my reading report

  • ■ Book Shelf

relative sites

Powered by Six Apart
Member since 07/2006

火星の人

Martian
最近二度繰り返して読む本はほとんどないのですが、この本は昨年、今年と二度読んだ稀有な例です。
理由は単純、ただ面白い―――これぞ究極のハードSFかもしれません。

火星探査第三次ミッション隊が強烈な砂嵐に見舞われて開始後6日で火星から撤退を余儀なくされます。退避行動の中で運悪く折れたアンテナに直撃されたマーク・ワトニー、生体モニターがフラットになったのを知った他の乗員たちは離脱不能になる限界までワトニーを探すものの、やむなくマークを残して火星を去ります。
ところがどっこいワトニーは偶然が重なって奇跡的に生存していた、ここから物語は始まります。

すでに映画化され先週から公開されているのでストーリーをご存じの方も多いと思います。かなり原作に忠実な映画化で成功作だと思いますが。
そこで、もし映画を見られて予告で煽られた深刻さがなくて物足りなかったり、こんなおちゃらけ……と感じられた方がいたら(確かにゼロ・グラビティ的な生還劇ではなかったので。というのもゼロ・グラは1、2分を争う生死をかけた挑戦で緊張感も半端じゃなかったのに対して、こちらは年単位のサバイバル、長期戦のうちにさまざまな困難を解決していくわけですから)ですから改めて言いたいです、どうぞ原作を読んで楽しんでくださいと。

語り口が一人称のログの形をとっていること、とても計算されたスタイルです。あくまでも読まれることは期待しないが(それでもいつか読まれるかもしれないという期待の元に)書かれた記録、という体裁なのでマーク・ワトニーの行った脚色が見られるという面白みがあります。(おそらくあまり情けない惨めなぐちを吐く自分の姿を見せたくないというような?)

酸素、水、食料すべて生存に不可欠な物資の不足をいかに解決するか、から始まって持てる知識の動員、手持ちのアイテムの(予想もつかないような)活用、その詳細を逐一記録。
そこにはご都合主義のラッキーなめっけものもないし、もちろん宇宙人の襲撃や都合よく他の国からの火星探索機が来ることもありません。
本来ならこれ以上ないくらいに事態は深刻、どう転んでも近々の死を免れない現実にマークの気力は萎え孤独と失意と絶望の負のスパイラルが延々と続いても仕方がないのですが、それを敢えてカットしたところがすごい!
おそらく記録に残さないところでそのような事態に陥る機会や危険性を描くという選択もあったのでしょうが、そこは読者の想像に任せるという姿勢が爽快です。

限りなく深刻になる代わりに読者はマークの技術者魂ともいうべき、目先の問題を一つずつ解決していく(つぶしていくともいう)バイタリティに喝采し、事態の悪化のどん底にいてもそれすら笑い飛ばそうという生命力に共感を覚えて惜しみない声援を送ります。成功に"Yes!"と飛び上がって喜び、失敗に素直に落ち込む(他人の目がないからね!私たちの忘れてしまった子供の純真さですw)様子がなんともほほえましいのです。

読み進めていくと、一難去ってまた一難的に次々とマークに襲い掛かる困難(大厄災というよりも、この流れで行けばおそらくこういう不具合が出るかも……というような、しかし解決なしには次へ進めない)にマークは絶対に転んでも負けないで何か対処法を見つけて生き抜く、そして脱出をやり遂げるという確信を持ち話の展開を心待ちにします。
問題の解決法にしても、突拍子もない思い付きではなく、いわばアポロ13式限られた手持ちのアイテムをいかに有効利用するか、そのプロセスを非理工学系の読者にも想像できるように現実に即しての展開、それも入念な実験とテストの末の運用など、そのまま現実に適用できるように感じてしまいます。マークの孤立奮闘のログに並行して地球サイドのNASAとマークを(結果的には)置き去りにしたクルーの地球へ帰還する宇宙船のプロットが絡みます。どのグループの描写も必要以上に重くならない、マークのシークエンスにうまく対比するような軽妙さがあります。
それぞれにマークの生還に向けて力を尽くす、また尽くしきれないところが丁寧に描かれます。

某国の(別にネタバレしてもいいんですけどw)推進ロケットを利用させてもらうアイディアにしても(そっちのマーケットを狙ったの?)笑えるし、最近よく話題に上るフライ・バイ航法をちゃっかり取り入れるところも冴えています。

パス・ファインダーのプログラムを修正して初めてNASAとテキストで通信できるようになったとき、「きみの発言は全世界に公開されているから言葉に気をつけて」といわれて、そうかい、そうかい、それじゃとばかりに卑猥語を打つ、あっぱれ反骨精神など惜しみなくちりばめられているマークのユーモアも、裏返せばマークの科学者としての自分を含めたものを客観的に見ることのできる能力に他ならないということなのです。こうやって数え上げていくと、結局この本は「面白い」という一言に収束していくようです。ぜひとも一読をお勧めしたい本です。

先週公開されたリドリー・スコット監督、マット・デイモン主演の「火星の人」(公開タイトルは「オデッセイ」)を見に行きました。長い原作なのでカットされたディテールが惜しまれますが概ね原作のテイストは保たれていたと感じました。何よりも深刻でなく、しかも見終わって爽快。ただし原作はもっと効果的なところで終っていました。映画ではさすがにあそこでエンドマークでは、まるでTV放映の映画がプッツン切れで終ってCMが始まるような気分的消化不良になるかもしれませんが、どうしても原作から入った者にとっては後日談は付け足しにしか思えないのです。
そういうところが小説と映画のクライマックスへの導き方の違いかもしれないですね。

