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アナと雪の女王――Let It Go 福井弁バージョン

いよいよ大本命、レリゴーことLet It Goの登場です。
こちらは公式Youtubeチャンネルを貼っておきます。



日本語版からの福井バージョンと原語からぶっ飛び訳の福井バージョンを載せます。
解題というほどではありませんが一つだけ。先におことわりです。
Let it go……往年のビートルズの名曲にLet it beってのがありました。この違いは? 
はい、そもそも"it"の意味するものはかなり広い、というか恣意的であります。文法では状況のitなどと申したりもしますが、その文脈でitが何を指すか話者も聞き手も了解しているという前提のもとで、目的語とか主語が必要だから一応これにしとこうか、として使っているのがitなんですね。
元へ戻すと、Let it beは、itがbe(今あるすがた、あり方)であらせよという(日本語になってないけど)つまりこっちの方が「あるがまま」には意味が近いと。あるがままに在らせよということで、飾らない作らないで、あるがままの姿で向き合えと言ってるようです。それに対してLet it goの方は"release"(解き放て)という意味が大きい、つまり出て行かないように抑えているitをもういい、行きなさいと解き放てということかな。
だから日本語版の「ありのままの姿見せるのよ」の中では「見せるのよ」ここに力点があると思った方がいいかも。隠していた「ありのままの自分」を臆することなく全面に出して(もしくは自分が発現するのに任せて)それを是とするという行き方かと。
ま、解釈は人それぞれだし、何か自分の心に感じるものがあればいいのですから、こんな与太ごとよりも福井バージョン二連発を楽しんでいただけたらと思います。

ありのままで

降り始めた雪は足あと消して      降りだした雪で足あとのうなって
真っ白な世界に一人の私        真っ白けの世界にうちひとり
風が心にささやくの            風が心にこそっというんや
このままじゃダメなんだと        このままじゃあかんよと
戸惑い傷つき               戸惑い、傷つき、
誰にも打ち明けずに           だれにも打ち明けられんと
悩んでたそれももう                      悩んでた、それももう
やめよう                                     やめるわ
ありのままの姿見せるのよ            ありのままの姿みせるんや
ありのままの自分になるの            ありのままのうちになるんや
何も怖くない                                 なんもおとろしない
風よ吹け                                      風、吹きね
少しも寒くないわ                            ちーっともさぶくねえよ
悩んでたことが嘘みたいで           悩んでたことがうっそみたい
だってもう自由よなんでもできる      なんでって、もう自由や  
                                                 なんでもできるんや
どこまでやれるか自分を試したいの どこまでやれるか自分を試したいんや
そうよ変わるのよ                        そやそや、変わるんや、
私                                              うちは

ありのままで空へ風に乗って        ありのままで空へ風に乗って
ありのままで飛び出してみるの     ありのままで飛び出してみるんや
二度と涙は流さないわ                 二度と泣かんで
冷たく大地を包み込み                 ちびたく大地を包み込んで
高く舞い上がる思い描いて          高くうかれる思い描いて
花咲く氷の結晶のように             花咲く氷の結晶みたいに
輝いていたい。もう決めたの        輝いていたいんや。もう決めた

これでいいの自分を好きになって   こんでいい、うちを好きになって
これでいいの自分信じて               こんでいい、うちを信じて
光、浴びながらあるきだそう         光、浴びながら歩きだすんや
少しも寒くないわ                       ちーっともさぶないわ

Let It Go

The snow glows white on the mountain tonight
夜目にも山の雪は白く光る
Not a footprint to be seen
足あともなんも見えん
A kingdom of isolation, and it looks like I’m the Queen
人里離れた隠れ里、 うちはさしづめ女王さんか
The wind is howling like this swirling storm inside
風がひゅうひゅう、 胸の内の嵐といい勝負
Couldn’t keep it in; Heaven knows I’ve tried
押さえられん、お天道さんは知ってる、やるだけはやってみたんや
Don’t let them in, don’t let them see
人に踏み込まれたらあかんで、見られたらあかんよ
Be the good girl you always have to be
お利口さんにしてんと。
Conceal, don’t feel, don’t let them know
隠すんや、なんも感じんと、人に知られんと
Well now they know
でも、ばれてもた

Let it go, let it go
もういい、いけいけ
Can’t hold it back any more
押さえとかれん
Let it go, let it go
かまわん、ばーんといけ
Turn away and slam the door
背中向けて戸をしめちゃれ
I don’t care what they’re going to say
なに言われてもへーちゃらや
Let the storm rage on
大荒れ上等
The cold never bothered me anyway
寒さなんて気にならん

It’s funny how some distance
けったいやな
Makes everything seem small
離れてみればみんなちっこい
And the fears that once controlled me
前はびびってたのに
Can’t get to me at all
こわさを感じん

It’s time to see what I can do
うちにどこまでできるかやってみるんや
To test the limits and break through
それを超えてもっとやるんや
No right, no wrong, no rules for me,
善いも悪いもないで、決まりはないんや
I’m free!
うちは自由や!

