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アジアン・ビューティーからジャパニーズ・ビューティーへ

Tsubaki

先程まで私の目の前に二本のボトルが立っていました。
といっても、アルコールではありません。シャンプーとコンディショナー(S&C)です。 
シャンプーに関しては、こだわりの少ない人間なので特定の銘柄でなくてはいけない、などということはなく、スーパーへ行っては、目に付いた商品を、ある時は値段で、またある時はパッケージで買ってくるという、いかにも主体性がない消費態度です。

今回買ったのが、資生堂のTSUBAKI と名づけられたS&C。
人目を惹く暗めの赤のボトル、肩に貼った丸い黒いシール、このインパクトのある意匠には完全脱帽しました。
浴室に並べてつくづく見ながら、そして使いながら、どうしてここまで惹かれるのか、考えてみました。

まず最初に、ボトルの色に目を惹かれます。
これまでのシャンプー、リンス、コンディショナーにはあり得なかった色。
日本のトイレタリーのコンセプトは、清潔、清々しさ、優しさ、美しさが主流だったように思われます。
ゆえに、ボトルの色も清潔で穏やかな白、水色、レモン色、ピンク、爽やかな青、空色、若々しさを協調したオレンジ、黄色……
ヒット商品になった花王のアジエンスすら、ボトルは薄いベージュと黄色の中間色で、イメージは穏やかでした。
ただ、ボトルに白の細かい蔓と花のアラベスク模様が重ねられて、縦書きAsienceの文字と、蔦と花びらのシンボルマークが濃い臙脂で、端渓を連想させられました。
ボトルは片方の肩が上がったデザインで、CMのチャン・ツィーイーのすっくと立ったいさぎよい姿を彷彿とさせます。実は今まで使っていたのが、このアジエンスなのですが、使い始めた理由は単純、チャン・ツィー・イーの醸す雰囲気にのせられたからというだけです。

さて、TSUBAKIに話を戻すと、まずボトルを見た途端に連想したのが「瓶子」の形。日本古来の酒を入れる器の形です。
色は前述したように今までの常識を破るような暗い赤。そしてつやのある赤。これは椿の赤というより、もっと爛熟と退廃に近い赤。この色を選ぶにあたって大きな決断を迫られたと思うのです。
清潔のコンセプトからの脱却、仄暗い灯火の揺らぎの中で深い濡れた輝きを見せる黒髪のイメージです。いにしえの絵巻の世界、六条御息所の芥子の香りのする吐息の世界。爽やかさを良しとするトイレタリーの常識を、より観念的で文学的な艶、におい、いろ、へと転換を図ったエポックメーキングなアイディアです。しかも、それが市場で受け入れられると、大衆の受容性を信頼した決断だったと思います。
黒髪の美しさ、それを端的に表すのが、ボトルの肩に張られた黒いシールです。シールには「日本の女性は、美しい」のコピーがあります。これも冒険といわざるを得ない点です。
今、緑の黒髪、烏の濡羽色の黒い髪の日本女性がどれくらい居るのか、または「黒髪」が現代の日本女性へ求心力があるのか、ということです。
黒髪を最高と考え自分の髪を黒髪にしたいと思う女性は少ない……それなのに黒髪を前面に押し出す──つまりイメージ戦略です。ファッション性やトレンドから自分の髪は茶髪にしていても、美意識は黒髪を選ぶ、そういう自己矛盾した現代の女性の実体をよく把握していると思われます。

ちなみに、赤のボトルから黒い円形シールを剥がすと、神秘的な雰囲気は半減します。赤と黒が相補的に色を深めあい、色がシンボライズする、日本文化の影の部分の豊かな奥深さを、感覚的に思い出させるのです。このシャンプーの形と色の選択は、即物的な清潔感ではなく、幻影に賭けたものといえるでしょう。つややかな黒髪と椿油の古典的イメージを商品化して、購買者のもつ集団幻想を喚起するという点がエポックメーキングだと思われる所以です。