有人火星飛行も現実味を帯びてきた最近、これはSF にしてSF に非ずなのかもしれません、うん、実際にあり得る話ですね。

アナと雪の女王――Let It Go 福井弁バージョン

いよいよ大本命、レリゴーことLet It Goの登場です。
こちらは公式Youtubeチャンネルを貼っておきます。



日本語版からの福井バージョンと原語からぶっ飛び訳の福井バージョンを載せます。
解題というほどではありませんが一つだけ。先におことわりです。
Let it go……往年のビートルズの名曲にLet it beってのがありました。この違いは? 
はい、そもそも"it"の意味するものはかなり広い、というか恣意的であります。文法では状況のitなどと申したりもしますが、その文脈でitが何を指すか話者も聞き手も了解しているという前提のもとで、目的語とか主語が必要だから一応これにしとこうか、として使っているのがitなんですね。
元へ戻すと、Let it beは、itがbe(今あるすがた、あり方)であらせよという(日本語になってないけど)つまりこっちの方が「あるがまま」には意味が近いと。あるがままに在らせよということで、飾らない作らないで、あるがままの姿で向き合えと言ってるようです。それに対してLet it goの方は"release"(解き放て)という意味が大きい、つまり出て行かないように抑えているitをもういい、行きなさいと解き放てということかな。
だから日本語版の「ありのままの姿見せるのよ」の中では「見せるのよ」ここに力点があると思った方がいいかも。隠していた「ありのままの自分」を臆することなく全面に出して(もしくは自分が発現するのに任せて)それを是とするという行き方かと。
ま、解釈は人それぞれだし、何か自分の心に感じるものがあればいいのですから、こんな与太ごとよりも福井バージョン二連発を楽しんでいただけたらと思います。

ありのままで

降り始めた雪は足あと消して      降りだした雪で足あとのうなって
真っ白な世界に一人の私        真っ白けの世界にうちひとり
風が心にささやくの            風が心にこそっというんや
このままじゃダメなんだと        このままじゃあかんよと
戸惑い傷つき               戸惑い、傷つき、
誰にも打ち明けずに           だれにも打ち明けられんと
悩んでたそれももう                      悩んでた、それももう
やめよう                                     やめるわ
ありのままの姿見せるのよ            ありのままの姿みせるんや
ありのままの自分になるの            ありのままのうちになるんや
何も怖くない                                 なんもおとろしない
風よ吹け                                      風、吹きね
少しも寒くないわ                            ちーっともさぶくねえよ
悩んでたことが嘘みたいで           悩んでたことがうっそみたい
だってもう自由よなんでもできる      なんでって、もう自由や  
                                                 なんでもできるんや
どこまでやれるか自分を試したいの どこまでやれるか自分を試したいんや
そうよ変わるのよ                        そやそや、変わるんや、
私                                              うちは

ありのままで空へ風に乗って        ありのままで空へ風に乗って
ありのままで飛び出してみるの     ありのままで飛び出してみるんや
二度と涙は流さないわ                 二度と泣かんで
冷たく大地を包み込み                 ちびたく大地を包み込んで
高く舞い上がる思い描いて          高くうかれる思い描いて
花咲く氷の結晶のように             花咲く氷の結晶みたいに
輝いていたい。もう決めたの        輝いていたいんや。もう決めた

これでいいの自分を好きになって   こんでいい、うちを好きになって
これでいいの自分信じて               こんでいい、うちを信じて
光、浴びながらあるきだそう         光、浴びながら歩きだすんや
少しも寒くないわ                       ちーっともさぶないわ

Let It Go

The snow glows white on the mountain tonight
夜目にも山の雪は白く光る
Not a footprint to be seen
足あともなんも見えん
A kingdom of isolation, and it looks like I’m the Queen
人里離れた隠れ里、 うちはさしづめ女王さんか
The wind is howling like this swirling storm inside
風がひゅうひゅう、 胸の内の嵐といい勝負
Couldn’t keep it in; Heaven knows I’ve tried
押さえられん、お天道さんは知ってる、やるだけはやってみたんや
Don’t let them in, don’t let them see
人に踏み込まれたらあかんで、見られたらあかんよ
Be the good girl you always have to be
お利口さんにしてんと。
Conceal, don’t feel, don’t let them know
隠すんや、なんも感じんと、人に知られんと
Well now they know
でも、ばれてもた

Let it go, let it go
もういい、いけいけ
Can’t hold it back any more
押さえとかれん
Let it go, let it go
かまわん、ばーんといけ
Turn away and slam the door
背中向けて戸をしめちゃれ
I don’t care what they’re going to say
なに言われてもへーちゃらや
Let the storm rage on
大荒れ上等
The cold never bothered me anyway
寒さなんて気にならん

It’s funny how some distance
けったいやな
Makes everything seem small
離れてみればみんなちっこい
And the fears that once controlled me
前はびびってたのに
Can’t get to me at all
こわさを感じん

It’s time to see what I can do
うちにどこまでできるかやってみるんや
To test the limits and break through
それを超えてもっとやるんや
No right, no wrong, no rules for me,
善いも悪いもないで、決まりはないんや
I’m free!
うちは自由や!

Let it go, let it go
いけいけ、やれやれ
I am one with the wind and sky
風と空が味方や
Let it go, let it go
解き放つんや
You’ll never see me cry
もうべそべそせんで
Here I stand
うちはここにいる
And here I’ll stay
ここにずっといる
Let the storm rage on
吹雪、上等

My power flurries through the air into the ground
うちの力は空から地べたへ降るにわか雪や
My soul is spiraling in frozen fractals all around
うちの心は氷の枝になって 枝分かれして伸びていくんや
And one thought crystallizes like an icy blast
ひとつの思いが氷の息吹みたいに 硬く凝るんや
I’m never going back, the past is in the past
家へはかえらん、過去は捨てるんや
Let it go, let it go
いけいけ、どんどん
And I’ll rise like the break of dawn
夜明けの光みたいに立ち上がるんや
Let it go, let it go
解き放つんや
That perfect girl is gone
おりこうさんはもうえん
Here I stand
うちはここで
In the light of day
お日さんの光のなかに立つ
Let the storm rage on
嵐上等や
The cold never bothered me anyway!
なーんもさぶないもん!

アナと雪の女王――雪だるま作ろう 福井弁バージョン

Frozenのご当地弁バージョン第二弾、ここにも八戸バージョンを貼っておきます、こちらもかわいい!