Let it go, let it go
いけいけ、やれやれ
I am one with the wind and sky
風と空が味方や
Let it go, let it go
解き放つんや
You’ll never see me cry
もうべそべそせんで
Here I stand
うちはここにいる
And here I’ll stay
ここにずっといる
Let the storm rage on
吹雪、上等

My power flurries through the air into the ground
うちの力は空から地べたへ降るにわか雪や
My soul is spiraling in frozen fractals all around
うちの心は氷の枝になって 枝分かれして伸びていくんや
And one thought crystallizes like an icy blast
ひとつの思いが氷の息吹みたいに 硬く凝るんや
I’m never going back, the past is in the past
家へはかえらん、過去は捨てるんや
Let it go, let it go
いけいけ、どんどん
And I’ll rise like the break of dawn
夜明けの光みたいに立ち上がるんや
Let it go, let it go
解き放つんや
That perfect girl is gone
おりこうさんはもうえん
Here I stand
うちはここで
In the light of day
お日さんの光のなかに立つ
Let the storm rage on
嵐上等や
The cold never bothered me anyway!
なーんもさぶないもん!

アナと雪の女王――雪だるま作ろう 福井弁バージョン

Frozenのご当地弁バージョン第二弾、ここにも八戸バージョンを貼っておきます、こちらもかわいい!



雪だるま作ろう

[アナ:]
エルサ!(ノック)        エルサ!
雪だるま作ろう         雪だるまこせえようさ
ドアを開けて           ドア開けて
一緒に遊ぼう                  一緒にあそぼ
どうして出てこないの?      なんで出てこんの?
前は仲良くしてたのに        前は仲良しやったのに
なぜ会えないの?            なんで会えんの?
雪だるま作ろう                雪だるまこせえようさ
大きな雪だるま                いけい雪だるま
[エルサ:]
あっちいって!アナ…       あっちゃいきね!アナ…やんちゃいわんと
[アナ:]
わかったよ…                 わかった…
[王:]
さ、手袋はいてろ、このほうがいいで落ち着けや。見せんとけばわからんさけえ。
[アナ:]
(ノック)雪だるま作ろう       雪だるまつくろっさ
自転車に乗ろう               自転車にのろっさ
ずっと一人でいると           ずっと一人やと
壁の絵とおしゃべりしちゃう       壁の絵としゃべってまうがの
(頑張れジャンヌ! )            (ちかっぺ!ジャンヌ!)
寂しい部屋で柱時計      寂しい部屋で時計てなもん
見てたりするの         見てたりしてまう
(チクタクチクタクチクタクチクタク)
[エルサ:]
おとろしい、あんばいわるうなってるし。
[王:]
取り乱したらかえってあかん、まずは落ち着くんや。
[エルサ:]
わからん、かまわんといて。頼みや、怪我させてまうが…
[アナ:]
途中気いつけての。
[エルサ:]
どうしても行くんけ?
[王:]
ほんのちょびっとや、すぐ戻るけえ。
[アナ:]
エルサ?                      エルサ?
ねえ、ドアを開けて          なあ、ドアをあけてや
心配してるの                心配してるんや
会いたいわ                  会いたいんや
そばにいれば               そばにいたら
支え合える二人で          支えあえる二人で
あたしたちだけで           うちらだけで
これから                     これから
どうしていくの?            どうしたらいいんや?
雪だるま作ろう              雪だるまこせえようさ

途中に台詞が入りますが八戸版を参考につけてみました!
頑張れ!ジャンヌのところの「ちかっぺ!」は「力いっぱい」の意味で厳密には頑張れ!とは違いますが、「ちかっぺ頑張れ」のように使うのでここでも使ってみました。
八戸版の「光星」は高校の名前みたいです、高校野球の応援を彷彿とさせますね。その伝て行けばここはさしずめ「頑張れ、武高!」
あ、これこそご当地ネタですみません!
「~しよう」は「~しよっせ」「~しよっさ」「~しょーさ」といろいろバージョンありです。

アナと雪の女王――生まれてはじめて;福井弁バージョン

ちかごろ話題の「アナと雪の女王」のご当地弁バージョン、中でも一押しがこの八戸バージョン、ちと貼っておきます。



さて、何かやってみたくなるのが物好き根性ってことで、作ってみました、福井バージョン。
ただし歌は無しの歌詞だけです。比較のために元歌詞と並べました。友人に見せたところ地域でわずかに差があるみたい。ということで、これは厳密には福井県・武生バージョンです!

生まれてはじめて(reprise)

守ってもらわなくて平気       守ってもらわんで平気
私は大丈夫よ             うちは平気やさけ
ねえ、エルサ行かないで      なあ、エルサ行かんといて
ねえ、お願いだから         なあ、頼むさけ
私から離れないで          うちから離れんといて
そう生まれてはじめて       ほや、生まれてはじめて
分かり合えるの            分かり合えるんや
生まれてはじめて          生まれてはじめて
力になれる                力になれる
ねえ、二人で山を降りようよ!   ほれ、二人で山をおりよさ!
怖がらないで              おとろしがらんといて
一人だけ残して            あんたを残して
帰れない                 帰られん
[エルサ:]
アナ…                   アナ…
お願いよ                頼むさけ
帰りなさい               帰ってや
太陽が輝く国へ          お日さんが照る国へ
[アナ:]
うん。でも               うん、ほやけど
[エルサ:]
いいの                いいんやって
ここでは               ここやったら
一人だけど            一人やけど
自由に生きられるの      気ままに生きられるんや
私に近づかないで       うちに近づかんで
[アナ:]
それは無理           ほれは無理やって
[エルサ:]
なぜ無理なの          なんであかんの
[アナ:]
ものすごい雪よ         ひっでえ雪やで
[エルサ:]
なんの事?            なんやってか?
[アナ:]
アレンデールが危機なのよ  福井の危機なんや
[エルサ:]
え?                  え?
[アナ:]
エルサの力で国中が      エルサの力でどこもかも
雪と氷に包まれたの      雪と氷ばっかりや
[エルサ:]
国中が?             どこもかもが?
[アナ:]
エルサなら元に戻せるでしょ?  エルサなら元にもどせるんやろ?
[エルサ:]
いいえ。無理よ。        いや、できんて
やり方が分からない       どうやったらいいかわからん
[アナ:]
できるはず!           できるって!
絶対できるよ!          きっとできるって!
そう!                ほや!
[アナ(エルサ)]:
そう生まれてはじめて      生まれてはじめて
(ひどいわ悲しい)        (なんて もつけねえ)
勇気を出して           勇気出してきばってや
(何もかも無駄だったの)    (なんもかも無駄やったんか)
二人手を取ろう          二人手をとろさ
(無意味だったの)        (無意味やったんや)
冬を終わらせよう         冬を終わらせようさ
(私にできることは)        (うちにできるんは)
聞いて                 聞いてや
(何もない)             (なんもない)
青い空を              青い空を
(危険なだけ)           (あぶないだけや)
取り戻したいの          取り戻したいんや
必ず出来るわ           必ずできるって
力合わせれば           力合わせたら
(やめて!)            (やめてって!)

