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消えた歌詞

先日TVでさる美女姉妹歌手が懐かしい唱歌を歌う番組がありました。この手の番組は今までも幾度か放映されているので見るともなくBGM代わりに流して聞いていました。
お正月から始まる四季をなぞる歌が流れる中、ある歌を聴いてふと違和感がありました。どうも記憶の中にある歌詞と違うのではないかと思われます。
自分の記憶も曖昧ではありましたが、以前唱歌に興味を持って「日本の唱歌」、このような本を読みあさっていた時期があります。
その折りに、現在は歌われている歌には、もう歌われることも少ない3番、4番、5番……の歌詞があって、歌が思わぬ方向に展開がしたりするのに興味を持ったものです。
今回気づいた歌詞の違いについても、歌われなくなった歌詞と問題の根が同じところにあると思われる節もあります。
具体的に話を進めましょう。

「冬の夜」という唱歌があります。
燈火近く衣縫う母は 春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子どもは 指を折りつつ 日数かぞえて喜び勇む
このような歌詞で始まる冬の夜の一家団欒の様子を描いた素朴な暖かい歌です。PC、TVはおろか、まだラジオとてない昔の田舎、外には雪が積もり長い冬の夜を囲炉裏のはたに家族が集い、母は家族の着物を縫い、父は縄をなう。子供達は父母の話を聞きながら楽しい想像にいっとき寒さを忘れる。今はもう疾うに失われてしまった家族の在り様が飾り気なく歌われ、実際に囲炉裏や縄をなうという行為を体験していないにもかかわらず、私たちに日本のローテク、スローライフが当たり前であった時代への郷愁を掻き立ててくれます。
さて、問題は二番の歌詞です。TVではこのように歌われました。

囲炉裏のはたで縄なう父は過ぎしむかしの思い出語る
居並ぶ子どもはねむさ忘れて耳を傾けこぶしを握る

違うと思ったのは父の話です。私の知っている歌詞では父は昔の戦争の勲を語ったはずでした。子供達は勇ましい父の武勇談に思わずこぶしを握って聞き入っていたはずです。それがなんと父は昔の(楽しい?)思い出を語って居るだけだとは!
そこで調べてみたところ、この歌が作られたのは明治45年(1912年)、恐らく父の語ったのは日清日露の戦争だったのでしょう。昔語りに従軍した話を子供に聞かせるということも日常よくあったことと推察されます。しかし戦後、小学校でこの歌を歌うときには時勢にあわないとの理由で二番の歌詞を変えて歌っているようです。
もう一つ似た例を上げてみましょう。これは歌詞の変更ではなく歌詞の省略という形で現れました。
これも好きな歌の一つです。
「里の秋」と題する歌で、更けゆく秋の夜、母と子が囲炉裏を前に静かに夜を過ごすという、「冬の夜」よりも人数が少ないだけにさらに静けさを増した歌です。

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

これが一番の歌詞ですが、母さんとただ二人というところでなぜお父さんはいないのだろう? という疑問が自然に湧きます。すると続く二番のああ、父さんのあの笑顔……という下りで父は何らかの都合で(出稼ぎか何か?)不在なのだと合理化が働きます。(歌の明朗、清明なメロディから父は死んでいるとは思えないのですね)

結局この歌は父に関する疑問だけが残って煮え切らない終わり方をしてしまいます。
しかし、これも三番の歌詞を見ると疑問が氷解します。父親は出征中だったのです。それも終戦を迎え戦地から日本へ戻る途中であることが暗示されます。母と子は父の無事を祈って更けゆく秋の夜を静かに過ごしているのでした。
確かに三番の歌詞は現在歌えば違和感があるし、時代色が余りに濃いので、ある意味「時代を越えて歌い継がれる日本の歌」としてはふさわしくないと割愛されているのでしょう。しかし、一続きの物語性のある歌詞の一部を割愛することで、歌う人間に割り切れない疑問を残してしまいかねません。

この二つの歌に共通するのはともに戦争を歌っている箇所が、ぼやかされたり割愛されているということです。確かに小学校での音楽の時間に歌ったり、多くの人々が集い懐かしい歌を歌うというような折りに軍歌を歌うことが無いように、唱歌であっても戦争に言及する箇所を歌わないというのは正しい判断であると思います。
しかし、歌わない、変更するという行為が正当であるのと同時に、元の歌詞を保存して記録に残していくのも大切な事だと思うのです。多くの人に歌われ愛されたからこそ、星の数ほどある歌の中から、いま私たちが聞き、歌う歌が残ってきています。それぞれに作られた時代、その時代の人々の暮らし、思いなどを反映しています。都合の悪い部分を削除したり差し替える行為が繰り返されれば、最後に残るのは健康的で人畜無害であっても実になまぬるくつまらないものになってしまいます。
私は戦争を美化するつもりはまったくありませんが、戦争が日常の一部であった時代を否定することはできないことであり、その時代に作られた歌が戦争の影を引きずっているのも致し方無いことです。むしろ、その影が見え隠れすることで歌に現実性と陰翳が生まれてきます。誰もが常に家族の生死という冷徹な現実を背負っていた時代性を、安易に隠し見えなくさせて、ついには風化させてしまう愚行だけは犯してはならないと思うのです。

冬の夜ではありませんが、わたし自身も小さい頃に祖父から戦争中の手柄話を物語として聞いた記憶があります。それは客観敵に戦争の悲惨さ、理不尽さを語るものではなく、祖父が船の上でどのような生活をしていたかを、懐かしんで話してくれたものでした。わたしにとってはずっと以前に亡くなった祖父の貴重な思い出の一つになっています。
何ごとも一面的なものはありません。戦争を美化し高揚するような意図をもったものは極力排除しなければならないと思いますが、個人の思い出や感慨まで一緒くたに葬ってしまうような、許容性のないような行為はいかがな物かと思います。

最後にあっと驚く、よく知っている歌の知られざる一節をご紹介しますね。
妙な話ですが、小学校の頃からよく歌った歌の最後にこのような歌詞があることを知った時にはかなり衝撃でした。しかし、驚くと同時に、その健康優良児的な歌(その健康さゆえに、なにやら胡散臭さまで感じていたのですが)の結末を知って、歌として、ちゃんと完結性を持ち、主張も持っている事に一種安堵感を持ったことも確かです。(内容はこの際おいておいて!)