さらに後押しをするのが、香りです。
今までの香りの主流はシトラス系、または爽やかなフローラル系でした。やはりこれらは、清潔、清々しさ、気持ちよさ、柔らかさ、幸福感などのイメージを膨らませる路線でした。
TSUBAKIの香りは、一度かぐと、忘れられない「甘い」香りです。香りの種類は全く違うものの、サンローランのオピウムを最初にかいだときと同じようなインパクトがありました。
こくのある「あまやかさ」、重く鼻腔をくすぐる甘さ。官能という言葉を思わせるつやと翳りとたおやかさを併せ持った香り。浴室に入ると、前に入った人の使ったシャンプーの香りが残っていることがよくありますが、開発者はこのシャンプーの残り香をも考慮に入れて新製品を作っているのだと思います。

めったに商品の手放しの礼賛をしない人間だと自負しているのですが、このシャンプーは(シャンプーとしての品質や価格はいざ知らず)姿と色と香りに、日本人の感性が一段大人になった証拠を見せてくれているような気がしてなりません。

史上最大のジョークの種

読売新聞のコラム「編集手帳」にこんなジョークが載っていました。

ブッシュ大統領が酒場のカウンターに座った。
「ジョニー・ウォーカー、シングル」と、右隣の男がバーテンダーに注文した。
左隣の男は「ジャック・ダニエル、シングル」と注文した。
「お客様は?」と聞かれて大統領は答えた。
「ジョージ・W・ブッシュ、既婚」

またこういうのもありました。
「大統領は神童だった。十歳にして現在と同じだけの知性を有していたのだから」

さらに
(問い)神様とアメリカ人の違いは?
(答え)神様は自分のことをアメリカ人だと思ったことはない

すべて、出典は早坂隆氏の「反米ジョーク集」(中公新書ラクレ)
「華氏911」でもこっぴどくやり玉にあがっていましたが、世界に冠たる超大国アメリカの大統領でここまでこけにされている人も初めてでしょう。
ケリー氏との公開討論会でもしどろもどろになるなど(知性のなさで)強い印象を与えたし、日常の言動もどこか軽佻軽挙のそしりを免れない・・・・・・
実際昨年の大統領選挙戦では、特に海外メディアの下馬評もケリー優勢、海外知識人が圧倒的にケリー支持した・・・・・・のにも関わらず一般投票でも51%を獲得して、雪崩的に選挙人票もさらえとって再選に輝いてしまいました。

一説にはブッシュは抜けているが回りを固める参謀が優秀なのだとも。
24のシェリーのモデルと言われる新国務長官になるゴンドリーザ・ライス氏(現大統領補佐官)を見ていると、これほどの切れ者がどうしてあの人に??と疑問を持ってしまいます。

選挙では妊娠中絶や同姓結婚に反対する「道徳的価値観」(moral value)を全面に押し出して、新保守派の票を獲得しました。
賢いやり方だと思います、なぜなら「宗教」を全面に押し出すとそれ相応の反発も予想されますが、汎宗教観に根ざした「道徳的価値観」に正面切って「それは間違っている」と反対を唱えることは誰もできないから。
たとえば妊娠中絶にしても「いかなる段階であろうと人の命を人の手でつみ取るのは犯罪」=「汝、殺す無かれ」に真っ向から「人を殺してもOK」とは言えるわけがありませんや。
この錦の御旗に対して 「女性の人権」とか「母体保護」とか「暴行による妊娠」とか果ては「経済的事情」 の上げる声のなんとか細く聞こえること。

政治的浮動票をなす多くの「良識人」たちをインテレクチュアルにではなく、センチメンタルに引き寄せる見事な作戦勝ちだったと思います。
全米を真二つに分けたといわれる選挙戦が終わり、20日に行われる二期目の就任式には全体で40億円もかけるそうです。その多くが民間の寄付でまかなわれるとはいえ、何か釈然としない思いが残ります。