雪だるま作ろう

[アナ:]
エルサ!(ノック)        エルサ!
雪だるま作ろう         雪だるまこせえようさ
ドアを開けて           ドア開けて
一緒に遊ぼう                  一緒にあそぼ
どうして出てこないの?      なんで出てこんの?
前は仲良くしてたのに        前は仲良しやったのに
なぜ会えないの?            なんで会えんの?
雪だるま作ろう                雪だるまこせえようさ
大きな雪だるま                いけい雪だるま
[エルサ:]
あっちいって!アナ…       あっちゃいきね!アナ…やんちゃいわんと
[アナ:]
わかったよ…                 わかった…
[王:]
さ、手袋はいてろ、このほうがいいで落ち着けや。見せんとけばわからんさけえ。
[アナ:]
(ノック)雪だるま作ろう       雪だるまつくろっさ
自転車に乗ろう               自転車にのろっさ
ずっと一人でいると           ずっと一人やと
壁の絵とおしゃべりしちゃう       壁の絵としゃべってまうがの
(頑張れジャンヌ! )            (ちかっぺ!ジャンヌ!)
寂しい部屋で柱時計      寂しい部屋で時計てなもん
見てたりするの         見てたりしてまう
(チクタクチクタクチクタクチクタク)
[エルサ:]
おとろしい、あんばいわるうなってるし。
[王:]
取り乱したらかえってあかん、まずは落ち着くんや。
[エルサ:]
わからん、かまわんといて。頼みや、怪我させてまうが…
[アナ:]
途中気いつけての。
[エルサ:]
どうしても行くんけ?
[王:]
ほんのちょびっとや、すぐ戻るけえ。
[アナ:]
エルサ?                      エルサ?
ねえ、ドアを開けて          なあ、ドアをあけてや
心配してるの                心配してるんや
会いたいわ                  会いたいんや
そばにいれば               そばにいたら
支え合える二人で          支えあえる二人で
あたしたちだけで           うちらだけで
これから                     これから
どうしていくの?            どうしたらいいんや?
雪だるま作ろう              雪だるまこせえようさ

途中に台詞が入りますが八戸版を参考につけてみました!
頑張れ!ジャンヌのところの「ちかっぺ!」は「力いっぱい」の意味で厳密には頑張れ!とは違いますが、「ちかっぺ頑張れ」のように使うのでここでも使ってみました。
八戸版の「光星」は高校の名前みたいです、高校野球の応援を彷彿とさせますね。その伝て行けばここはさしずめ「頑張れ、武高!」
あ、これこそご当地ネタですみません!
「~しよう」は「~しよっせ」「~しよっさ」「~しょーさ」といろいろバージョンありです。

アナと雪の女王――生まれてはじめて;福井弁バージョン

ちかごろ話題の「アナと雪の女王」のご当地弁バージョン、中でも一押しがこの八戸バージョン、ちと貼っておきます。



さて、何かやってみたくなるのが物好き根性ってことで、作ってみました、福井バージョン。
ただし歌は無しの歌詞だけです。比較のために元歌詞と並べました。友人に見せたところ地域でわずかに差があるみたい。ということで、これは厳密には福井県・武生バージョンです!

生まれてはじめて(reprise)

守ってもらわなくて平気       守ってもらわんで平気
私は大丈夫よ             うちは平気やさけ
ねえ、エルサ行かないで      なあ、エルサ行かんといて
ねえ、お願いだから         なあ、頼むさけ
私から離れないで          うちから離れんといて
そう生まれてはじめて       ほや、生まれてはじめて
分かり合えるの            分かり合えるんや
生まれてはじめて          生まれてはじめて
力になれる                力になれる
ねえ、二人で山を降りようよ!   ほれ、二人で山をおりよさ!
怖がらないで              おとろしがらんといて
一人だけ残して            あんたを残して
帰れない                 帰られん
[エルサ:]
アナ…                   アナ…
お願いよ                頼むさけ
帰りなさい               帰ってや
太陽が輝く国へ          お日さんが照る国へ
[アナ:]
うん。でも               うん、ほやけど
[エルサ:]
いいの                いいんやって
ここでは               ここやったら
一人だけど            一人やけど
自由に生きられるの      気ままに生きられるんや
私に近づかないで       うちに近づかんで
[アナ:]
それは無理           ほれは無理やって
[エルサ:]
なぜ無理なの          なんであかんの
[アナ:]
ものすごい雪よ         ひっでえ雪やで
[エルサ:]
なんの事?            なんやってか?
[アナ:]
アレンデールが危機なのよ  福井の危機なんや
[エルサ:]
え?                  え?
[アナ:]
エルサの力で国中が      エルサの力でどこもかも
雪と氷に包まれたの      雪と氷ばっかりや
[エルサ:]
国中が?             どこもかもが?
[アナ:]
エルサなら元に戻せるでしょ?  エルサなら元にもどせるんやろ?
[エルサ:]
いいえ。無理よ。        いや、できんて
やり方が分からない       どうやったらいいかわからん
[アナ:]
できるはず!           できるって!
絶対できるよ!          きっとできるって!
そう!                ほや!
[アナ(エルサ)]:
そう生まれてはじめて      生まれてはじめて
(ひどいわ悲しい)        (なんて もつけねえ)
勇気を出して           勇気出してきばってや
(何もかも無駄だったの)    (なんもかも無駄やったんか)
二人手を取ろう          二人手をとろさ
(無意味だったの)        (無意味やったんや)
冬を終わらせよう         冬を終わらせようさ
(私にできることは)        (うちにできるんは)
聞いて                 聞いてや
(何もない)             (なんもない)
青い空を              青い空を
(危険なだけ)           (あぶないだけや)
取り戻したいの          取り戻したいんや
必ず出来るわ           必ずできるって
力合わせれば           力合わせたら
(やめて!)            (やめてって!)

原詩まるごと福井バージョン訳は次回!

ノア

Noahノアは動物たちの世話をする心優しい善良な人だったのだろうか?
天からの言葉を信じて巨大な船を造り家族とともに大厄災を乗り切って、新世界の人間の祖となった人だったのだろうか?

旧約聖書に書かれたさまざまなイベントの中でも一、二を争うスペクタクル、「ノアの方舟」。これほど周知の物語がほとんど映画化されていないというのは、欧米人のメンタルに強い影響を持つキリスト教への憚りがどこかにあるからなんでしょうか。

唯一覚えているのがジョン・ヒューストン監督「天地創造」the Bible(その名もズバリ、聖書)。東京オリンピックの入場行進曲を作った黛敏郎が音楽を担当して当時有名になりました。劇場で見たことを覚えています。どうしてもそれと比較してしまいそうで……
半世紀以上前の映画と比較してあれこれいうのも的外れですね。まあそういう映画もあったんだということでお茶を濁しておきます。

さて、もともと非現実的で不合理な物語なのですが(この際バチあたりな文言が出てきますが異教徒の戯言として許されてください!)不合理なりに合理的に処理している、笑っちゃうような苦し紛れ設定が多々あります。