我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に
煙たなびく苫屋こそ 我がなつかしき住家なれ

この少年は海の側に生まれ、海の気を吸い、渚の音に慣れ親しんで、巧みに櫂を操るようになって逞しい青年に成長します。 そして最後の七番で、日本の外に出かける意気を歌って終わりになります。
どのような終わり方をするか、ですか? コメントに歌詞を引用しておきましたのでご参照下さい。きっと「我は海の子」に対するイメージが変わることと思います。それを是とするか非とするかは、個人の好みということでしょうか。

愚夫、愚娘とは言わないの?

サイドバーでいつも飛び跳ねているのはリヴリーというネット上の生き物(?)ですが、自称リヴラーというリヴの飼い主は、仲間内では自分のリヴを「うちのこ」と呼んでいます。(付記2010年現在サイドから外してあります)
さて、このリヴ用のブログがあって、そこでは同好の士たちが子褒めイヌ褒めならぬ子褒めリヴ褒めに終始しています。
おなじみさんのブログにお邪魔して、新しいエントリがあると(大抵毎日あります)、その記事が良いと思ったらnice! をクリックしたり、コメントを残したりします。

長くなりましたがここまでが枕です。今日のお題は家族の呼称です。
昨日おともだちのリヴログにお邪魔して、そこのお子さんが大層高い経験値を達成したというので、コメントをしました。
「お宅のお子さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいです──うちの子に」そう書こうとして、うちの子の代わりに「愚息」……と書いたところで、はたと困りました。うちには息子も娘も(もちろんリヴですよ、この際突っ込まない!)いるのですが、息子の事をよそ様にへりくだっていうと「愚息」(何を好きこのんで、大事な息子を「愚か」というのか、本当はそんなこと夢にも思ってないのですが、一応こういいます)、ところが娘を指す「愚娘」という言葉はありません。
次に思いついたのが「豚児」──でも、これって男女の区別がないのですね。うちの子供を指すときに使う言葉。どうして「豚」なのかって? 聞かないでください、私だって知らない。もしかして豚さんから抗議文が来るかも(いま、一瞬ベイブのイメージがちらつきました)

そこで、家族の他人に対する呼称を考えてみました。ちなみにこれらの言葉は敬語の中では謙譲語に分類されます。
愚妻・愚兄・愚弟・愚妹・愚息とここまではよく目にします。豚児も「荊妻豚児」の後半の転用で、子供に使います。ではどうして愚夫や愚姉・愚娘や愚親がないのかというのは、自然な疑問でしょう。
実は娘を指して愚嬢とか愚女という言葉があったとも聞きますが、今は使われていないようです。なぜでしょうか?
ここからは私の独断ですが、まず謙譲語は聞き手または聞き手以外の第三者を尊敬するために話し手がへり下がり、相対的に相手を高める方法と考えられます。
ですから、拙宅だとか粗茶とか弊社とか自分に関わりのある集団組織それに連なる物を下にさげたり、吟味して選んだ高価なお土産を「つまらない物ですが……」などと平気で言いますが、もちろん実際、実情を表しているわけではありません。むしろ、いいもの、立派な家、高級な品であるほど、天の邪鬼的に卑下して言うことも多々あります。そでほどに自分の行いを卑小化して相手への敬意を表そうということです。
自分の家族の話を他人にするのに、「いやなに、うちのお袋だけど、あいつさ、いい年して、○○に夢中でさ」みたいにわざと乱暴な口調でいうのも、その現れか、単なる照れか、ちょっと判断に苦しむ事もあります。
夫が妻の事を「愚妻」と呼ぶのに(私など、人権無視だとすぐ頭に来ますが)どうして妻は自分の夫を「愚夫」と呼ばないのでしょうか。また自分の親を「愚親」とはいいません、言ってもせいぜい「老父、老母」止まり。
家族の長幼の倫理、伝統的な儒教倫理に則れば、自分よりも年長者を下に見ることは慎まなければならない、妻は夫を蔑むことはできないのであります。例え他人に対してへりくだるとしても、「愚か」とは言えないようです。(いかにダンナよりも妻の学歴の方が上でもw)
わが子、家族を立てるいい方は日本の伝統的な価値観にそぐわないとはいえ、家庭内の伝統的順列を無視することもできない、そこで、折中的な考えが自然に形成されて、妻は夫を「愚か」とは言わず、単に「夫」「宅」または「○○は」という風に名字を使うのが一般的になったのでしょう。

