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やがて哀しきにゃんぱらり

Y_kobayashi_sepia_2 こんな小説を読みました。

ひとりの女性がいます。
彼女は偏執的に自分の持ち物の耐久性に疑問と不安を抱かないではいられません。
たとえばこの携帯は防水ですと書いてあっても、本当かしら、濡らしても本当に大丈夫なのかしらと思います。その不安が高じて、ちょっと濡らしてみよう……あ、大丈夫だ、と試してみます。
この心理はなんとなく理解できます。大丈夫だと書いてあったのに実際に濡れたら駄目だった、なんて事になると大変だという心理。ただし普通はここまでですよね。

ところが彼女の不安は解消しません。もう少し濡れたら壊れるんじゃないだろうか、水没させたらどうなるの……とエスカレートしていきます。
さて、ここからはフィクション。実際にはその思いが心の隅をよぎっても絶対にしない行為を、彼女はどんどん突き進んで行うのです。
ある意味、この不安心理が理解可能なだけにどんどんエスカレートしていく彼女の行為を(本を読むことで)覗き見していると、こちらまで事の顛末を早く知りたい、行き着くところまで一蓮托生だとと引き込まれていきます。

ついにこの女性はモノで実験するだけでは飽きたらず、生き物で同じような「耐久テスト」を繰り返します。金魚、犬、猫。
実はこの本を紹介することが主たる目的ではありません。興味がお有りの方はどうぞ本を読んで見てください。そのインパクトの強烈さ、凄惨さにノックアウトされること、請け合いです。

これは女性が猫の耐久性を試す下りです。
猫は「背中を下にして落下したとしても、空中でくるりと回転して、足から先に地面に下りることができるのです」──作中から引用

「猫は慣性モーメントを制御すると言えばわかりやすいですか? フィギュアスケートの選手が回転するとき、腕を真横に伸ばした状態から胴体の方に引き寄せるか、あるいは頭上に上げると、回転が速くなりますよね。あれって、慣性モーメントを小さくしてその分角運動量を大きくしているんです」(bid)

まあ、こんなふうにペダンチックに猫が上半身と下半身の慣性モーメントを個々にコントロールして体を二回捻って着地することを説明しています。

ここに登場するのが、猫の回転の擬態音「にゃんぱらり」。他の事はさておいて、にゃんぱらりという表現に眼が吸い付けられました。なんとくすぐられるような、まさに言い得て妙、猫がひらりひらりと身を捩って回転するイメージを喚起する言葉ですよね。
よく音楽の一節が耳について離れない、頭の中でそこのところが鳴りっぱなしという経験がありますが、言葉も同じ、この「にゃんぱらり」が頭にこびりつきました。何をしていてもにゃんぱらり! 軽やかに身をくねらせてひたっと足から着地する猫の姿が目に浮かびます。

にゃんぱらり──完全な擬態語とも擬音語ともいえない折中語。
「にゃん」で猫を表しますが、「にゃー」という重く粘性のある声ではなくあくまでも軽味とかわいらしさがうかがえる「にゃん」、しかも猫がぎょっとしたり、時には痛い思いをして不意に漏らす声でもあります
一方「ぱらり」で猫の肢体の動きを表します。またこれがうまい。「ひらり」では身のこなしの速さはわかってもまだまだ余裕のある様子、または垂直の動きというより水平方向の動き、もしくは一点に静止していて近づくものから身を捩って避けている感じを受けます。
「ひらりひらり」と二回繰り返すとまた視点は変わり、これは静止ではなく水平方向にかなり速い速度で意志的に動いている、言ってみれば大勢の刺客の剣を容易くかいくぐって逃れるイメージか。「ひらひら」となると上方から軽いものがくるくる舞いながら落ちてくるイメージです。

「ぱらり」から喚起されるのは、一つにまとまっていたものが要が切れてバラバラになって落ちる様とでもいいましょうか。生けてあった百合の花弁が離れて床に落ちる様子、檜扇の紐が切れて端から広がる様、元結いが切れて前髪が額に落ちかかる様(髷そのものではいけませんよ、あれは「ばらり」だから)
しかも「はらり」では脆さ、しどけなさ、無力さが正面に出てしまって弱さを強調する反面、「ぱらり」には分解、解体さえも笑って受け入れられる諧謔味が感じられます。
よって「ぱらり」は、それほど重量感の無い物が下へ素早く動き、僅かな時間差で軽く着地する、ないしは動きを止める、まったく悲劇的色合いのないイメージの言葉です。

複合語「にやんぱらり」は、猫が高いところから二度身を捻って最後に四肢を下に着地する、その時に猫は幾ばくかの衝撃と痛みを受け、もちろん大きな緊張を強いられる。その一瞬の動きと静止を的確に表したのが「にゃんぱらり」なのです。
しかも、「にゃん」に含まれる驚愕と痛み、「ぱらり」に含まれる崩壊の兆し、二つが相まって逆さに落ちた猫が身を捩って下向きに着地するのが決して楽な仕業ではない、むしろ一つ間違えば大事にいたる危うさ脆さをそれとなく匂わせています。
「にゃんぱらり」は哀しい、壮絶にして哀感のある言葉だったんですね。

まじめに読んでくださった方ありがとうございます。この記事はニュートラルであるはずの言葉にどの程度こじつけで感傷的意味合いを見いだす事ができるかの実験でした。
実は書きだして中断、かなり時間が経ってから書き継いだので当初書こうと思っていた内容を全部思い出すことができませんでした。思いついたときが書き時だと痛感しました。