イラクとの落とし前をどう付けるのか?北朝鮮とは?対中国の輸出赤字は?
問題山積、そのいずれもが一つ道を誤れば世界全体が危機に陥るかも知れない重大事項です。その決定の鍵を握る指導者が
「知性のなさ」
でジョークにあげつらわれるなど、嘆かわしいのを通り越して、空恐ろしくさえ感じてしまうのですが・・・・・・

センター試験

今年もやってきました。15,16日に大学入試センター試験。
例年巡り来るものとは知りながら、当事者にしてみれば天下分け目の決戦。
これを傍観者的に語れるのは自分に近しいあたりに該当者がいないからだと知りながら、あっけらかんと話をするのは気の毒で憚られる───なんだかアンビバレンツな心境です。

折しも今冬最大の雪。北陸地方ではセンター試験日の天候がどれほど受験生の心配の種になっていることか。みな週間天気予報を見て戦々恐々としています。
もし当日に"大雪"の予報でも出ようものなら、交通機関何を使うか、果てまたマイカーで行くならどのコースを通ってどの程度早出をするか。
受験生にはいらぬ心配をかけまいと、親や教師が胃が痛くなるほど心配するのもこの天候。

センター試験が必須ならば、いっそのこと天候の心配の要らない、そして流感の心配も余り無い4月か5月にして7月ころに新学年年度を始めたらいいのに。どうしても1月にセンターを実施しなければならない根拠は薄弱だと思うのですが。

4月新年度からの逆算で行われている1月から2月末にかけての入試(高校は3月初めだけど、やっぱり寒いね)時期そのものの改革は誰も言い出さないのでしょうか?
正月休みを遊ぶ者が泣く、などとてまことしやかに唱える貧しい見解が幅を利かすお粗末さ。
受験生を身内に持った者なら、せめて受験生の外的負担を軽くしてやれるような時期的な変革を求めるのにやぶさかでは無いでしょう?

おもちゃ今昔

このサイトにいつもコメントを寄せてくださるHatchさんから"Babies in a Grown-up Toyland"を読んで、昔ながらのおもちゃが廃れテレビゲーム等で遊ぶ今の子供たちは、子供時代を失っていくのか?玩具の変遷と子供の変化の問題点は?と頭を悩ませるお題目を振られました。以下、内容的には少し逸脱するかもしれませんが、私なりに考えたことです。

本来子供は自分が楽しい物で遊ぶものだ。子供が眺めて心惹かれない物、手にとって探索してみようと思わせない物は、子供にとっておもちゃたり得ない。

現在の子供は何で遊んでいるのだろう。従来の人形や機関車やレゴブロックに代わってコンピューター・ゲーム(PSPやNintendoDSなどの携帯用ゲームを含んで)が子供たちの心を捕らえている。実にゲームメーカーは3歳児からターゲットとして視野に入れているそうである。

しかし子供がゲーム(上記のコンピューターゲームのこと)で遊びたがるのはそれが魅力的であり面白いからだ。人形や木の玩具やぬいぐるみに見向きもしないのなら、それらが面白くないからなのだ。
思い出してみて欲しい、あなたが子供だったころ何で遊んだだろうか?
その当時最新のおもちゃではなかっただろうか?友人が新発売のおもちゃを持っているとそれを羨望の目で見なかっただろうか? 一時代前の古めかしいおもちゃを自分から選んだだろうか?

子供は新奇なもの、好奇心が引かれるものを欲しがる。それが子供の本性である。
ゲームの氾濫に眉を顰め、従来のおもちゃが良しとするのは大人のノスタルジーに過ぎないのである。

本来子供はcreativeである。
もしゲームなど無い環境で木や粘土や石や紙を与えられれば、いずれそれを使って遊び出すだろう。しかし、もしそういった作られた「おもちゃ」が無い状況で子供から創造性のある遊びを引き出したいのなら大人のガイダンスは必須であろう。ただ素材を与えて後は放任するのではなく、それを使ってどのようなことができるのか可能性を示唆する必要があるだろう。
しかしそれ以上の方向性を与えてはいけない。子供がどのように素材を用いどのように遊ぶかは子供に任せるしかない。