原詩まるごと福井バージョン訳は次回!

Pain & Pleasure

「楽あれば苦あり」にぴったりくる英語のフレーズはないそうです。
昨日東大大学院総合文化研究科教授(実際のタイトルはもっと長いのですが)のロバート・キャンベルさんの講演を聞きに行きました。

TVでよく拝見する方で実際にお話が聞けると楽しみでした。講演は日本語です。英語じゃないので楽ちんです。

表題が、「楽あれば苦あり」江戸時代から明治にかけての日本人の楽と苦に関する考え方から始まって何を楽、苦と感じるか、どこに楽と苦を見出すのか、などご本人の体験の話も交えて心地よい一時間半でありました。
美しい日本語をお話しになります。専門でもあるせいか格調の高い漢語を何気なく交えて。また最近耳にしたこともないような上品な表現を聞いて、はっと胸を突かれる思いをしました。私たちはこういう言葉づかいを失いつつあるなあと。

Every cloud has a silver lining.

最初にプロジェクターで紹介されたのがこのことわざ。わたしも個人的に好きなフレーズ。ちなみにこんな意味。どんな悪い状況でもどこかに希望があるものだ。→すべての雲(暗雲=逆境の例え)は銀の内張り(雲の縁などから見える光の部分=希望の例え)を持つ
ライニングとはコートの内側に一枚裏がついているのをライナーっていいますね。あれのこと。確かに空に暗い雲が湧いていてもその縁は背後の光を暗示するように輝いています。
今まで上記の意味で解釈して理解していたつもりでしたが、キャンベル氏によるとアイルランド出身のお祖父さんがよく小さいころにこういう格言なんかを教えてくれた、この裏打ちliningには銀(実利主義的にまさに金銭的価値のある銀)のイメージがあるとか。悪いことでも何か利益に結び付く可能性があるという解釈で、ちょっと驚きました。今までのわたしのオルコットふう夢見る少女的解釈の生ぬるさが気恥ずかしくなります。

ともあれ欧米の楽と苦の考え方は、苦の状況を一瞬でも早く脱却して楽の状態を作り出そうという積極的な考えが主流であるといいます。
ところが日本では楽と苦は連続性の中でとらえられています。日本というよりも東洋の考え方がそうなのかもしれません。清朝の小説「紅楼夢」に「楽しみ極まって憂い生ず」というこれまたわたしの気に入りの一節があるのですが、これと何か通じる感性がありませんか?

Pain and pleasure, like light and darkness, succeed each other.

イギリスの小説家、ローレンス・スターン(Lawrence Sterne,1713-1768)の言葉として夏目漱石が紹介した一文。これはかなり楽あれば苦ありの考え方に近いと言えます。楽と苦は対立概念ではなく、100%の楽もなく100%の苦もない、楽になるためにはそれなりの苦行が必要であり、楽の極みにいれば楽が失われることを恐れる気遣いが生じる、ってなことでしょうか。

このように江戸時代の日本人が移ろいやすい楽、楽しみを何に対して感じたのか。それが講演の後半の主題です。1994年に両陛下が訪米されたときにクリントン大統領が歓迎スピーチの中で引用した橘曙覧(たちばなのあけみ1812-1868)の歌がこれ。
たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時 (独楽吟)
独楽吟と呼ばれる52首の連作の一つで、そのすべてが「たのしみは」で始まって「とき」で終わる短歌です。
そのどれもが日常のふとした喜びを歌ったもので、読者にとって等身大の感慨を与えてくれる稀有な江戸時代の文学です。

キャンベル氏が引用したのは、例えば
3 楽しみは 珍しき書人に借り 始めひとひらひろげたるとき
21 楽しみは 世に解きがたくする書の 心をひとりさとり得しとき
18 楽しみは そぞろ読みゆく書の中に われと等しき人をみしとき

とてもよくわかりますね!うん、共感できるというか。読みたいと思っていた本をやっと借りて最初の一ページ目をめくる心のときめき。難解な個所がはっとわかったときのうれしさ。何となく読んでいた本の中に自分と同じ考えの人を見つけたうれしさ。
まさに現代のわたしたちの日常心象に思い当ることが多々ありますね。

キャンベルさんの説明でさすがと思ったのが、これは英語に直すのがとても難しいと言われた点です。氏の18番の歌の試訳です。

It's delightful when I see someone like myself in a book I'm browsing through. 