ネタバレがお好きでない方は以下ご注意ください。少し空けますね。








始めのうち見ていると何やら既視感が湧いてきます。
たとえば巨大な方舟を作るのには重機もないし、とてもノアの家族だけでは無理。そこで助っ人として現れたのが"Watcher"。最初のテロップで説明があって、ウオッチャーとはアダムとイヴがエデンの園から追放されたときに楽園の入り口に炎の剣を持って置かれたケルビムのことらしい。彼らをウオッチャーと呼び、しかも彼らは創造主に背いて人のシンパになったためにやはり天から追放された堕天使だという設定。
何やらミルトンの失楽園のルシファ―やギリシア神話のプロメテウスのイメージが混在した性格です。

彼らが呪われた奇怪な姿で歩き回る様や、彼らが人間の迫害にあうのを食い止めたノアの曽祖父、メトセラ(長寿で有名なあの人!)が剣の一撃で炎の結界を呼び出すさまなど……絵が "Lord of the Rings” に似てる!
開始早々ウオッチャーなる奇怪な姿の石のゴーレムが出てきて度肝を抜かれるのですが、彼らの存在を平然と受け止めている世界観がどうしても旧約聖書のそれと一致しない ……無理にさせないでいいんですけどね。
でも、どうしても違和感がぬぐえません。

これが2010年代の映画なのだと思いました。素早い展開、目を見張るような映像、刺激的なシーンがなければ観客の興味をつなぎとめられないのか、と思うとちょっと寂しい気持ちもします。

興味深かったのは聖書の物語をベースにしながら一度のも"神――God"の言及がなかったことです。神という2000年以上の歴史を背負ったイメージではなく、"Creator" 創造主、造物主という言葉での言及、呼びかけに徹底していました。この映画が、単に聖書の記述の映像化ではないと暗に示そうとしているのかもしれないと、ここはちょっと好意的に見ました。

ありとあらゆる鳥、動物、爬虫類、両生類、昆虫が集まってくるシーンはすべてCGだそうですが、見応えあります。そのすべてが現存の生物とは少し異なった外見を持っているように作ってあるそうですが(IMDb)これはDVDで一時停止しながら見極めるしかないようです。
またそれほど多くの生き物を限られたスペースに収容するのにこれまた合理的処理が。恒星間移住をする巨大宇宙船の中で冷凍睡眠をする、あのアイディアが使われているのににやり。
でも、ファンタジー路線で行くのか聖書再現で行くのか、現実的解釈を突き詰めるのか、なんとも一貫性のなさが却って映画から深刻さを削いでいくようで残念。

ラッシー演じるノアは創造主から明確な指示を得たわけではなく、あくまで夢や幻覚で見たイメージに自分で解釈を試みます。ただ、それが妄想でない証に、曽祖父メトセラからもらったエデンの園の種を蒔くと、乾いた不毛の土地から水が吹き出しみるみる森が生育します。こういう超自然現象が起きて家族もウオッチャーもノアの言葉の信憑性を認めます。このシーンも見ようによっては、奇跡というよりファンタジーの色の方が濃いような。。
不毛の土地から水が吹き出すシーンは、ヒューストン監督の「天地創造」でアブラハムの妾の子、イシュマエルが母と追放されて砂漠をさまよい、力尽きそうになったときに天使(ピーター・オトゥールだった!)が現れ、砂の中から水が噴き出す印象的なシーンがあったのですが、それへのオマージュではないかと思うのですが、どうかな。

いよいよ大洪水が起こり方舟へ殺到する人々、それを食い止めようとするウオッチャーたちの戦いを見ているとどうしてもまた違和感を持ってしまいます。
創造主はすべての人間を滅ぼして世界をリセットすることに決めたのだろうけれど、シェルターを求めて必死で駆け寄る人々を群がる虫か何かのように踏み潰し叩き潰している人ならぬ存在、ウオッチャー。方舟を守るためのやむを得ないと防御行為だという逡巡もなく、見ようによっては「嬉々として」人々を駆除して、最後には多勢に押し倒されて槍を刺されて胸をこじ開けられ、犠牲となる行為と引き換えに天に戻ることができた彼らの運命は、最初から綿密に計画されていたもののようにさえ思われてしまいます。

ノアの自分が受けた啓示に対する解釈も中盤から大きく変化して、単に悪に染まった世界をリセットすることにとどまらず、新たに作られる世界に人間の残る余地はないと確信していることが明らかになります。
この展開はちょっと予想外でおどろきでしたが、そこでやっと長男の妻イラが石女であったことや次男三男には妻となる女性がいないことに整合性が出てきました。
なんというか、とても現代的な想念だと思います。わずかにここ1,2世紀で地球環境はかつてないほどに劣悪なものとなりましたが、これすべて人間の営為が招いた結果であるといわれます。人間さえいなければ……楽園の実現は可能だ、という極端な想定。なんとも厭世的で悲観的な考え方ですが、すべての地上の生き物を絶滅させるという造物主の無慈悲さを目の当たりにしたノアには、その断罪の最後の仕上げを自分に課すことで、死んでいった悪ではない人々への贖罪をしようと自らを追い込んでいったのではないかとも、後からですが思い当りました。
子孫となるべき子供を逃したと思った時に「彼らは無意味に死んだ」と叫びました。ああ、やはりなあと。ノアは生き残ったことに絶望的ともいう罪悪感を抱いていたんだと。

現代、もしくは近未来的に感じたのは彼らのコスチュームが没時代性だった点も挙げられます。ジーンズにジャケットとも見える衣装。どこにでもありそうで、実はなさそうな景色。最初に大写しになる手負いの獣が現実にはいない架空の動物だったことなど、どこか別の惑星上の話といっても通じるような気がしました。これも演出のひとつかな。

ラッシ―と相性のいいジェニファー・コネリー、パーシー・ジャクソンをやったローガン・ラーマン、ハーマイオニーのエマ・ワトソン、みんな好演でした。ローガンくんは中ごろまで彼と気づかなくて。鬱屈した若者やってましたから。

以下IMDbで拾ってきたトリビアを少し。

監督ダレン・アロノフスキーによるとウオッチャーのデザインは3つのものからヒントを得ているとのこと。6つの翼をもつ天使セラフィム、流出オイルにまみれた海鳥、足に重りをつけられたバレイ・ダンサー。その姿は地上に捕えられ姿を貶められた天使のようなもの、翼を固められて歩く際に手足として翼を使うことを余儀なくされたもの、だそうです。

監督は子供の頃からノアという人物に惹かれていました。生存者であることの罪悪感を生々しく感じていた暗く屈折した性格の男という姿です。

エマ・ワトソンによれば、映画の設定は曖昧だった。どの時代といっても通じた。何千年も未来にもなりえたし、反対に何千年も過去であるともいえたそうです。だからあまり重きを置いて考えない方がいいだろうと。