従来のおもちゃ、それは構造が単純で動いても最小限の反復動作しかしない、壊れてもその機能の幾分かは残る。形而下の性質といえる。
それを子供に与えれば考えられる反応は2つ。
一つは「ごっこ遊び」を通して子供が想像力の助けを借りて、現実にはない架空の状況を作りその一員となることで社会性を発展させる。なぜなら子供は抽象の世界に生きているわけでは無いからだ。人形や台所セットや電車模型セットは子供にとっては具体性をもった現実社会を模倣するものであるからで、現実には「子供」ということで参加できない社会を擬似的に体験するよすがになる物である。
残るもう一つの反応は、単につまらない、退屈だといったネガティブな反応。これは子供の発達がそのおもちゃを越えてしまったということであろう。

ゲームに代表される複雑な最先端のおもちゃ、それは複雑で微妙な構造を持つ。あらかじめ精妙にデザインされた機能を持つ。しかし壊れれば機能は完全に失われまったく役に立たない厄介者になる。
つまりこの手のおもちゃは形而上的な性格を持つといえよう。
それで遊ぶ子供は skill を身につける。規定された「遊びかた」の中でいかにすればより興奮が得られるか、どうすれば他人との差別化を図れるかを考え、情報を集め、試行する。
これもある種の創造性といわずしてなんというのであろうか。

どういう種類のおもちゃで遊ぼうとそれが子供の思考力を磨き、情緒を豊かにし、包容力のある心を培うなら、その新旧、素材、性質は問わない。子供の発達段階によってもどのようなおもちゃを好むかは(与えるかでは無いことに注意)異なるだろう。
子供が一番喜んで遊ぶおもちゃ、それが子供にとって最高のおもちゃであるような気がする。

あれ、ほら、あれよ

いま、TVで"老い──エイジングを特集しています。
歳を重ねることに前向きになろう、と今30代にならなんとしている若い女性たちが話をしているけれど、もうその年代を疾うに越えてしまっている者にとっては、かえってしらじらしく感じてしまう。。。
もしかしてこれはひがみかもしれないw

どういうときに「老い」を感じますか、というアンケートの答えの中に、カラオケに行って次に歌う歌のタイトルが出てこない、歌詞を思い出さない、ただ「ほら、あれよ、あの人の歌ったあの歌」と繰り返すというのがありました。
そういえば、記憶力の減退にはずいぶん前から気がついていました。
映画の題名がすぐ出てこない、俳優の名前はいわずもがな。こうやって何か書こうとしていても、言葉が出てこない、ほら、もっとぴったりの言い方があったじゃない、ほらほら
こんな感じ。
確かに高校生のころ、10代後半の記憶力はすごいものだったと今にして思います。今使っている言葉、基礎的知識なんて、全部その頃仕入れたものばかり。
だから、開き直りました。
新しいものを増やしていくのはなかなか大変だとしても、せめていま持っている物を保持、維持したい。
そのためにはどうしたらいいのでしょうか。
思うに、面倒くさがらずに記憶の引き出しを頻繁に開け閉めすること。
あれはどうだったかな?と思ったらとにかく思い出してみる、だめだったら改めて調べてもう一度引き出しにしまい直す。
しまい直したら余り時間が経たないうちにもう一度引き出しを開けてみる。
やらないよりもましかな、という程度だけれど、何にでも再インストは必要かなと思います。

ここまで書いていたら、番組中ですてきにお年を召された女性がその「記憶力」について話していました。
「・・・・・・確かに歳をとると記憶力は無くなりますよ、でもかわりに理解力が増すんですよ。
何かが無くなると必ずそれを補う何かができるんですよ」
なんて心強い言葉だろう。
よし、わたしも10年後今より魅力的で輝けるように頑張ろうっと。

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