確かに言葉の訳はできても「全体の姿」が美しくないというのです。氏の言葉を借りると、まず主語動詞補語があって、すぐにwhenが出てくる、そのあとはだらだらとwhenの説明になる。まさに言い得て妙ですね。日本語では「たのしみは……」から始まって期待が高まるそしてなるほどと納得しつつ最後に「とき」の体言でしっかり止める。均整がとれていて安定しています。意味を移すのと全体像を移すのは天地ほどの違いがあることをまたもや強く感じました。

クリントン大統領が引用した9の歌も試訳を披露してくれました。

It's delightgful morning when I'm up and about, and see a bloom that were not there the day before.

ちなみにクリントンのスピーチではこのようでした。

It is a pleasure when, rising in the morning I go outside and find that a flower has bloomed that was no there yesterday.

キャンベルさんはわたしのほうがいいと思うなんておっしゃってましたがw

この後日常の機微を詠んだ歌、家族が健やかで仲良くいることをしみじみ詠った歌を挙げて、これらの「楽しみ」が本当に楽であり得たのは、楽の中に内包する苦を感じていた故であると締めくくられました。
楽と苦についての考察はある程度予想もついて、まこと「われと等しき人をみし」の気分でしたが、英訳についてもまったく同じ感覚で(自分が)いたことがたまらなくうれしいことでした。まさに「心をひとりさとり得しとき」とでもいうんでしょうか。ちょっと言い過ぎ?

みんなでお茶を

Mother

気になることがあるとしばらくそれにこだわって考え続けるのに、解決がつかないといつしか忘れてしまうって、これいつものことですね。
でも完全に忘れてしまったのではなく、意識下では事あれば表面に現れようとスタンバイしているようです。スリープ状態。だからちょっとした刺激でアクティブ状態にさっと戻ってきて同じ状態からリジュームする、誰も思い当ることがあるでしょう。

写真は二日ほど前に届いた"SHERLOCKシーズン2"の一場面のキャプチャです。
少し説明をば。
普段からよく映画を見ますが基本、言語は英語日本語字幕で見ます。耳から入る英語と字幕の間に大きな差がないときにはほとんど意識せずに視聴しています。(というか、それほど気にしないで見てますというべきか)
まれに英語字幕を出して日本語字幕の意味を補完したりもします。その映画が気に入ったときと、それと字幕と話されているセリフとの意味がそぐわないときや文脈上意味がよくつながらないときに実際に話されていることを確認するためにです。

このシーンですがNHKで放映されたときマイクロフトとシャーロックの吹き替えがこうだったのです。(言葉は完全に正確ではないかも)
M: 「母親がわりだったんだよ」
S: 「子供時代からいろいろあったんだ」

最初に見たときから違和感があってどうも腑に落ちませんでした。ひとつにはマイクロフトの原語と字幕の時制が合わない、それを満足させる説明がない、つまり自分の中ではどうにも納得できなかったからです。

BBCのDVDによれば実際のセリフはこうです。(キャプチャでは字幕が保存されないのでアナログにカメラで撮ってみました)

Telop1

M: I'll be mother.  (わたしが母親になろう)
間違いなく助動詞willがあります。過去のことを語るのにwillを用いることは(知っている限りは)あり得ません。ぐっと譲っても言えるのは現在の習性「~そういうものだ」くらいしかないし。
どう考えてもマイクロフトはこれから先のことを言っているはずです。
しかも mother の前に冠詞がないことも気になる一因でした。

さらにシーズン1の1話でマイクロフト、シャーロック兄弟の母は健在でクリスマスには家族が集まる、マイクロフトに至ってはシャーロックがいつも不機嫌だからmammy(幼児語、日本でいえばママくらいかな)が悲しむといっていますから、母親が早くに亡くなって「母親代わり」だった、という解釈は矛盾します。
かといって二人の母親が母親らしいことを何もしない女性で、年長のマイクロフトが家事を取り仕切っていたという新解釈も不自然です。このようなわけでこの部分は、奥歯に物が挟まったようにずっとずっと気になっていたところでした。

Telop7

こちらはメリル・ストリープの"The Iron Lady"突然にすべてが明らかになりました。
開始後1時間12分ころ、フォークランド紛争で出兵するか否か決断を迫られるサッチャー首相のもとへアメリカ国務長官が訪れて出兵を見合わせるように説得する場面で、きっぱりと断ったサッチャーがそばのテーブルにあるティーポットに手を伸ばしこう言います。

"Now, shall I be mother?"  (じゃあ、おかあさんになりましょうか?)
字幕には、「母親役を務めますわ」と。

これで明らかです。お茶を注ぐという動作と"mother"の組み合わせ、どうして気がつかなかったのか。もっと早く気づくべきでした。
おままごとをするときにお父さん役、お母さん役というのがありますよね。あれなんです、つまりイギリスの一般家庭ではティーを注ぐのはお母さんなんです。だからお茶を注ぐときには、私がお母さんをやります、みたいな言い方をするのだということだったのです。
それを「母親代わり」の吹き替えに無意識に引きずられて、それに見合う解釈ができないことで散々頭を悩ましていたというわけでした。

するとその後の展開もよどみなく流れます。
Telop5

マイクロフトの言葉につづくシャーロックの"And there is a whole childhood in a nutshell."も直訳すれば、「ここに子供時代のすべてを端的に表すものがある」―――「子供のころからすべてこの調子だ」となり、すべからく自分が采配を振りたがるマイクロフトのやり方を揶揄する皮肉な物言となるのです。

改めて届いたばかりのBDでその箇所を確認すると、マイクロフトの"mother"から一連の字幕は次のようになっていました。
M: 「わたしが注ぐ」
S: 「子供の頃から仕切り屋だ」
はい、おめでとうございます、一件落着でした。

セリフついでにもう一つ。BBC版の英語字幕を出してみていたときに気がついたことですが、まずはその部分を。
Telop6

M: Don't be alarmed. It's to do with sex.
S: Sex doesn't alarm me.
M: How would you know?