今まで描かれたノアの方舟は丸くカーブした船の姿をしているが、多くの歴史家は、方舟は実際に箱の形をしていたと指摘している、それがこの映画で採用された。「方舟」と訳されるヘブライ語は字義どおりには「収納箱」の意味で舳とかの構造上の造作については何も述べられていない。方舟は単に水に浮くことを目的として作られているのだからそのような物をつけ加えるのは的外れと言えよう。

以上取り留めなく思いつくまま書きました。もう少しピントを絞った書き方ができたらよかったですね。

STAR TREK XI

Startrek11J.J.エイブラムズがST11を作るらしいという噂が2005年あたりにネット上に流れました。
個人的にはST10ネメシス以来新しいST映画はもう作られないものと思っていました。
改めて書くのも悲しい事ながら、人気シリーズTNGのクルーも相応に歳をとり、最盛期のシリーズの延長としての映画はもはや無理であるという現実と、後発のDS9,VGR,ENTの各シリーズは劇場映画として採算が合いそうもないことが明かだったからです。
TNGですらもう見られないのだから、いわんやTOSをや、新たに劇場のスクリーンで見ることは金輪際ないと思っていました。
ところが、伝え聞くところによると、エイリアス、ロストなどTVシリーズでヒットを飛ばしたJ.J.エイブラムズが新たに作るST11は、何と若いカーク、スポック、マッコイが出るという……つまりキャストの総入れ替えを断行するというのですから驚きでした。
正直なところ期待よりもまず懸念が先立ちました。何を隠そう、わたしも1966年に(日本では1969より放映)TOSが始まって以来40年、STと共に生きてきた生え抜きトレッカーと自覚しています(トレッキーではない、トレッカーだとカミングアウトしたのはいつの事だったかw)
偶然にTVで見た「宇宙大作戦」に心を奪われ、それこそMr.スポックが初恋の相手でした。
放映終了後、長い休眠期間を経て(その間にしっかりSFというジャンルの洗礼をうけて首まで浸かっていましたが)、劇場版ST(モーションピクチャー)で懐かしいクルーとの再会を果たしました。
TV版とは比較にならないほどの圧倒的なスケールの映像美には魅せられたものの、R.ワイズ版STはストーリーやキャラクターの扱いは重く、硬く、クルーも生彩を欠いていました。何よりも明るい楽天主義が影を潜め、無力感、虚無感までが漂っていたのです。そして否応ない現実──見る側にも演じる側にも年月が仮借無く流れていたことを目の前に突きつけられることになりました。TV版の楽しさを期待していた者にはなかなかに肯定的に受けとめるのが難しい映画でした。
次発がTNGでした。「スター・トレック88」(!)のタイトルで、VTRで「ファー・ポイントでの遭遇」を見て、キャプテン=カークのイメージとピカードが余りに離れていたため(カークのキャラがライカーとピカードに分散された)、さらにクルーのバラエティが広がったため散漫な印象を受け、またスポックに代わる強烈で魅力的な(fascinating)キャラが見あたらなかったために、TOSの再来を期待する者にとってTNGはSTの後継者として素直に楽しめなかったのです。
もちろん、その後時間をかけてTNGにつきあっていった結果、キャラクターの成熟とともに、今STの中で一番好きなシリーズになっているのですから第一印象というのは宛にはならないものです。


さて、読まれる方のご迷惑を顧みず、長々と語ってきたのは、わたしのSTに対する思い入れを理解して頂きたかったからに他なりません。
もちろんST一本でほかには目を転じなかったわけではなく、何度もSTから離れては、他のジャンルに夢中になって来ましたが、疲れてふと立ち止まると、いつも安心と安定を求めて立ち返るホームがSTだったのです。
STのエピソードが単にSF的ギミックやストーリーの奇抜さを見せることだけに重心を持っていたのならば、早晩、現実が設定に追いつき、あるいは追い越し、全てが古色蒼然となりSFとしては致命的になってしまったことでしょう。
しかしストーリーをみると、玉石混交なれど、現実社会の問題が色濃く投され、楽天的とも言える健全な進歩史観にのっとった解決法が提示されました。また、エピソードのすべてにユーモアが溢れ、必要以上に深刻にならない軽み、巧みなキャラクターの形成など一流の娯楽作品として、聴視者の心をつかみました。人気は放送が終了した後にブレイクし、その後衰えることなくますます高まったのでした。そして、40年に渡って次々とシリーズが生み出され、10本の映画が作られたのでした。

ST11を見に出かけた時の気分と言えば、結局どのように変容していようと、STの名があれば灯りに引き寄せられる夏の虫のようなものです。まさに変わっているならそれをとことん見てやろうじゃないか、いちゃもんも着けてやろうじゃないか、でも少しでもSTを思わせるよすががあれば、それを見られるだけでも嬉しいという、このような屈折した思いを抱きつつ行ったわけです。
結論から言えば、これが面白かったのです。

(以下ネタバレに近い部分もありますのでご注意下さい)


うまく考えたものです。
開始直後から、自分の知っている設定とかなり違う──インパクトはあるけれど、この違い方はでは一体どうなることか……と思う暇もなくカークの少年時代、スポックの少年時代などが次々に現れます。STの設定そのものを知らない人の方が多い今、キャラクターをわかりやすく紹介するにはいい方法ではあります。でも、カークのキャラが余りにも……スポックにしてもそこまで……、ここでまだJ.J.の仕掛けに気がつかないのですからヤキが回ったものです。

ヴァルカン星がマイクロ・ブラックホールに呑まれて内崩するに至って、やっとわかりました。異なるタイムラインというのはSTでは幾度もとり扱ってきたプロット。これもそうだったんですね!
ST11をSTビギニングにしなかった深いわけがここにありました。単にTOSの始まりを描くだけでは時間にして20年余りしか余裕がなく、映画としても単発に終わってしまいます。TOS以来宇宙歴で150年近くにわたって繰り広げられたSTの設定を崩すことなく、新しい物語を作るには、新しい歴史を作るしかない、当然と言えば当然のことでした。
このところ続いたハリウッドのリメイク・ブームで、何でもCGですばらしくスケールを大きくして、派手に見せ場たっぷりの大味映画に作り直すパターンが定着しています。STもその例外ではないと思っていたので、この仕掛けに気が付いた時には安心したと同時に、この映画に対する懸念が消えて、心から楽しむ事ができたのです。