では、今度は娘の問題ですが、「愚娘」がどうして使われないか。これも想像を目一杯に広げた独断ですが、一つ考えられるのは将来嫁ぐ娘を余りに貶めて言うと値打ちが(昔の考え方でいえば、商品価値が)下がるという思いがあったのかも知れません。娘のことを卑下して言ういい方がないか考えてみますと、定型のいい方で、縁談が決まると、「ふつつかな娘ですがよろしくお願いします」のような文言を使います。
(笑い話に、このいい方も古くなって余り使われなくなってきたので、こういうつもりであわてて「ふしだらな娘ですが」と口走ってしまった、なんてのもあります)
余りに「愚かだ」「不細工だ」と外に対して娘をこき下ろさないというのが不文律になっていたのかも知れません。
これならば、まだ歴史を鑑みれば、納得もいくのですが、もう一つの考え方もできます。
つまり、男尊女卑の考え方に凝り固まってしまうと、息子の話は他人にする(それも、先に書いたように実は自慢の裏返しとして話題に乗せる)、しかし娘の方は物の数にも入らないから話題にもならない、話題にしようという意識すらない……もし娘が才色兼備でも、それを言えば自慢になる、かといって、それをアホだ、おかめだと親の口からこき下ろせば、悪い評判が立つかもしれない、などというストッパー心理が働いて、自然に娘に対する謙譲語が消えていったのかも知れません。
もしそうだとすると、なんとも情けない話です。でも、これらも既に過去の逸話になりつつあります。現在これらの言葉が使われる頻度は小さくなっていると思います。単にうちの「息子」「娘」といえば十分ですから。無理に「愚か」だ、「豚」だといわなくても大方は認められるようになってきました。しかし、だからといって自分の子供を「姫」だ「プリンス」だと呼んだりするのも、これまた逆の意味で行きすぎではないかとも思うのです。

古い価値観から生まれた言葉を無批判に使い続けるのもいかがなものかと思う反面、言葉は時間の流れと共にその意味を変えて、たとえば尊称が卑称に(御前、貴様)なったりもします。その逆は余り見あたらないのですが、たとえば他人の奥さん「細君」とよびますが、これは前漢の東方朔の奥さんの名前から来ているといいます。元々自分の妻を呼ぶ「愚妻」と同じ意味で使われていたのに「君」を尊称と感じて、他人の奥さんの意味で「細君」を使ったようです。しかし、これも自分と同等か下位の人の奥さんに対して用いたのであって、上位者の奥さんには使われていないことは確認しておかなければならないでしょう。
「愚息」「豚児」のような言葉は趨勢として消えていく方向にむかっているのかも知れません、私としても積極的に使いたい言葉ではありません。かといって「うちの○○ちゃんに~してあげる」とか、「子供が勉強してくれないんですよ」みたいな言葉を平気で使う親にもなりたくはありませんね。

ジェダイですのよ

N_ota映画字幕翻訳者の太田直子さんの新書「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」を楽しく読みました。
書かれている軽い調子とは裏腹に、映画字幕ならではの翻訳の苦心や、苦心が実らない実利主義への苦言、映画を見る大衆の教養程度の低下への嘆きなど、いちいちうなづける箇所ばかり。
もちろん、苦言ばかりではありません。苦手分野でのご自分の失敗談や楽屋裏ネタバレ話など、こちらもまたにやりにやりと、読む顔が崩れるところが大変たくさんありました。
中でも2箇所、考えされられるところ、まさにその通りと共感を覚える所がありました。

まず、いわゆる禁止用語について書かれたところ。
映画字幕のみならず、文字の刊行物には厳しい禁止用語──(PCワードとも言いますね。Political Correctness……政治的に正しいなんて訳が出たために、いまいちわかり難かったのですが、政治家(politician)が公共の場で口にできる言葉という意味だとの解題がついていて、なるほどと膝を打ちました)──があって、理由の如何に関わらず、その言葉を使うのは御法度になっています。
太田さんが引っかかったのは、個人に対する差別感情がなんらない用法での、その手の言葉の使用まで杓子定規にだめと判定する配給会社の姿勢だったといいます。
何度も押し問答の末に、かの大文豪ドストエフスキーの文学作品のタイトルとして定着している言葉をその文学作品を語る際にそのまま用いることを承知させたという体験談には、大変感動しました。これがダメなら他の人に仕事を回してくれとまでいう背水の陣で交渉した結果でした。
しかし、成功しなかった場合にも考えさせられました。
個人への差別ではないと抗議したにもかかわらず、「その言葉を見聞きして、少しでも心に痛みを感じる人がいる限りその言葉は使ってはならない」という上司の言葉には重みがありました。使う側の心構えではなく、あくまで受け取る側の立場に立って考えろという、当たり前ながら、ともすれば自己の正当性を信ずるが故に、鈍感になってしまっている他者への配慮をまず考えるべきだという主張は、わたしたちすべてが肝に銘じなければならないことだと思います。

さて、第二は、キャラクターの設定について。
それこそ、この投稿のタイトルと関連しています。
まず太田さんの著書より簡単にその辺りを。
インドネシアの貧しい家庭、見るからに無学でぐうたらな父親が裕福な少年からもらっきた物を嬉しそうに見る息子に「そんなもんもらうんじゃねえ、さっさと返してきやがれ!」と字幕をつけました。
字幕は英語台本から翻訳して、その後インドネシア語の専門家にチェックしてもらったのですが、専門家から、親は極貧の生活をしていても子供の教育やしつけに熱心だ、このシーンも言葉は乱暴ではなく、言い聞かせるように穏やかな言葉遣いだと指摘されたとあります。つまり、「生活水準が低い=下品・乱暴」というステレオタイプの偏見があったと作者は反省しています。見た目で勝手にキャラクターを設定してしまったというわけです。
人の話している言葉のニュアンスはネイティブでない者にはなかなかわかりません。最低意味を把握するために付する字幕ですが、時には思いがけなく強力な影響力を持っていることが改めて理解させられました。
さらに太田さんは話を進めて、米大リーグやNBAの選手が話している字幕に、その口調とは合っていなくても、決まって「おれは……何とかだぜ!」の様な表現が現れることにも注目しています。まさに偏見、固定観念のなせる技だと。そもそも、なぜ彼の一人称は「おれ」なのか、と。