アイリーン・アドラーの説明をしているマイクロフトとシャーロックのやり取り。思わずうなったのが最後のマイクロフトのwouldの使い方。
NHK吹き替えでは「どうしてわかる?」、BD版では「知らないくせに」でした。
これはNHKに分があるように思えます。
マイクロフトは女性(男性も)に関しては晩生のシャーロックをからかい気味に「セックスと聞いても(経験がないからといって)警報が鳴ったように身構えなくてもいい」と言い、すぐさまシャーロックが「セックスが絡んでも全く平気の平左だ」とやり返す。それに対してさらにwouldで「どのようにして恐れるに足らずということがわかるのかね、知りたいと思っても知る機会もなかったの(し、ないだろう)に」と婉曲仮定法を半分だけつかって、シャーロックには現実的にできないことだと、ソフトでかつ「明確に」疑問の形で(ここがまた憎い)投げかけています。にこやかな余裕のある表情だけにマイクロフトのほうがシャーロックよりも一枚も二枚も上手だと知らしめるところだと思います。それだけに意地になって早期解決を確約するシャーロックの青さがまたかわいいのですが。

わたしがゲイティス演じるマイクロフトに惚れたのも、このwould があったからと言っても言い過ぎではないかも。
それにしてもわたしが惚れる人ってどうしていつも……なんなんだろう?
おっと口が滑ってしまったw
今は、かなり長い間意識下でじんわり温めてきた"mother"が自分なりに納得できてうれしい限りです、これこそほんとの"mother complex"だったのかもしれませんね。


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やがて哀しきにゃんぱらり

Y_kobayashi_sepia_2 こんな小説を読みました。

ひとりの女性がいます。
彼女は偏執的に自分の持ち物の耐久性に疑問と不安を抱かないではいられません。
たとえばこの携帯は防水ですと書いてあっても、本当かしら、濡らしても本当に大丈夫なのかしらと思います。その不安が高じて、ちょっと濡らしてみよう……あ、大丈夫だ、と試してみます。
この心理はなんとなく理解できます。大丈夫だと書いてあったのに実際に濡れたら駄目だった、なんて事になると大変だという心理。ただし普通はここまでですよね。

ところが彼女の不安は解消しません。もう少し濡れたら壊れるんじゃないだろうか、水没させたらどうなるの……とエスカレートしていきます。
さて、ここからはフィクション。実際にはその思いが心の隅をよぎっても絶対にしない行為を、彼女はどんどん突き進んで行うのです。
ある意味、この不安心理が理解可能なだけにどんどんエスカレートしていく彼女の行為を(本を読むことで)覗き見していると、こちらまで事の顛末を早く知りたい、行き着くところまで一蓮托生だとと引き込まれていきます。

ついにこの女性はモノで実験するだけでは飽きたらず、生き物で同じような「耐久テスト」を繰り返します。金魚、犬、猫。
実はこの本を紹介することが主たる目的ではありません。興味がお有りの方はどうぞ本を読んで見てください。そのインパクトの強烈さ、凄惨さにノックアウトされること、請け合いです。

これは女性が猫の耐久性を試す下りです。
猫は「背中を下にして落下したとしても、空中でくるりと回転して、足から先に地面に下りることができるのです」──作中から引用

「猫は慣性モーメントを制御すると言えばわかりやすいですか? フィギュアスケートの選手が回転するとき、腕を真横に伸ばした状態から胴体の方に引き寄せるか、あるいは頭上に上げると、回転が速くなりますよね。あれって、慣性モーメントを小さくしてその分角運動量を大きくしているんです」(bid)

まあ、こんなふうにペダンチックに猫が上半身と下半身の慣性モーメントを個々にコントロールして体を二回捻って着地することを説明しています。

ここに登場するのが、猫の回転の擬態音「にゃんぱらり」。他の事はさておいて、にゃんぱらりという表現に眼が吸い付けられました。なんとくすぐられるような、まさに言い得て妙、猫がひらりひらりと身を捩って回転するイメージを喚起する言葉ですよね。
よく音楽の一節が耳について離れない、頭の中でそこのところが鳴りっぱなしという経験がありますが、言葉も同じ、この「にゃんぱらり」が頭にこびりつきました。何をしていてもにゃんぱらり! 軽やかに身をくねらせてひたっと足から着地する猫の姿が目に浮かびます。

にゃんぱらり──完全な擬態語とも擬音語ともいえない折中語。
「にゃん」で猫を表しますが、「にゃー」という重く粘性のある声ではなくあくまでも軽味とかわいらしさがうかがえる「にゃん」、しかも猫がぎょっとしたり、時には痛い思いをして不意に漏らす声でもあります
一方「ぱらり」で猫の肢体の動きを表します。またこれがうまい。「ひらり」では身のこなしの速さはわかってもまだまだ余裕のある様子、または垂直の動きというより水平方向の動き、もしくは一点に静止していて近づくものから身を捩って避けている感じを受けます。
「ひらりひらり」と二回繰り返すとまた視点は変わり、これは静止ではなく水平方向にかなり速い速度で意志的に動いている、言ってみれば大勢の刺客の剣を容易くかいくぐって逃れるイメージか。「ひらひら」となると上方から軽いものがくるくる舞いながら落ちてくるイメージです。

