは黒幕が最初から「おれが疑わしいンだぞ」って言ってるみたいで見え見え。どんでん返しにはなり得ませんでした。
最大の見せ場か?と思ったある物を入手するために高層ビルに忍び込むのですが、入る所を見せたかっただけでした。入った次の瞬間に「ブツは手に入った」って...がくっ。一言で片づけられてしまいました。

フィリップ・シーモア・ホフマン、すごく悪い役で出てきました。大変お上手でした。
しっかりトムちんを食ってました。そうそう、雰囲気はレッド・ドラゴンをちょこっと思い出しましたね。

JJ.エイブラムズは最後の山場を日本で撮りたかったらしい。でも思うようなビルが無くて舞台を上海に変えたらしですね。中国も映画市場としては潜在力が大きいから多分考え直したのかも知れません。
かなりロケでは中国政府の援助があったみたいですね。たくさんの人が映ってました。

これは余談ですが、予告に「ワールド・トレードセンター」(ニコラス・ケイジ)が入りました。
アメリカはやっぱりあの事件も映画にしてしまったのです。内容は聞かなくてもわかっているけどあれは辛いものがあります。わずか1,2分の予告でもうぼろぼろ泣いてしいました。
M:i:IIIを見る前に大いに盛り下がってしまいましたよw

The Lake House(イルマーレ)

Lakehouse

日本ではまだ公開期日も未定の映画なのですが、そぞろに気を引かれたのでちょっと紹介です。キアヌ・リーヴスとサンドラ・ブロック……というとそう、あのスピードのコンビなのですが、今回はラブロマンス。
ぶっちゃけたはなし、キアヌって繊細に見えるけど、鈍感なんじゃ?また「スィート・ノベンバー」の再来?とか、サンドラこそお笑い映画に出てるけど、純正ラブロマンスも行けるの?また「恋は嵐のように」の再来?なんて思っちゃいましたよ。(注 どちらの作品も、わたしには……うげ...)
ところが、この映画なんだかはまりそうなやばい予感。結局の所、自分はこの手の設定が好きなんだなあと思いました。
場所はシカゴ郊外、湖の傍のボートハウスをキアヌが買うところからはじまって(彼の父親は建築家、父親の関係もいろいろあるのね)、ポスト(円筒形で郵便物を入れたり、来たりすると小さなサインの旗が立つあれ)に手紙が来る。差出人はサンドラ。二人はポストで文通!(この時勢になんというアナクロ!)を始めます。もちろん、短いノート程度の覚え書き。
そのうちに二人がこの家に住んでいることに気がつきます。──はい、そこの早とちりのあなた、どちらかが幽霊だなんてオカルトネタに飛びつかないでね!
どちらかといえば、「オーロラの彼方に」とか「バタフライエフェクト」ネタなのです。
キアヌがいるのは2004年の世界、サンドラは2006年の同じ日に生きているというわけ。
一切の合理的説明無し、ただ現象があるわけ。二人は文通を重ねるに従って何とかして会いたい、2年の年月を越えて一目でも……と思うわけです。
実は話しの大筋と公式サイトの予告を見ただけだからこれくらいしか書けないのだけれど06年のサンドラが木が欲しいというと04年のキアヌが苗木を植えて、それがあっという間に06年では茂るなんていうコミカルなシーンもありました。
往年の名画のように女性を乗せて出ていく電車、追いかける男性、あと一歩のところで二人は会えないという古典的場面も。
予告を見て、すっきり感というのでしょうか、嫌みのなさが気に入りました。
最後はどうなるのか...なにやらジェニーの肖像モドキの悲恋物語になるような気がしてなりませんが。

洋画には時の流れを越えた恋愛が、邦画には生死を越えた恋愛が、このごろやけに目に付くのですが、なんでしょうかね、人知を越えて、人の力では如何ともしがたい出会い、すれ違い、別れを、わかっちゃいるけど未練たらたらに、「昔を今になすよしもがな」って呟きながら、それでもなんとかしたいと思う人間の業みたいなものは、永遠の主題であり得るんですね。