実はこのあたり、わたしもずっと頭を悩まし続けて来たことで、いまだもって解決策は見いだせていません。
英語では男も女も"I"なのに日本語となると、どの「わたし」を採用するかでその人の性別、年齢、時代物なら身分、教養程度、下手すると人格まで決定していてしまうから厄介です。おまけにどの「わたし」にもそれに従って使う語尾がおおよそ決まってくるのですから、早い話「わたし」が文全体を規定すると言っても言い過ぎではありません。
かといって、テストの英文和訳ならいざ知らず、すべて「わたし」で語尾は「~です」というのはまったく現実的ではありません。変化のあるのが日本語の特質なのですから、それを無視しては生きた日本語になりません。ただ、どの程度に何を採用するか、その匙加減がとても難しいのです。

ちょっと例を一つ。
SWのジェダイといえば最盛期にはオビ=ワンをはじめ、ヨーダ、クワイ=ガン、メイス、アナキン、と上げていけばきりがないのですが、スピンオフ小説には有名どころ以外にもオリジナルのキャラクターが大勢います。特にあるスピンオフシリーズでは女性ジェダイがたくさん活躍します。フェミニズムの現れか、それとも作者が女性だからか、単に登場人物をバラエティに富ませたいからか、その辺りは不明ですが。
もちろん原文では男性ジェダイと女性ジェダイの言葉遣いはまったく差がありません。あるとしたらヨーダ様の逆さま語法くらいでしょうか(笑
ところが、訳す段になると急に女性ジェダイが「~だわ」「~なのよ」「~なのね」と女性語尾を使い出します。ライトセーバーを振るって獅子奮迅の活躍をしたり、高速でスターファイターを操って次々指示を下すのに「~わ、よ、ね」でも無いと思いました。 しかもジェダイは幼少時より聖堂で育ち、男女の差なく同じ教育、訓練を受けてくるのですから、基本的に差は無いと考えられます。ですからジェダイの言葉遣いは基本的に同じであるとしていいのではないか、特に男性原理で動いている女性ジェダイは男性言葉を使ってもいいのではないか、いや女性言葉を使ってはおかしいのではないだろうか……そんな具合に考えて、女性にも「~だ」「~なのだ」とやりましたが……。
問題がいくつか浮上しました。複数のジェダイが出てくるとあまりにも同じ言葉遣いばかりで単調、面白くない、誰が話しているかわからない。最悪、女性らしくない、かわいげがない……orz
そうなんですよ、英語の場合必ず誰が言ったか、少なくとも女性が言ったか男性が言ったか書かれているので問題はないのに、そのまま日本語にすると、やたら「~と言った」が目に付き出します。それも「彼が、彼女が」となるとさらに違和感は増し、かといっていちいち名を使って「○○は言った」としても重たくなります。
結局、適度に女性語尾を足して、かといって使いすぎは、安っぽく作為的になりますから、適度に男性風に言い切りにして。場面も緊迫した急の場面では短く男性的に、心情をかたるような緩の場面では多少なよなよとした風情で女性言葉をつかってもらいます。
すると、今度は性格に一貫性がなくなってきて、この人は一体どういう性格なのか、とわからなくなってきます。日本語が母語である以上、女性は女性の言葉を使わないと、人格まで変わってしまうようなのです。
何度も口に出してみて、こんなことこんな場面では言わないよね~と、ばっさり切ったり、どう見てもへたな芝居の台詞みたいとがっかりしてみたり、いっそのこと「~じゃん」であったり、「~とか」「~みたいな」などという言葉のほうが実際に話されている言葉に近いのではないかと乱暴なことを考えたりして、再考、再考の繰り返しです。

知らず知らずのうちに自分の中にできあがっていく登場人物のキャラクター、それが勝手に口を開いて日本語で話を始める、そうなってくれれば一番いいのですが、それはとりもなおさず英語から日本語へ意味以上の転換を行っている──つまりわたしの好みの恣意的なキャラクター付けが定着しつつあるということなんだと思うと、げに怖ろしき翻訳ではあります。

※このエントリのタイトル「ジェダイですのよ」は星新一さんのショート・ショート「殺し屋ですのよ」から頂きました。これも、殺し屋という職業と女性とのギャップを一言で表している、一度聞いたら忘れられないタイトルです。

密かな楽しみ

たとえば……の話し。
たとえば、一つの話を読み込んで、それを下敷きにしてスピンオフを書くとか。
たとえば、一つの話をとことん読んでそれを翻訳するとか。
なかなかできそうで、できない──言うは易く行うは難いものです。
全くの創作ならば、作者は自分。世界の創造主たる自分は世界の生殺与奪の権を持つ。
登場人物に話をさせて、笑わせて、泣かせることも、身も心も無いほどの恋に陥らせることも、指の一振りでできる。

ところが、二次創作、翻訳にはその自由は認められません。
あくまでも先に原作ありき、です。
作者との違和感を持ちながら言葉を紡ぎ出していく作業は、自分の言葉でありながら自分の言葉と違う……いや自分の心でないものを自分の言葉で織り上げていくのか?

でも、時としてそう捨てたものじゃないと思えるときもあるのです。
どんな時かって?
いろいろあるのですが、特にうれしいのは……たとえば、下はいま手をつけているある一節。

(原文)He had congratulated himself for overcoming his old rivalry with his friend.