そうと決まれば映画は楽しまなくっちゃいけませんね。
まったく別のSTなれど、それこそ台詞、仕草、語られるエピソードに、TOSからの引用、セルフ・パロディがちりばめられています。
またオリジナルでは語られなかった名前やあだ名の由来などさらりと見せるところなどは演出が憎い。
大ネタ、小ネタが満載です。スコッティならぬカークがシャトルの横桟に頭をぶっつけるところ、スールーのダルダニアンもどきも懐かしい、スポックは若い頃から上着をひっぱっていたようで(ピカードがそっくりやってました)、メイジェル・バレットの声(クルーにチャペルは出てきませんでしたね…マッコイがチャペルに呼びかけるところはありますが…それにキャプテン・パイクを救出したとき転送室に駆け込んでスキャンをしていた後ろ姿の医療スタッフ、もしかしてあれがチャペルか、などと想像を逞しくしています)、ボーンズがスポックに投げかける"Tell me something I don't know! " これと同じような台詞を何度も聞いたことがあります。これにも笑わされました。
赤服の悲運とか、スポックがスコッティに(後にスコッティが考案する)移動中の物体に転送する方程式を教えるあたり、ST4の透明アルミのくだりを彷彿とさせますし、ゴールデンゲート・ブリッジ越しに見る未知の脅威はST4、カークが追放された氷の惑星はST6へのオマージュと見えます。
コバヤシマル・テストの真相に迫る──今まで何度も引用されてきた例のテスト。ただひとりテストの裏をかいたカークが初めて描かれます。中盤でワープ速度で飛行中のエンタープライズに転送で戻ろうとするカークがスポックに "You know, traveling through time, changing history... that's cheating."(時間を遡って歴史を変えるのはズルだろう)というと"スポックが" A trick I learned from an old friend."(古い友だちから習った小技ですよ)と答えるあたり、これはもうにやつくしかないところです。しかし、ST2の最後、スポックにとってのコバヤシマルを思い出すと多少気分が落ち込んでしまいます。

中盤で現れた「あの人」でST11は単なるスピンオフではなくなりました。彼はTNGでも何度かヴァルカン大使になって登場していました。この映画でもまさに冒頭でネロがUSSケルヴィンのキャプテンにスポック・プライムのホログラフを見せて"Ambassador Spock"と呼んで居所を知りたがっていましたから、実はここで?と思わなければならなかったんですね。
とにかくST11に出るとは聞いていましたが、TNGの初回にマッコイがちょっと顔を見せたのと同じ程度か、もしくはワープ循環の中で生存していたスコッティくらいの役どころだと思っていましたが、こちらもまったく予想が外れました。とは言え、これは嬉しい外れ方でした。

さて、戻ったカークがスポックと和解してネロの採鉱船に潜入、スポックが自分の乗ってきた小型船に乗りコンピューターから"Welcome back, Ambassador Spock."と呼びかけられ、更に船の製造年が129年未来であることを知るや、その洞察力でカークが未来の自分に関する重大な情報を隠していると見破り、自分の船でドリルを破壊しに行こうというとき、初めてカークを「ジム」と呼びます。
何ということはないのですが、やはり嬉しく成ってしまう一瞬。

無事(?)キャプテンのイスに座ったカークがエンタープライズを「発進」させるときの台詞は"Take us out"──懐かしい台詞です。カークの最後の航海の発進命令がこの言葉でした。さあ、外へ連れて行ってくれ…… 数え上げたら切りがありませんが、見逃した箇所はおそらくまだまだたくさんあるはずです。これは二度目を見に行くいい口実になるでしょう。
VFXを多用した映像のスケールや美しさはもはや言うまでもないようです。ヴァルカンからの救難信号を受けてスペース・ドックのハブから飛びたつ航宙艦、その中にNCC-1701の文字が見えたときには胸にこみ上げるものがありました。

最後に、"Space, the final frontier..."がニモイの声で聞こえたとき、A.クーリッジのテーマ曲が最後にとつとつと聞こえ出した時、そしてジーン・ロッデンベリーとメイジェル・バレットへの献呈の辞が現れたとき、時を越えて、古い感慨と新しい感激がひとつになって、私にとっても新たなSTの歴史が始まったのだと実感しました。

Hancock

Hancockウィル・スミスはいい役者さんになったものだと思う。
ハンコック──この映画についてはあちこちで語られているほど駄作だとも思わないし、もちろん超大作と持ち上げるつもりもない。ただ好きか嫌いかといわれると、私は好きだと答える。
その理由は、ウィル・スミスの存在自体がとてもいいからだ。
おかしな書き方をしてしまったが、見終わって最初に感じたのが、ウィル・スミスは立っているだけで悲しみを表現できるようになったのだな、というなんとも主観的感慨だったからだ。
他に同類の仲間がいない(実は一人だけいたが)というストーリー設定からくる孤独感ではない。
おちゃらけの合間、ウィスキーがぶ飲みして、どう見ても格好いいところからほど遠い飛び方、着地の仕方をしている合間、行きがかり上仕方なしに人助けをしてやってるといわんばかりの投げやりなスーパーパワーの発露の合間にも、ふと悲しみが漂う。

それを最初に感じたのは実はこの映画に先立つ「アイ、ロボット」のワンシーンだった。
始まって間もない頃に、刑事スプーナーがじっとシャワーをあびているシーンがある。あのときにはまだ彼の腕が精巧に作られたロボットの義手であることは明らかになっていない。しかし、あのシーンでどうしようもない悲しさを感じてしまうのである。
そこに存在している事自体が悲しいという、彼は自分の存在自体を悲しんでいる。その悲しみの前には仕事も家族も霞んでしまう。なぜ自分はここにいるのか、なぜ自分はこの世に生を受け、今現在生きているのか、その根源的な疑問は、もちろんどのように考えても悩んでも答えがでるものではない。答えが見いだせない事を承知で生き続けていかなければならない。自分に活を入れ、励まし、自分を奮い起こして、次の行動へ移らなければいけない。その一歩を躊躇って、ほんのひととき、ほんの数秒長くシャワーが流れ続けるに任せている──まことに主観的な見方なのだが、わたしはあのシーンでこういう気持ちを痛切に感じてしまった。故に「アイ、ロボット」の中ではあのシーンが一番好きなのだ。

「ハンコック」の劇場用ポスター(顔大写し、サングラスに鷲が映っているものではなく)でウィル・スミスの沈んだ横向きの顔を見たときにまさに上記のシーンにあい通じる物を感じてしまった。