インサイド・マン

Insideman エンドクレジットが終わって、最初の一言、いや~、面白かった。
ここの部分にはネタバレはありませんのでご安心下さい。
最初から期待は大きかったのです。
なにせ、クライヴ・・オーウェン、デンゼル・ワシントン、ジョディー・フォスター、クリストファー・プラマー、ウィレム・デフォー……すごい顔合わせ。どの一人取っても主役を張れる役者が揃っただけでも一見の価値あり。

ところが、話がまたよくできていました、というかわたし好みのお話でした。
ニューヨークのマンハッタン信託銀行に銀行強盗が押し入ります。クライヴ・オーウェンを首魁として4人の仲間。その場に居合わせた50人近くの客と行員を人質に取り、立て籠もります。計画された行動、不可解な目的。そして犯人は人質全てに犯人と同じジャンプスーツを着せ、マスク、眼鏡(アイマスクも)を着けさせます。これで犯人と人質の区別が警察につかなくなりました、人質の間でさえも個々の人が認識できなくなってしまいます。
ニューヨーク市警の刑事デンゼル・ワシントンは扱った事件で14万ドルの小切手が紛失して疑いを掛けられ、窓際に干されている身。犯人との交渉を任せられたデンゼルが向かった先の現場指揮官はウィレム・デフォー。警官の中にも人種偏見がある様子や、人種差別反対というきれい事では世間は渡れないというような辛口の現状認識も出てくきます。
膠着状態を続ける犯人との交渉を見守るもう一人の人物がいます。信託銀行の頭取、プラマー。自分の銀行の支店が占拠されているというのに、人質の心配よりも、もう一つ彼には今回の事件で絶対に明るみに出したくないことを抱えています。それで窮余の一作として、やり手の女性弁護士ジョディを雇い、事件に関与させます。
ジョディは珍しく敵役。人脈、恐らく弱みを握るなど、いろいろ策があるのでしょうが、市長を動かして事件現場に貼りつき、犯人との交渉を試みることに成功。
しかし、犯人はジョディの申し出を一顧もせずに拒絶。
そうこうするうちに時間は刻々と過ぎ、犯人の非現実的な無理ともいえる要求をかなえる期限が近づきます。
デンゼルはふと、気が付きます。時間の引き延ばしを謀っているのは犯人の方だ。人質も殺さない、金も取らない、一体目的は何なのだ?

犯人の真の狙いは? 警察の出方は? 銀行家の真意は? 人質の生死は? 

もう一度言います、実によくできた脚本。銃撃戦もカーチェイスも残虐シーンも濡れ場もなく、淡々と犯人の行為と会話、犯人と警察の交渉、弁護士と銀行家の会話、と延々と台詞が続くのにもかかわらず、この緊迫感は何? 一瞬たりともスクリーンから目を離せないこの誘因力は何なの?
最後の詰めが甘いという批判もあるけれど、この落とし前の付け方はわたしとしては大好き。見終わってすっきり(実は登場人物が何人か、これからどういう行動を取るか語らずのまま終わるので、後日談はどっちとも解釈できる余地があるのですが)。
映画に裏をかかれてすっきりもないのですが、そういわないといけないんでしょうね。

ここからネタバレがありますので、映画をご覧になる方は(絶対ご覧になることをお薦めしますが)Read Moreは絶対にお読みにならないように。あのおもしろさは実際にスクリーンで見て堪能するものです。

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ポセイドン

Poseidon 今週は2回映画に行くチャンスがありました。
火曜日に「ポセイドン」そして、土曜に「オーメン」。共に出遅れてしまって、先に批評や感想ばかりが耳に入ってきてしまいました。これだけ衆目を集めているリメイクなのだから、出来不出来に関わらずこれは見るしかなかろうと思いました。
二作見て、一束ひとからげに感想を書くのもどうかと思いますが、感想で共通するところもあるので、そのあたりから書いてみたいと思います。まずはポセイドンに焦点を当てて……

有名な前作を凌ぐのは至難の業です──

確かに画面処理、いわゆる見せ場のスケール、臨場感などでは時代による進歩を否定はできません。
ポセイドンは、最初数分でポセイドン号の全景をぐるりとパンしながら見せてくれる画面は感動ものです。どこまでが作り物かと邪念をもって見たり、あまりに本物らしく見える事に感激してしまう、何か変ですね。