「ぱらり」から喚起されるのは、一つにまとまっていたものが要が切れてバラバラになって落ちる様とでもいいましょうか。生けてあった百合の花弁が離れて床に落ちる様子、檜扇の紐が切れて端から広がる様、元結いが切れて前髪が額に落ちかかる様(髷そのものではいけませんよ、あれは「ばらり」だから)
しかも「はらり」では脆さ、しどけなさ、無力さが正面に出てしまって弱さを強調する反面、「ぱらり」には分解、解体さえも笑って受け入れられる諧謔味が感じられます。
よって「ぱらり」は、それほど重量感の無い物が下へ素早く動き、僅かな時間差で軽く着地する、ないしは動きを止める、まったく悲劇的色合いのないイメージの言葉です。

複合語「にやんぱらり」は、猫が高いところから二度身を捻って最後に四肢を下に着地する、その時に猫は幾ばくかの衝撃と痛みを受け、もちろん大きな緊張を強いられる。その一瞬の動きと静止を的確に表したのが「にゃんぱらり」なのです。
しかも、「にゃん」に含まれる驚愕と痛み、「ぱらり」に含まれる崩壊の兆し、二つが相まって逆さに落ちた猫が身を捩って下向きに着地するのが決して楽な仕業ではない、むしろ一つ間違えば大事にいたる危うさ脆さをそれとなく匂わせています。
「にゃんぱらり」は哀しい、壮絶にして哀感のある言葉だったんですね。

まじめに読んでくださった方ありがとうございます。この記事はニュートラルであるはずの言葉にどの程度こじつけで感傷的意味合いを見いだす事ができるかの実験でした。
実は書きだして中断、かなり時間が経ってから書き継いだので当初書こうと思っていた内容を全部思い出すことができませんでした。思いついたときが書き時だと痛感しました。

最後に書いておきましょう。小説に出てきた猫の「タマ」が「にゃんぱら……」と動きをとぎらせて上を向いたまま落ちていく姿が実際に見たように忘れられません。。。

付記;「にゃんぱらり!」が、漫画「いなかっぺ大将」に登場するにゃんこ先生がキャット三回転の大わざを出すときのかけ声だと知ったのは小説を読んだ後のことでしたが、これはまた小説とは別の話として分けて考えた方がいいようです

和菓子のオン!

仰げば尊し我が師の恩
教えの庭にもはや幾とせ
思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば

連日、全国で卒業式が行われて卒業式ハイ・シーズンです。
小中学校で「仰げば尊し」が歌われなくなる傾向が十数年続いたあと、最近またこの歌を復活させる学校が徐々に増えているというニュースを小耳に挟みました。
個人的には小中高と卒業式にはこの歌を歌いました。またそれが当然の時代でした。一年に一度卒業式にしか歌わないこともあり、なにやら改まった身の引き締まる厳粛な思いで歌った覚えがあります。
しかし……小学生にとってこの歌詞の感慨の深さを理解することは無理でした。空耳で勝手に解釈しないと意味不明で歌えない箇所が多すぎでした。

それで、さっそく空耳リサーチ開始。自分の記憶から
教えの庭にもはや幾年─→早い「くとせ」、何かはわからないけれど動きの早い「くとせ?」というものがあるような……
思えばいととし─→いとおしい (なんとなく語感が似てたから?) 
今こそ別れめ─→今こそ分かれ目だ (ほとんどの人が同じように考えていました。髪の分かれ目みたいに、今こそ卒業していく分かれ目なのだ!)
別るる後にも やよ忘するな/ 身を立て名をあげ やよ励めよ─→「やよ」がわからず、漠然と人名で「やよ」さんに代表で頑張れと言ってるのかなあとか、「やよ」は「それ、やあ」というかけ声みたいな物かとも。
忘るる間ぞなき ゆく年月─→旋律の関係で「まぞ」が強調されるのでこれは何だろうと……意味上はまったくありえないのにどうしてもここを歌うと「マゾ」のような気がしてならなかった。
次に、少なくとも20数年は若い息子の記憶から。
仰げば尊し我が師の恩 ─→扇げば遠とし 和菓子のおん(On2_3
イメージ的に団扇でバタバタ扇ぐと何かが遠くにある。 和菓子を手とって、唱えるアビラウンケンソワカ、オン!(どうやらオンの意味がわからず当時はやっていた漫画か映画からオン!を連想したものと当人も言っています)
まったく驚くべきは小学生の想像力! それにどんな年齢でも「意味づけ」の呪縛に絡められていることを実感しました。
どこかに自分の知っている意味を嵌め込んで納得したいという欲求の強さに舌を巻きます。
意外に「蛍の灯火 積む白雪」のくだりは二人ともまともに解釈していました。内容の新旧というよりも、蛍も白雪も見知らぬ言葉ではなかったからでしょうね!