ストーリーは楽しい。ハンコックはアンチヒーローである。
スーパーヒーローは正義の味方、正しい心と強い意志、悪をゆるさぬ自己を律する……そういう歴史的に培われたお約束は、ある意味根拠が無い。確かに超人が悪人だったら大変だ。この世の終わりとまでは言わない物の救いがない。だからヒーローは何があっても善人で「正義の味方よ、よい人よ」でなければならない。
だからハンコックは面白い。といっても彼は悪人ではない、いわば不器用な邪魔くさがりやなのだ。
だから悪人を追跡するのにところ構わず飛ぶからビルは壊す、標識は落とす、挙げ句の果てに悪人の乗る車をどうやって回収したらいいかわからないような場所に串刺しにする……一つの事件を解決するために周囲に及ぼす被害甚大、踏切の立ち往生した車を救うのに、持ち上げて他の車の上に逆さに投げる、列車にエルボーをカマして脱線させる……決して意図してやっているわけではないのに、結果は惨憺たる物。
周囲の人はさらに無責任で、人命が救われたというのに、もっと賢い方法があったはずだと非難する。
このあたりは快進撃である。この路線を突っ走って行けば世にも珍しいアンチヒーロー、超弩級のありがた迷惑ストーリーとなったはずだ。もう少し引っ張ってもらいたかったと思ってしまう。

その後ストーリーが展開するに連れてこの楽しさが徐々に萎んでいく。もちろんもう一人のヒーロー(うう、男性形許せ)との万歳のようなからみや$91.10なんてものすごく面白いところもあるのだが、悪役トリオが小物(なんとなくホーム・アローンの悪人二人組を連想してしまう)なのも物足りない。まあ、これはハンコックの超人指数が下がって常人並になる事を見越した常人向け悪役ではあるのだけれど。

ハンコックの「存在論的悲しみ」は彼と彼の一族(?)の在り方に根ざしているようだ。超人同士が近づくと力がなくなり常人になる、そして普通の人間としての弱い短い一生を送ることになるというものだ。
神ならぬ常人の心性を持った者が「人並み」の幸福を願う、これは当然のことだが、その代償は大きい。特に彼の場合は最後の一人として「神が与えた人類への保険」の役割を全うするためには「人並みの幸福」を求めることはできない。悲劇的なハイランダーの設定とはまた違っているが、これはこれで悲劇であるね。

ともかく80年前からの記憶がなくなった原因も明らかになり(触れられてはいなかったが、80年前に南部で黒人男性が白人女性と連れだって歩いていたら袋だたきにあうことはいかにもありそうな話しである)、名前を思いだせなかったので"put your John Hancock"(署名しろ──アメリカ独立宣言書の中で一番肉太の署名だったので、それ以来「署名」という普通名詞として使われている)といわれてそのままジョン・ハンコックと書いた顛末も明らかになる。

結局自分が何者であるかself identificationを求めるハンコックの放浪の旅は終わる、よって彼の破滅指向の生活も終わりを告げ、彼は自分の在り方を是認して落ち着いた結末を迎える。
この終わり方以外にないと思われる終わり方。もちろん常人となる選択肢もあったのだが、それはまたこれから長い年月のうちに採られる結末になるかも知れない、そういう救いもある。
さしあたって今のところ、ハンコックも残りの生存者も心の安定と幸せを取り戻したと言えるだろう。そして見ているわたしたちにも、ヒーローが消えていくという幸せなのに寂しさを否定できない結末にはならなかったことが嬉しく思われるのだ。

SW  Clone Wars

Cw_2前項で書いたように最寄りのシネコンでは吹き替え版しかやっていないので、お盆休みということもあり、2つ離れた市まで先行を見に行って来ました。17日のレイトショー、入りはそれほどでもないと思っていましたが、なんと私たち2人を入れてやっと6名という貸し切り状態でした。

実はこの映画、最初から過大な期待はしていなかったものの、予告動画の戦闘シーンを見て多少心を動かされていました。しかし、一言でいって、煮え切らない内容でした。SWを冠する以上、A long time ago, in a garaxy far far away....から始まって画面中央に収束するタイトル、次いで状況説明のスクロールというお約束を期待してしまいましたが、確かにそれらしき物はあるにはありましたが、なぜか違和感が残ります。音楽がJ.ウィリアムズの手による物でない以上、小手先の編曲はマイナスイメージ。なんとしてもオープニングだけはJWに依頼するか、もしくはまったく新規の音楽にしたほうがかえってよかったのでは……などと感じてしまいました。むしろ今後制作する100話に及ぶ3Dアニメのシリーズの先鞭をつけるのがこの映画なら、まったく新しい趣向でシリーズを作り出した方がいいのではないか、とも思いました。

最初からめまぐるしく次々に現れる戦闘シーン、Epi1以来慣れ親しんだCG画面との相似性で、こちらに違和感はありません。予告でもその部分をクローズアップしていましたから、まるで実写で本編の知られざるシーンを見ているようで、とても楽しめました。しかし、それだけに、ドラマ性のなさが惜しまれます。

ヨーダ、メイス、オビ=ワン、アナキン、パルパティーンといったキャラクターの造形はこの際置いておくとして(というのも、ファンの性でしょうか、違和感バリバリの3D造形も慣れてくると人間アクターがやっているように脳内変換されていることに気が付きます)。声もそれなりによく似た話し方を心得えており、こちらも平気で脳内変換。ドゥークー、メイス、C3たちはご本人が声をあてていますしね。

ところが全てのキャラクターの行動に必然性が感じられないのが物足りなかった一因です。全てのキャラが成り行きで動いています。たとえば、今までの映画ではアナキンがある行動を取ったり、ある言葉を発したりするのには、それなりの内的必然性が感じれられました。ところが、今回、アナキンがずっと抱いているジェダイの在り方と自分の感じ方の齟齬、母や妻に対する愛情をオープンにできないもどかしさ、果ては、おのれの中にあるダークサイドへ引かれる傾向とマスターであるオビ=ワンに対する不満、そういった影の部分がまったく感じられなかったのが残念でなりません。

そもそもパダワンというのは、マスターがかなりの時間をかけて選ぶ、とても重大な意味を持つ行為のはずなのに、アナキンにパダワンを持たせて(彼にもよい訓練となる)とヨーダからいかにも簡単に押しつけパダワンを持たされますが、アナキンにしてもまるで小犬をもらうように、邪魔くさいけど相手してやるよ的な受け止め方をして、じゃあ、行くぞって……そして相手をよく知りもしないうちに、目の眩むような戦闘シーンに飛び込んで行きます。何というか、脈絡がないという印象ばかりが残ります。コミカルシーンを挟んでも上っ滑りだし、オビ=ワンも生彩を欠いています。