(試訳) 彼は、ずっとむかしの、相棒への対抗心を自分が完全に克服したのに気づき、思わず密やかな笑いをこぼした。

試みと書いたのは少し冒険をしたからです。
まともに訳したら、「自分で自分を褒めてあげたい」みたいな手垢の付いた文になってしまうので、う~~んと考えて。
そういうときには自分がこの彼に同化するように、彼と相棒の関わり、その後の人生なんかをわかっている限り自分の感情キャパみたいなところにどんどん水を溜めるみたいに溜めていって、そして考える。このときどんな気持ちになるだろう、どんな感情に襲われるだろうかって。
大げさですが、大体こんな感じ。
追体験というか共体験というか。
そうすると、昔は若気の至りで相手に抱いていたライバル意識が、いつの間にか消えていて、相手への気持ちは良好な友情に昇華している、それに気が付いて自分で自分を祝福したくなった、そういう気分。ただし、祝福というような言葉はここには相応しくない……
そのとき、このキャラが自分の心に気がついてにっこり笑った絵が見えてきたのです。
でも、その笑みはあくまでも自分に向けたもの。相手に悟られるわけにはいきません。しかもそんな自分の姿にちょっと照れも感じているので、密かに笑みをこぼしたわけ。

わかってますよ~。翻訳の則を越えてるよね。
いくら気に入っても、主観的すぎる。残念だけど、ボツか。。。
そう思って、なおも次の文を見たとき、そう、こんな時なのですよ。
さっき言った「うれしいとき」っていうのは。

次の原文 He shook his head, smilig. (彼は笑って首を振った)

あらら、やっぱり同じ事考えていたんだ、読みは外れて無かった。ボツにしなくて済んだ。
時々ありますね、こんなこと。後続の文を読まないうちに先取り訳をしてしまうこと。
大抵想像力働かせ過ぎのときですが。
こんなとき、ほんとうに「幸福感」を抱いてしまいます。
なんだか作者とシンクロして、しかもキャラと一体になれた。
うん、これがあるから、やめられないのかもしれませんね。

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とっても気になったこと

重箱の隅を突っつくつもりはないのですが、TVを見ていてとても気になったことがふたつ。

その1
25,26日の○ジテレビで全日本フィギュアスケート大会が中継放送されました。ところがその最初のタイトル・・・あっと目を疑った文字が。 

"GOD BRESS YOU "・・・・・・・・・・・・ってもしかして GOD BLESS YOU のこと?

まさかのまさかですが、これは全くのスペルミスですよね。だって bress なんてないもの。
ちょうどクリスマス、クリスチャンではないけれど神様の祝福がありますようにと、オープニングに雰囲気で畏れ多くも神様を引き合いに出すのもどうかと思いますが。それこそクリスマスだから神様も普段、信心の薄い者でも大目に見てくださるかもしれませんが、それにしてもスペルミスはちょっとお粗末でした。

その2

これは全くの聞き違いかも知れませんが、一度ならず聞いてひっかかったので書いておきます。
○ショ○ルの強制排気式温風ヒーターの欠陥で死亡事故までおきて今メーカーは製品を回収すべく必死です。数あるコマーシャルも「重要なお知らせ」のリコールの呼びかけに代わっています。
ところがその丁寧なお知らせの言葉の中に気になる一点。

普通車のリコールなどでも「199×年製の○△(製品名)にこれこれの欠陥があります」という具合に報告するのですが、それが「13年も前に製造された温風ヒーターに・・・・・・」と聞こえるのです。
きになるのが助詞の「も」。悪く解釈すれば13年も昔の製品だから当時としては最先端の技術だったけれど今となれば時代遅れも仕方がないとか、13年も昔の製品を使っているからもう不都合が起きても仕方がない、というようなニュアンスを感じてしまうのです。
だからといってメーカーが責任逃れをしているとか言うつもりは全くないし誠心誠意回収に勤めようとしているのはよく伝わってきますが、なんだかその一つの「も」がすごく気になってしまいます。

もしかしたら「も」が入っているというのはわたしの聞き違いかも知れません、だったらこの批判は全くの筋違いになってしまいますが。でもなんだかお知らせ全体からこの「も」的なニュアンスを感じてしまうのはどうしてでしょうか。機会があったら聞き耳を立ててみてくださいな。

似而非なるもの

まずこの一節を読んでみてください。

ソースはこの文章を分析したケンブリッジのMatt Davis氏のページから

Aoccdrnig to a rscheearch at Cmabrigde Uinervtisy, it deosn't mttaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetnt tihng is taht the frist and lsat ltteer be at the rghit pclae. The rset can be a toatl mses and you can sitll raed it wouthit porbelm. Tihs is bcuseae the huamn mnid deos not raed ervey lteter by istlef, but the wrod as a wlohe.

どうでした? 読み始めて、あれスペルミスしてるよと思いましたか? それとも違和感を持ちながらも何となく読んでしまいましたか?
読み出すとなるほど、そういうことかとわかります。

──つまり単語の中で最初と最後の文字が間違いなくその場にあれば残りの文字の順番はがちゃがちゃになっていてもちゃんと読めるというもの。人間が文章を読むときには逐語的に一文字一文字読んでいるのではなくて単語を全体として捉えているのだと。こういう文字組み替えを"jumble"といいます。

Matt Davis氏のサイトへ行くとスペイン語、フランス語、ドイツ語、デンマーク語、チェコ語、アイスランド語、ポルトガル語、スウェーデン語、インドネシア語、ロシア語、アラビア語、ハンガリー語、イタリア語、ゲーリック語、ポーランド語の各バージョンが報告されているとのことです。