こんな空耳オンリー人間に目から鱗だったのが高一で古典文法を習ったときのこと。
忘れもしません、高一の一学期定期テストに「いまこそわかれめ」を現代語訳せよ、という問題が出ました。
強調の係助詞「こそ」と意志の助動詞「む」、ただし「こそ」=已然形の係り結びが発生するので「む」は「め」に。
つまり「今別れむ」が「今こそ別れめ」になって、「今(まさに)、別れよう」と訳して正解になるのでした。(ちなみに私は「今は別れよう」と書いてなんとか点をもらえました)
この文法事項は学習済みであったにもかかわらずクラスの大半が「今こそ分かれ目だ」と訳して、古典の先生の怒りようといったら、それは大変なものでした。
でもしかたないですよね、小中と足かけ10年近く「今こそ分かれ目」だと思いこんで歌って来たのですから。
笑い話になってしまいましたが、私はこの歌が大好きです。高校卒業時にも先生への寄せ書きに「仰げば尊しわが師の恩」と書きました。1,2,3番の歌詞から過ぎ去った日々への思い、人々への感謝、別れの寂しさ、新しい門出への期待、別れる人々からの激励と奮起、このような卒業生の頭に去来するすべての感慨が込められているような気がします。

歌詞の解釈はとほほでしたが、何ごとのおわしますかは知らねども、この歌のもつ、気を付けして襟を正したくなるような心地よい緊張感を余計な智恵がつく前に知ることができたのは本当によかったと思っています。
願わくば、小中学校でこの歌の価値が再考されて卒業式で歌われることが増えますように──ただし、歌詞の意味は丁寧にちゃんと教えてあげてくださいね!

たかが客、されど客

P1070256s 先日仕事場で使う温風ヒーターを買うために最寄りの家電量販店○マ○電気へ行きました。 日曜には混み合う売り場も平日午後ということで客もまばら、店員も数えるほどしかいません。
ネットで調べて手頃なメーカーと機種におよその当たりをつけてはいましたが、直接扱っている店員さんに商品について尋ねるのが一番とヒーター売り場付近で見回すと、一人若い男性の店員さんがいました。
しかし、どうも他の人の応対をしているようなのでしばらく待って様子を見ることにしました。

待つことしばし、どうやらそちらの話も終わったようなので「ちょっとお願いできますか?」と声をかけました。
すると帰ってきたこたえが「すみません、今接客中ですんで……」
この言葉にかちんときて大げさに肩をすくめるという、大人げないオーバーリアクションをしてしまいました。
それを見てのことか他の店員さんを呼びだしたらしく、ややあって女性が急いで近寄ってきました。
「どこ?」──「あっち、暖房機のほう」
そのやりとりを聞いてもっとむかっとしました。しかしこらえていると、その女性店員が来たのでヒーターの実際の使い勝手について聞いて、結局最初から予定していた機種を買って帰りました。

さて、その後どうももやもやとして面白くありません。声をかけたけれど相手にされなかった事に腹が立ったのかと、そういう自分のみっともなさの方こそ反省しなければならないと思ってみてもどうも釈然としません。一体何がそんなに気に障ったのだろう……?
数日後、はたと思い当たったが彼の「接客中」という言葉でした。

そもそも「接客中」という言葉はいわば業界内のインサイダー用語なのです。店員内で使う「○○さんは今接客中」、これはOKなのです。 しかし!です。 しかし、客に対して「今接客中」と言えば、言われた方は「じゃ、こっちは客じゃないのか?」という気分にさせられます 。
これが「すみませんが、今こちらのお客様とお話しておりますので、他の者を呼びます。少々お待ち下さい」と言われたら、こちらも「わかりました。ごめんなさいね」で何ごともなくすんなり行ったものを。それともわたしの言葉に対する反応は逆ギレ、言いがかりなのでしょうか。
でも「接客中」という言葉では、応対している客に対する敬意も感じられないんですよね。やはり「お客様」というべきじゃないのかな。
そのあとのフォローも最低。他の店員を呼んだところまではいいとして、どこ?──あっち、はないでしょう。客は物ですか? 周囲が静かだから全部筒抜けに聞こえているんですよ。

おそらく店員同士の間では接客中と言う言葉は日常の用語になっているのでしょう。その言葉自体の意味は敬意も軽蔑も含まないニュートラルだと思いますが、誰に対して、またどのような時にもそうであるわけではありません。少なくとも客に対しては。
もちろん例外も考えられます。
もしわたしが従業員の誰かに用があって電話をしたとします。そのとき「○○は今接客中なので……」と言われた時には何も引っかかりは感じないでしょう。それはその人がどういう状況にあるかを客観的に説明しただけでわたしの立場も客とではないからです。(その場合でも「○○は今お客様の応対をしておりますので……」といわれた方が耳に心地よい柔らかい物言いだと思いますが)
自分の立場への認識、確固とした職業意識を持つことはなかなか大変なことです。しかし人相手の職業を選んだからには、ほんの些細な言葉遣いが相手の気分を害する事もあるとしっかり肝に銘じて欲しいものです。

とはいうものの、わたしもその一言がなぜ気に障ったのかはっきり認識するまでに何日かかかったのですから、騒ぎ立てるほど大した問題でもなかったのかも知れませんが、ね。

写真は二年ぶりに咲いたセントポーリアです。記事とは関係ありませんが、可憐で健気なのでおひろめです。

子供に「はよしね!」という親

最近盛り上がった方言ネタです。
わたしなど何度子供に「はよしね!」と言ったことか(笑

はよしね──文字面から標準語訳すると「早く死ね」と受け取られてしまいます。
しかしもちろんいくら子供がもたついているからといって「早く死ね」とはいいませんよね。(お前なら言いかねないという声が聞こえたような……)