大量の水と物量に物を言わせた転覆とその後のシーンの凄まじさ、これは確かに一見の価値はあります。とても前作の比ではありません。ただ、余りにリアル、余りに、根こそぎひっくり返って恐慌状態になるシーンが幾つも執拗と言えるほどに見せられると、人間というのは面白いもので、かえって恐怖や現実感がなくなるようです。

多分恐怖を感じているうちはまだ余裕があるのでしょう。精神を正常に保っている「たが」が外れてしまうと、どのような悲惨、凄惨な場面を見ても無感動になってしまう──一種の緊急避難と。
ここまで大げさなことは言いませんが、この映画の一番の見せ場にも実際そのような気分になってしまいました。
一番印象に残っている凄惨なシーンは厨房で人も含めて何もかもが、一瞬でそれこそぐしゃぐしゃっと寄せられひっくり返って雑多なものの堆積に化してしまうシーン。その余りのリアルさに連想したのが一昨年のマレー沖地震の津波被害...まさにあれを見たときと同じ気分になりました。

これほどの惨劇のリアルな描写を重ねながら、どうして前作の足下にも及ばないのか。
リメイクの宿命──展開を知っている。何人かが決死の脱出を試みて、一人、二人と減っていって、最後に主役級の自己犠牲があって、ほんのわずかが助かる。
いわゆるはらはら感がありません。主人公の法則(主人公は死なず、もしくは悲劇的に自己犠牲の上に死ぬ)も働いて、この人たちは死なないんだよね、死ぬのは雑魚キャラから...などという雑念が邪魔をします。
綱渡りをしたり、エレベーターシャフトを渡ったり、換気孔を這ったり、さまざまな趣向で下から上へ移動するのに、どうも現実感が湧きません。まるでダンジョンゲームを見ているようで、そんなうまいこといくの? と首を傾げることが何度も。しかも一般ピープルが、どうしてそんなに水泳がうまいんや?一介のちんけなギャンブラーが何階分にも相当するハイジャンプを、しかも水面下に何があるかも知れないところへどうして、瞬時に決断してやれるんや?どうしてそんなに長く息をとめていられるんや?と見ながら突っ込みたくなります。あまりに都合がよすぎるから。
生き残りをかけた脱出組にはお年寄りも女子供もいるのに、いやむしろこっちが多いのに、なぜか全員がネイビー・シールズのように能力を発揮して障害を次々クリアして行くほど、調子よすぎるという、嘘くささが鼻についてくるのです。

テンポは速く、始まったと思ったらもう大波転覆、めまぐるしく脱出劇が進み、ワンダウン、ツーダウン。あれよあれよという間に船底へついて、(どうしてバラストタンクの中へ出るのかが不明)最大の山場となるはずのカート・ラッセルの決死行為も、気が付いたらもう始まって終わってたw

批評に人間ドラマがない、といわれているけれど、このテンポだったら入れたくても入れられないんじゃないでしょうか。矢継ぎ早に起こるイベントの連続の間に個々の人間模様を入れていったらとてつもなくアンバランスな映画になってしまいます。事故が起こる前に少しだけラッセル-ロッサムの父娘のすれ違いとか、ドレイファスの失恋!とかマエストロの密航とか、エピソードがそれとなく挿入されていましたが、それが脱出劇の時に影響を与えるところが余りなくて、とってつけたようにしか感じませんでした。

でも観客の期待するところは、スペクタクルの大惨劇シーンもそうなら、個々の人間がそれぞれの人生を引きずりながら期せずして同じ船に乗り合わせ(慣用のつもりだったけど、まさに同舟だね!)生死の狭間で、その人なりの生き方の総決算のような行動を取るのを、俯瞰する楽しみでもあるのだよね。