もちろん、個々のシーンは面白いし、よく手が込んでいます。それだけにストーリーの中心になるのがとってつけたような誘拐されたジャバの息子の救出とか(分離主義者への対抗上ジャワとの協調は共和国にとって重要だとか理由は付けていますが)、降って湧いたアサージとオビ=ワンとの遭遇と対決とか、単に見せ場を継ぎ足して話を作ったようにしか感じられないのは残念でした。
それに何と言ってもアナキンの押し掛けパダワン、アソーカ・タノのキャラが好きになれないのが一番の難点。字幕云々の問題じゃなくて、マスター=パダワンの規律をまったく無視したような口の利き方や、独断性、実力の後ろ盾のない向こう見ず……このキャラは今までのアナキンのそれに似ていますが、アナキンでさえここまで礼儀知らずじゃなかったですね。キャラまで幼年化してきたのかと思うと人気取りもほどほどにして欲しいと思ってしまうのですが……。

映画のワンシーンを彷彿とさせる(というか、映画のセルフパロディのような)シーンが多すぎたのも白ける要因になってしまいました。何ごとも過ぎたるは及ばざるが如し、ですね。ともかくも、一度見れば後はDVDでいいかなと思っています。

Highlander 再び? いや……

Highlander_originalHighlander_animation_2

二階から素っ頓狂な声がしました。
「あんた知ってるか? ハイランダーがアニメ化されて日本へ逆輸入だわ」声の主は息子です。(うちの息子は私のことをあんたと呼ぶか○○ちゃんと名前で呼ぶ)
これは、わたしがハイランダー悪魔の戦士から(2,3は抜いて、というのは作りがあまりに杜撰でとても正統な1の続編とは認めたく無いから)TV版ハイランダー、エンドゲームと自称筋金入りのファンであるのを知ってるからです。思わず知らん、知らん、そんな話があったとは……と絶句してしまいました。
早速検索して調べると、マッドハウス制作で川尻善昭監督の『ハイランダー Highlander: Vengeance』。そのDVDが、アメリカで6月に発売されて、そのディレクターズ・カット版が5日から公開されるらしい。
まあ、文句をいうつもりは無いんだけど、それはその……昔からのファンというか、特別の思い入れがある作品がアニメ化されて、思わずおおっというような絵柄が出てくると、愚痴っぽくなりますが、やはりオリジナルを大事にしたいなという気持ちです。
今回のアニメ化はコナーもダンカンも出てこない、一種のスピンオフの体裁をとっているのですが(レイヴンみたいな感じ?)、なんだか文字で「最後の一人になるまで殺し合う宿命を持った不死身の剣士」なんて書いてあると、それは外装、本当のよさはあの悲しさなんだよ……それこQueenの"Who wants to live forever"の哀切なメロディに乗せて流れる切々とした哀愁なんだよ……と言いたくなります。クリストファー・ランバートもショーン・コネリーもみんな格好良かった。紀元前の正宗があっても、そんなことはいいんだ。"There can be only one"の痛切な響き、長年の(笑 友情も最後には……てな事になってしまう。
こんな事を書いていたら、また見たくなってきました。ここ一年ほどは見てなかったから、そろそろ見なさいという天の声かもしれない。
時を越えてあの若いコナーに会いに行こう。あの飄々としたスパニッシュ・ピーコックのショーン・コネリーの顔を見よう。そしてフレディの声に時の流れを越えながら、時の流れを超えている、あの世界に戻ろう。

Indiana Jones 4

Indiana_jones4先行には間に合わなかったものの、日本公開の今日見てきました。
なにせ情報の広まるのが速いので、ほとんどのインディ4関係の書き込みや映画情報をスルーして、とにかく純粋に楽しんでこようという目論見でしたが……

昨日の(一昨日?)特ダネ!でちらりとラストシーンの是非を問う出口調査を見てしまいました。
ラストシーンは衝撃ではあるものの、賛否両論を醸す物らしい、しかもルーカスに質問していて画面では「×××」と伏せ字で出るのですが、他のパネラーたちが「やっぱりルーカスだからね」とか「ルーカスだからあの最後は当たり前」みたいないい方していましたが、ちっとも持って回ってない、そのものズバリじゃん……とネタが割れてしまってちょっとがっかり。
まあ、気を取り直し、槍が降ろうと何かが飛ぼうと、平気、気にしないと初回興業に出かけてまいりました。

内容についてはまた後ほど(6ヵ月も経ったら話してもOKですよねw)
楽しかった点、首を傾げる点、いろいろありました。
楽しかったのは、前三作のセルフパロディの山!
山といえばパラマウント、どういう山で来るかと思いましたが、マーモットの山とはねえ。可愛かったですね、何度も出てきて。
ハリソンは最初の登場で、確かにああ老けたなあ、と思いましたが、声は老けない、しかも始まれば老けた事を逆手に取ったギャグもあって、ずるずる引きずり込まれてしまいました。それは当然、見る側だって同じだけ歳とってるんですから、老けたインディに共感しちゃいますよね。
一作と同じアングルでの講義の様子とか、今回オファーを断ったヘンリー父をそれとなく出すとか(でも2度は要らなかった?)あらら、ブロディさんも鬼籍にお入りになった……。
シャイア・ラブーフくん、手慣れて大家の風貌が備わってきましたね。あの子もイヌの名前なんだ、ワン
まあ、あっちこっちに前三作で使った台詞をちりばめて、思わずにやにや、でも周囲では誰も笑わない……ちょっと残念。
前作といえば、聖櫃がちら見えしたのはご愛敬でしたね。

多少のふざけすぎは大目に見られるし、パイレーツ2では退屈だったはしゃぎ過ぎ長回し激闘シーンもうんと楽しめたのですが、あの冷蔵庫だけはどうもいただけない。ターザンも、ふん、という感じ。
ケイト姐さんはよかったですね。R音巻きすぎw でも上手だったなあ。美しい人は美しく消える、これ鉄則でしょうね。なんだかスピルバーグ繋がりでClose Encounters of the3rd Kindをありありと思い出してしまいました。

結論、楽しかった。もう一度見るかといわれたらもちろん見ます、DVDも買うでしょう。でも、でも、昔のインディのテイストの方がどちらかというと……好きだったかなあ。