解題; 「はよ」 形容詞「はやい」の連用形「はやく」のウ音便「はよう」の短くなった形。
「しね」 サ変動詞「する」の命令形「しろ」語幹+補助動詞「なさる」の命令形「なさい」→「しなさい」の「なさい」の部分が「ねー」と崩れて更に短縮して「ね」になった形。
あくまでもわたしの考えなんですがねw

女性ではのんびり系で「はよしねーの」(はやくしてね)とか、きりきり系で「はよしねま!」(はやくしなさいってば! B音→M音で説得力があるでしょ?)、男性は「はよしねや」(はやくしなさいや)などというバリエーションもあります。

こちらの地方へ来られる方は、理知的できれいなお母さんが可愛い子供に向かってにこやかに「はよしね」と言っているのを耳にしてもゆめ驚くことなかれ。まったく日常のことなのですから。

遅れてきたカフカ

0907kafka七月になってしまいました。気がつけば先回更新してからはや一カ月!
全て世は事も無し……の毎日を送っていたという証ということにしておきます。

毎週参加している勉強会のメンバー有志で5月から翻訳のワークショップを始めました。
かなり格好よく聞こえますが、要するに、それぞれが好きな原文を持ち寄って毎月の課題を決めて、同じ箇所を試訳する、それを最終週に持ち寄ってコーヒーを飲みつつ全員で読み合わせ、疑問点、問題点を話しあうという、気まぐれお楽しみの翻訳勉強会です。
去年まで頂いていた翻訳の仕事が一段落してから、これといって訳すものもなく、一人でやっていてもモチベーションが上がらないというのが手近な理由なのですが、だめ元で勉強会メンバーに話をしたら、たくさんの方が乗ってくださった……というわけです。
〆切り無し、実験的な訳をするもよし、かなり自由に想像力を働かせることができます。課題は、内容を正確に伝える事が第一義である政治、経済、科学的な文章はちょっとご遠慮ねがって、翻訳の技術を高めるのが一番の目的なので、どうしても文芸物偏重になりますが、それはそれで大いに結構なこと。どんな課題が出されるか予想もつかないのが、これも楽しみ。自分の好みとはまた異なった作品に触れられるので、サプライズであり、心ときめくものがあります。

5月の課題は、言い出しっぺのわたしの独断でLoise Pennyの"Still Life"第一章冒頭部分を。
静かなカナダの小さな村で起こった殺人事件、捜査に村を訪れる殺人課の警部の物語です。訳す部分は短かったのですが、いきなり事件の真っ直中に放り込まれるように始まるために、後の部分を読まないと人間関係がわかりにくく、したがって訳に適した言葉を選びにくいという難がありました。またカナダの警察組織、モントリオール郊外の地勢など調べることも多くその辺りも大変でした。
読み合わせをしてわかったこと。本当に短い、単語にしたら4,5語の文章でさえ、まったく同じ訳が出てこない!ということ。つまり5人の翻訳者がいたら5通りの訳ができるということです。あたりまえの様に聞こえますが、一つの原文に対して訳が多数あり、しかも出版された訳本の読者にとって、読む機会があるのはそのうちのたった一つだということ、これは著しく不公平なことに思われます。
だから原文を読まねばならないという原文主義を振りかざすわけではないのですが、翻訳は、訳者の知識、言語センス、原作に対する解釈の深さ、思い入れなど、たくさんの要素が絡み合って実に多様な表現形式をとる可能性があることを忘れてはいけないと、改めて考えさせられました。

つい昨日終えた6月の課題文は今ベストセラーチャートのトップにある「1Q84」の作者、村上春樹の「海辺のカフカ」の英訳版でした。
これはまた面白い挑戦です。日本語の原作を英訳したものを再度翻訳するのです。もちろん原作に目は通しません。あくまでも英語→日本語の翻訳というプロセスを経て、新たな日本語版を作る試みです。
幸運な事に、というか、不勉強なことに、というべきか、メンバーのだれも海辺のカフカを読んだことのある者がいなかったのも、まったく先入観無しに作品を読み訳すという作業が楽しめる一因になりました。
訳してみて感じたのが、日本語がベースになっている英語はネイティブの英訳にもかかわらず、どこかに日本語の響きが残っているということです。おそらく文と文の繋がりの構造が(つまり考え方が)日本的なのだと思います。矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、(村上氏の文章の特徴でもあるのですが)、ある意味日本語独特の曖昧さが少なく、主述の関係が明確でセンテンスが明解なので、大幅な語の追加や文構造の変換を行わなくても素直に英訳しやすい文章なのだと思います。ゆえに、日本語の響きの残る英文ができあがったのではと愚考してみるのです。この英文をネイティブが読んだ時にどのように感じるか、それを聞いて、われわれが原作を読んだ時に感じるものと、どこが似通っていて、どこに相違があるのか、いま一つ踏み込んだ追跡調査をしてみたい気分になります。
最後に数名のメンバーの、それぞれに個性のある翻訳をまとめて、原作と対照読みをしようとおもいますが、比較して(原文といかに近いかというあたり外れではなく)翻訳というフィルターを2回かけるとどれほど変わるか、もしくは変わらないか、それを見るのが待ち遠しいのです。
ちなみに7月のお題はJodi Picoultの"Nineteen Minutes"です。最初のページ半分で、もう引き込まれそうな勢い。これまた読むのが楽しみです!