更にDavis氏はこの文字組み替えについていくつかのルールを解明しています。
たとえば、2,3文字の短い言葉は変更しない。
機能語(the, be, and, youなど)も置換しない。そうすれば文法構造が保たれて次にくる言葉を予測しやすくなる。
文字の入れ替えを行うときには隣接の文字で行う方が読みやすい。たとえばprpblemに対してporblemは読みやすいがpborlemは読みにくい。パソコン画面でも人は外側の文字の方が内側の文字よりも認識しやすい。つまり外側の文字の方が隣接文字でも混同が少ない。
もう一つ大事な事は、組み替えた単語が他の既存の単語にならないようにすること。また、もとの言葉の音を保持していること。なぜなら音が読むという行為をサポートしているから。たとえ意味だけを取って読んでいても音に依るところが大であるから。
それに文章が理にかなっていて内容が十分予測可能であること。たとえ読む言葉からの情報が少なくても後続にどのような言葉が来るか推測できること。人の話がよく聞こえなくてもその文脈で何を話しているかわかるように書かれた文章にもこれは当てはまるということ。

その他にもいろいろ心理学的な検証などしているのですが、おおよそ面白いのはここまでです。

とある国立外語大の言語教育論の授業で学生に渡された紙には故意にミススペリングを含んだ文章が書いてありました。しかし音読するように言われた学生達は例外なくjumble語ではなくて間違いのない文章を読んだということです。
ある一定以上の水準に達している言語学習者は単語の最初と最後を瞬時に読みとって文脈に照らしてその言葉を推測して読んでいく、だから読む速度も速くなるという事を実験的に明らかにしたということですね。

わたしの経験でも、たとえばthough, through, thought, thorough をなかなか判別できない学生がいるのを知っています。
音読する段になるとそこで間違えるか、ぴたりと止まって一文字ずつ確認して読む。そんなときにはとっておきの方法を教えます。
まず全体を見て一番短いのが though
真ん中に"r"が見えたら through
最初と最後に"t"があったら thought
長くて"o"が中央に二つあったら thorough それにこれは thoroughly になって出てくることが多い

かなり微妙で感覚的だなあと思っていましたが、どうしてなかなか理に適っているでしょ? あ、もちろん意味を考えながら読まないといけないのは言うまでも無いことですが。
他にもこういう禁じ手がいくつかあるんですが、自分が効率よく読む分には構いませんよね。

さて、アルファベットを使った孤立語系の言語で作ったjumble、これを日本語で応用できないものか考えてみました。しかし日本語のような膠着語では明確に単語を区切らないので、まず同じ方法は使えません。
また、漢字はそのものを形態(ゲシュタルト)として認識してしまうので、異なった文字を使えば、たちどころに「違う」事に気が付きますし、更に違う文字は違う意味を担うので文意が変わってしまう恐れがあります。

たまに「米日関係」と書いてあっても「日米関係」と読んでしまうのはあくまでも意味を頭の中で拾って勝手に読み違いをしてしまうからでしょうか。
面白い例に「日ロ(にちろ)関係」になると「日口(にちくち)関係」とは読まないんですね。「にちくち」という言葉が存在しないからだろうと思います。

たとえば──
多くの人に入ってもらう → 大くの入に人ってもらう 

この2文は明らかに異なりしかも置換後は意味不明になってしまいます。

jumbleはちょっと考えても無理なので、意味を担わないひらがな表記のみにして、明らかにエラーの文でありながら読むことが可能で意味が了解できる文を作ってみようと試みましたが。。。

たんぼのなかにんじんがありのすはじめんふかくものすもある。
くものうえんとつからけむりのびたはらっぱふいてんどんうまいぬもあるけばんちょうさらやしき

そうそう簡単にはいきませんね(笑
大事なのがただ音で繋げるだけでなく言葉のひとかたまりの意味を保持しなければいけないこと。余り短い言葉を繋げると意味を保持できなくなることetc.

ここでで思い出したのが、学生時代に歌ったしりとり歌。

「正直じいさんポチ連れてきは幾万ありとてももから生まれたもしもしからすがかあかあ鳩ぽっぽーっぽぽっっぽと飛んで遊べらんめえでこんちくしょうでやっつけろ、皐月は鯉の吹き流し、なんて間がいいんでしょうじきじいさん・・・・・・」
こうやって循環ループに入ります。

歌の一節ずつを最後の言葉で連結して、意味のまとまりは無くさないでおいたあたりが成功の元だと思います。

日本語でのjumble文が作れるかどうか、もう少し頭を捻って考えてみたいと思います。

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звездные войны

"ズヴョーズドニエ ヴァイニー"と読むのだそうです。

StarWarsのロシア語です。

娘の友達がおみやげに買ってきてくれた海○版DVDですが、見る機会がありました。

冒頭から"A long time ago in a galaxy far, far away...."ではない! およよっ、キリル文字がスクロールになって流れ出しました。
最初のコルサント上空のシークエンス、もろにアナキンとオビ=ワンがロシア語で喋ってます。

それにしてもよく似た感じの声の人を使ってます。オビ=ワンのちょっと高めのユアン声、下手するとオビより年輩っぽいドスの利いたアナキンの声。おわ、ドゥークーの声までリーっぽい響く声です。
残念ながらロシア語はさっぱりわかりませんが、どの単語もシラブルが長い、だからみんな早口でまくし立てています。
ヨーダ様まで例のゆっくりした話し方とはほど遠くべらべら早口です。ちなみにヨーダ様は倒置法で話してはいないそうです。なぜならロシア語は倒置した文型は当たり前なのだそうで、ちっとも特化したことにならないそうです。

さて、ここで簡単ロシア語講座です。(全くの受け売りですが)
ロシア語の格変化のすさまじさは(へたれ言語の)英語なんかの比ではないようです。
ちなみに英語はへたれもへたれ、人称変化は例の三単現しかないし、be動詞の変化もたった3種類。他のメジャーなヨーロッパ言語、たとえばドイツ語フランス語などと比べても(大まかに格変化が4つ──単複8つ、人称変化が7つ、名詞に性があるし)情けないほど簡単な言語になってしまいました。
ところがロシア語の変化はそれこそ学習者を泣かせるほどあるらしいのです。
なんと固有名詞まで格変化するんだって!