前作、ポセイドン・アドヴェンチャーを初めて見たとき、正直言って震えました。
怖さじゃなくて、登場する人たちの強さに当てられてしまったのです。そして本気で考えました。どうしてキリスト教の牧師さんはあれほど強くなれるのかとか、足手まといだったおばちゃんがいざというときには身を挺して水に潜る、あんなこと一般人ができるのか、とか素朴な感動だったのですが、今にして思えばグランドセントラル式の群像ドラマを見るときに、誰か一人にでも共感できるか、感情移入できるか、または感動できればその映画はたとえようもなく甘美な(変なたとえでごめんなさい)色調を持つし、それらがなければ、どんなよくできた映画も、単にストーリーが面白い、CGがすごい、というだけの感想しか持てない映画になってしまいます。
ジーン・ハックマン演じる牧師が、常に自ら救いを勝ち取る努力をしなければならないと言って人々を助け励ましながら船底へ向かう。その間にも数々の障害を乗り越る、仲間の力を借りながら。でも一人欠け二人欠けして、最後には自らの力を出し尽くして最後には人間は無力だと神に祈りながら、自己犠牲の上に死んでいく姿に言いようもない感動を受けたものです。子供心にも牧師とおばさん(シェリル・ウィンタースね)の崇高な姿にまさにあてられてしまった、そういう意味を持つ映画だったわけです。

お気に入り、ドレイファス今回のポセイドンでは、それが無かった……残念ながら。
先程も書いたように、多少のシーンではちらりと感情移入が出来そうな所もあるのですが、感動に至る程長続きしないのです。
たとえば、恋人に捨てられたドレイファスが、生きる意欲を無くしていたのに、エレベーターシャフトでは、みずから足場になって、足のすくむウェイターに向かって「なんて名だ?」と聞き、「君の名が好きだよ、だから怖がらずにこっちへおいで」と声をかけます。ドレイファスのキャラを際だたせるすごく利いた台詞だと思いました。そして宙づりになって、ジョシュ・ルーカスから共倒れになりたくなかったら落とせ、とすごまれて"I'm so sorry"と繰り返しながら蹴り落とすシーンなど、もう1,2カット割ければもっと深みのあるシーンになり得たのに、と少し残念。

一番わかりやすかった、母子のあわやというシーン。大体親子ものに無条件で反応してしまうのは自分が子供を持っているからなのだけれど、自分でも、もし子供が水に沈んで助けられなかったら、死ぬまでいっしょにたとえ金網越しにでも指を触れあって、怖くないんだよと言い続けるだろうと思うと、ちょいとうるるとなりかかりました。でもこれも(子供が無惨に死ぬ場面を作るとPG15くらいになってしまうから)ちゃんと無事に助かります。せっかくテンション高まったのに、ぷしゅう……
要するにあんまりにもご都合主義なのです。何もばたばた死人をだして悲劇性を高めろと言うつもりはないのですが、設定がどう考えても生き延びられないような無理な設定にして置いて、もうだめだと思わせて置いて、奇跡的に助かる……この繰り返しが起きると、さすがにご都合主義だと呆れてきます。

そして残念ながらジーン・ハックマンに全く匹敵しなかったカート・ラッセルの自己犠牲行為。
やはり設定の器が小さかった……娘のために行くおとっつあん。これってアルマゲドンのブルース・ウィリスと同じじゃん、と見ながら突っ込んでしまいました。若いの、自分の方が適任だと思ったらさっさと行け! 一言愛してるといってくれなんて未練たらたらの命乞いしてるから、おとっつあんは行っちまったのさ。これは脚本のお粗末さ。もっと必然が欲しかったなあ。娘の愛する男のためにおとっつあんは死ぬのではないのです。あくまでも娘のために死にに行くのですよ!

だんだん文句たらたらになってしまいましたが、とにかく前作を越えるリメイクは難しいものです。
前作と同じテイストをどこまで保つか、前作にない新規をどこまで入れるか。その匙加減はどちらの比重が大きくても、必ず批判を喰らうから。
特に昨今、映画はCGのおかげで何事に寄らず超弩級の画面を作れるようになりましたが、その分あの手この手を見せるためにストーリー自体もあれこれ過剰、詰め込みになって、めまぐるしくこれでもかこれでもかと観客を翻弄したがりますが、それだけでは観客は楽しめないのです。
どこかに共感と感動を見いだせない限り。