たとえば、男性名詞 オビ=ワンの12変化

主格  oби-ван кеноби     (単数) オビ=ワンは      
生格 вана オビ-ヴァナ          オビ=ワンの
与格 вану    -ヴァヌ          オビ=ワンに
体格 вана    -ヴァナ          オビ=ワンを
造格 ваном   -ヴァナム         オビ=ワンによって 
前置格 ване    -ヴァニェ         前置詞と一緒に使う 例 о ване オビ=ワンについて

主格 ваны   オビ-ヴァニイ      (複数) オビ=ワン達は (クローンじゃない限りありえないけど→オビ=ワンとその他という意味にはならないらしい、複数のオビ=ワンということらしいです)
生格 ванов -ヴァノフ
与格 ванам   -ヴァナム 
体格 ванов   -ヴァノフ
造格 ванами - ヴァナミ
前置格 ванах   -ヴァナフ

人名の発音は
oби-ван кеноби・・・・・・オビ-ヴァン ケノービ
他のメインキャラは
Дарт Мол・・・・・・ダルト モール
Дарт Вейдер ・・・・・・ダルト ヴェイデル
Анакин Скайуокер・・・・・・アナキン スカイウォーケル
Мэйс Винду・・・・・・メイス ヴィンドウ
Император Палпатин・・・・・・インペラトル パルパティン
Падме Амидала Наберрие・・・・・・パドメ アミダラ ナベリエ
йода・・・・・・ヨーダ
マスターはこうなるそうです
Квай-Гон Джинн・・・・・・グヴァイ-ゴン ジン

Ep.3の終盤、Анакинにoби-ванが「愛していた!」と叫びますが、あれは
"Я лублю тебя!(ヤー ルブリュー チェビャー!)"!!

うう、なんかイメージ違う。。。
面白い経験でしたが、わたしはやっぱり英語版のほうがいいみたい。11月23日を待つことにします。

White Christmas のご褒美

Polar_magic

疑問といえないくらいの小さな疑問がふと心に湧くことがあります。
是が非でも解決しなければならないというほど切実でもなく、心をよぎっただけで時間の経過と共に消えていくものが多い中で、忘れ去られたような顔をしながら心の隅に身を潜めていて、思いもかけない折りに何かのきっかけで意識の表面に浮上してくるものがあります。
そして大抵そういうときには、疑問とその答えが共に手を携えて一気に浮上してくることが多いのです。すると疑問のままに未解決で心に潜めていた年月の圧縮された思い出までが一時に開放されて、その喜びの感覚に、わたしはたじろぎ圧倒されてしまいます。

やけに仰々しい始まり方ですが、先日久しぶりにこういうを体験しました。
事の起こりはCDの整理からでした。
CDの中に一度しか聞いていなかった"ポーラー・エクスプレス"のサントラが目に留まりました。
この際季節外れとは言いますまい、懐かしくなって再生しました。
前半分はOST、ジョシュ・グローバンの甘い声やトム・ハンクスのコミカルな声、子供の素朴な声が流れます。
後半は往年のクリスマス・ソング・ナンバー。そして聞こえてきたビング・クロスビーの"ホワイト・クリスマス"。刻々と「その時」が近づいてきました。

I'm dreaming of a white Christmas
Just like the ones I used to know
Where the treetops glisten
and children listen to hear sleigh bells in the snow

I'm dreaming of a white Christmas
With every Christmas card I write
May your days be merry and bright
and may all your Christmases be white

中学生の時クロスビーならぬアンディ・ウィリアムズの歌で覚えました。とても易しくポピュラーな歌詞なので一度覚えてからは口に浮かんで来るままに歌い続けてきました。
ただ、一箇所、最初に書いた「小さな疑問」が浮かんだことを除いては。

それは第一連の最後の2行。

Where the treetops glisten and children listen to hear sleigh bells in the snow

今までに自分がおくってきたクリスマスをしみじみと思い出しているところです。
「木々の梢がきらきら光り、子供達は橇の鈴の音に耳を澄ます・・・・・・」そう解釈していましたし、まさにその通りなのですが、ほんの小さな、ほとんど意識もしないような疑問が昔からありました。

中学校で習う動詞 listen は自動詞、だから listen to の形で使うんですよ、そう習いましたね。
たとえば、I listened to CDs yesterday. なんてね。

だからこの歌詞を最初に聴いて読んだときに何の抵抗もなく listen toの形でインプットされてしまったのです。でもその後に hear という動詞が続いているのに、当時は気が付かなかったんですね。
とにかく初めに抵抗なく覚えてしまったので、ああ、子供が耳をすましているんだなあと無反省的に素直に思い込んでいました。

その後何回この歌を歌ったかわかりませんが、自然に口に出てくる歌詞が、この部分を歌うたびにいつも、何か釈然としない思いが小さな疑問詞を残していくのです。それと意識しないほどに小さな疑問詞を。

そして、先日ポーラー・エクスプレスを聴いていて、まさに晴天の霹靂、疑問と答えが一度に押し寄せて来ました。ひらめいたとか思いついたなどいう生やさしい程度の言葉では収まりきれないほどの感激!
そうか、そうだったんだという充足感は周囲に充ち満ちました、もしこの感激が目に見えるならば、きっとわたしの周囲がばらいろに光っていたのではないかと思うほどでした。

あの子供達は 雪の中を走っているかもしれない橇の鈴音を聴こうと耳をすませていたのです。

こういうわけです。
hear は「聞こえてくる」という意味です。聞こうと意識しなくても音が耳に届いてくる「聞こえる」です。だから鳥のさえずりがきこえるのはこちらを使います。
一方 listen は「聞こえるはずの音を注意して聞こうと耳をすませる」意味。だから音楽や先生の話を聞くときにはこちらを使うのです。

Children listen to hear sleigh bells in the snow.
この情景、子供たちはもしかしたら雪の中を彼方で走っているかもしれない橇の鈴の音を、耳をすませたら聞こえるかも知れない鈴の音を、聞こえるかなあと耳をそばだてているのです。
その橇は何か素晴らしい物を携えて来るかもしれない、たとえ自分たちのところを目指しているのでなくても、そこにははじけるような期待と憧れが詰まっています。

この短い一節から、12月という雪の季節、クリスマス前の遠い橇の鈴の音。まだ暖房にはマントルピースに薪、香ばしい焼き栗、白い息を吐きながら表をやってくる客人、一枚一枚違った手書きのクリスマス・カードの束、そういったローテクの時代のクリスマスを彷彿とさせる心象風景が浮かんできます。
子供達は鈴の音にうきうきと心を躍らせます。橇が通っているのを知っていて音を聞こうとするのではなく、もしかしたら走っているかも知れない、想像が本当になるかも知れない、そう思いながら、一面の白い世界に繋がる窓辺で、きっとかわいらしく首を傾げて遠くの鈴の音を聞こうと耳をすませているのでしょう。

こうしてわたしの小さな疑問は圧倒的な感動を伴って一気に解決されたのでした。
多分真剣に考えればこの答えはずっとずっと以前に明らかになっていたのでしょうが疑問は忘れられて眠っていました。
その期間があまりに長かったために、歌声に触発されて一気に氷解するプロセスが反動的に大きかったのでしょう。

宗教的変節はよく一瞬にしてなされると誤解されるが、実は転向にいたる過程は長い時間をかけて徐々に徐々に心の中に橋頭堡を築いて行くのだと教わったのを覚えています。意識しない状態での転向の機が熟したとき、まさにそのときに外から何らかの働きかけが行われると、碎啄同時という状態で宗教的転向が行われたように見えるのだと。

大げさかも知れませんが、小さな疑問が一度に氷解するのは案外この碎啄が同じくして起きる状態なのかもしれません。意識の下で疑問は障りとなって固まりつづける、それに対する答えを求めて意識のほんの一部は常に休まずに考え続けている。そして解答を導き出し続ける。
そして、何かがきっかけになってそれらが一度に浮上して意識を支配する。心は長い時間をかけて疑問を抱きそして解き明かしたプロセスを記憶しているから、圧倒されるほどの喜び、感動という形でご褒美をくれるのかも知れませんね。

Deception Point

順序が逆になりましたが、昨日から読み始めました。
日本語で先に読んでしまうといいこともあります。ストーリーが頭に入っているので読みやすい──とばし読みも可(笑
もちろん原文で読むといいこともたくさん──日本語で何となく違和感を覚えたところが解決。しかも訳者さんの苦心も何となくわかってきます。

たとえば──(ネタばれではないのでご安心)
最後の133章で主人公レイチェルがトーランドという男性に呼びかけます。
"Well, nature boy, I suggest you learn fast."
これがこうなります。「それなら、自然の申し子さん、今すぐ学んだらどう?」(越前敏弥;訳)
nature boy ──直訳なら"自然の少年"、"自然児"まさか野生児とは訳す人はいないと思うんですが、意味が変わちゃいますしね。でも"自然の…"としても、語感はやっぱり大自然の中で人間の文明にあまり接触しないで育った少年、となってしまうでしょう? 

実際はトーランドはカール・ゼーガンの海洋版、TVで海洋調査の結果解明されたこと発見されたことなどをわかりやすく解説する番組の司会を務める有名な学者。健康的に日焼けしてあたたかさと情熱が感じられる嫌みのないイケメンの45歳の男性。

ですからね、野生児じゃないわけですよ。しかも nature には生来の、とか生まれながらのという意味もあって、生まれながらに持っている少年のみずみずしい好奇心や純朴さをいつまでも保っている好男児という意味も含まれているかと。。。

「自然の申し子さん」というのは日本語の語感からしたら、確かに変。こんな風に呼びかける人も呼びかけられる人もないと思うのですが、英語では あり!

だからいろいろ考えてのぎりぎりの訳だと思います。うーん、苦心苦心ですね。この人知れぬ苦労に頭の下がる思いです。(たぶん日本語だけしか読まなければ読み飛ばすか、変な訳と思って終わりになってしまうかもしれないですよね)

問題な日本語

Nihongo_sUdon_2ブックレビューをたまに書くのですが、とうとうまだ読んでない本のレビューを書こうとしています。

新聞に広告が載ったときに、この「こちらきつねうどんになりました」の図に惚れ込んでしまいました。

問答無用の痛快さ! これこれ、これですよ。

Amazonでのブックレビューを見ると、内容的にはそれほど新奇な試みはなく、今はやりの"日本語How to本"類とそう大きい違いはなさそうですが、レビューアーが口を揃えて褒めているのが挿入された4コマの挿絵。
まったく、表紙のきつねうどんだけでも読む価値がありそうです。ちなみに出版元の大修館HPにはこの「モンニチきつね」のスクリーンセ-バーもあるようです。

現代日本語の問題、みたいな本はいささか食傷気味で、(以前は見つけると買っていたのですが大野さんの「日本語練習帳」のヒットを境に雨後の筍状態で、玉石混淆、どちらかというと石の方が多くて)もう迂闊に買うまいと心に決めていたのですが、この本はどうやらきつね君の魅力で「買い」になりそうです。