最後に書いておきましょう。小説に出てきた猫の「タマ」が「にゃんぱら……」と動きをとぎらせて上を向いたまま落ちていく姿が実際に見たように忘れられません。。。

付記;「にゃんぱらり!」が、漫画「いなかっぺ大将」に登場するにゃんこ先生がキャット三回転の大わざを出すときのかけ声だと知ったのは小説を読んだ後のことでしたが、これはまた小説とは別の話として分けて考えた方がいいようです

ロスト・シンボルとシンボル・クエスト

Lostsymbol1sLs2sダン・ブラウンの新作「ロスト・シンボル」上下読了しました。
天使と悪魔、ダ・ヴィンチ・コードに続くラングドンシリーズ第3作です。
舞台はヨーロッパからアメリカ、ワシントンに移り、われわれ日本人にとってはやや馴染みの薄い土地柄で地味な印象……と思いきや、ラングドン版24は健在で真夜中のタイムリミットに向けて、友人の命を救うために深夜のワシントンを駆け回ります。
今回の相棒は誘拐された友人の妹で、純粋知性科を研究しています。ラングドンはフリー・メイソンの秘儀に関する謎を皮切りに、次々に暗号を解き明かしながら究極の真理を求めて走ります。
日本では余り知られていない(故になにやら胡散臭い秘密結社と思われているきらいもある)フリー・メイソンについて、やはり懐疑的なラングドンの口を借りて中立公正な論調で書かれているのでわかりやすかったし、以前なら眉唾の超能力研究かと揶揄された純粋知性科学が真面目な科学として研究されている(少なくとも緒言ではそう書いてあった)のに何となくうなずいたり。
2人ははCIAの日系のこわいおばさんに追われながらメイソンの会員に助けられて、ワシントンの各名所をたどるのですが、いまいち地理にうといわたしはそれぞれの位置関係がわからず、歯がゆい思いをしました。
ページターナーの上質なエンタメ小説ではありますが、ラングドン、その他の口を借りて神と人間、宗教と人間に対するかなり根元的な問いかけを行い、懐疑派のラングドンが彼なりに結論を出しているのに、私としてはとても共感を持てました。

小説の内容に触れるのはNGなのでこれくらいにして、でもひとつだけ面白い小ネタを紹介します。
下巻21頁、ラングドンに助けの手を差し出すフリー・メイソンの会員から落ち合う場所を教える電話がかかってきます。盗聴の恐れがあるので相手も謎解きのような指示を出します。その箇所を少し引用。
「友よ、テベレ川の北にローマの避難所がある。そこにはシナイ山から切り出した石が10個、天そのものからの石がひとつ、ルカの暗黒の父の顔をかたどった石がひとつある。わたしの居所がわかるかね」
最後のルカの……のくだりは、ここを読んでくださる方だったらおわかりですよね。
こんなことでも思わず嬉しくなってしまうのでした。

Symbolquest1s 次なる話題はロスト・シンボル繋がりのロスト・シンボル公式サイト「シンボル・クエスト
ダ・ヴィンチ・コード関連でも暗号を解いて次々にサイトを解明していくゲームがありました。
今回は33種のシンボルを下に表示されるヒントから選んでいくゲームです。時間制限無し、3度間違えるとゲーム・オーバーで再挑戦となります。(33という数字が大きな意味を持っている事は小説を読むと納得です。そう言えば日本版の発売も3月3日に合わせてあったのに気が付きましたか?)

Sq22中央にシンボルを移動して正解だと赤いブルボン・リリーが時計回りに動いて33正解でエンド・ページが表示されます。途中で一度でも間違うと上のページ。エラー無しで完全解答すると下のページが現れてダン・ブラウンの肉声メッセージを聞くことができます。

Sq3sSq4s
昨夜はこれに嵌ってしまってグーグル画像検索フル活用して最後までたどり着きました。それなのに……ダン・ブラウンのメッセージというのがアメリカ版ロスト・シンボルの表紙に描かれているたくさんのシンボルの中に5つの隠されたメッセージがあるので解読して楽しんでくださいとのこと。原書買わないとわかりまへん。
ヒントはすべて英語(ただしわかりやすい)なのですが、言語明瞭意味不明瞭のところが多々あって、解き明かすとな~んだ、そうだったんだと、自分が気づかなかった事がおかしいやら恥ずかしいやら。
ネタバレにならない程度に少しこちらもご紹介。たとえばヒントにはこのような物があります。以下ヒントの後に更にヒント(?)を書きました。興味のある方は反転してどうぞ。
"Fourth Rock "from the sun.太陽から四番目の岩塊とは……
Quicksilver水銀、つまりマーキュリー、つまり……
Greek goddess of triumph これなどはわかりやすい部類でしょうか。ギリシャ神話の勝利の女神、今はアメリカの大メーカーの名に
Zeus's games これもつい最近あったので記憶に新しい。ゼウスに捧げられたスポーツ祭典
Opposing yet unified これはちょっと頭を捻ると、なるほどそうかと。相反する物でありながら一つになっているもの
Octothorpe 知って得したような気になる豆知識。電話に付いている記号、8個の点からなっているからですって。シャープじゃないんだ。。。
Anagram of "Madras pen" 同じく雑知識。アナグラムとは文字の入れ替えのこと。確かにアンパサントになりますね
Sounds like a resident in the Garden or Eden これは一番自分が間抜けに見えた問題、ドレミの歌で"laはsolの次の音"と苦し紛れに歌詞をつけたようなもの……かな。エデンの園の住人といえばあの男性、要するに一字違いだというだけでした
最後に一番やられた問題。Who uses this symbol ?  えっ?これは誰のこと?と当てずっぽうに何度か間違いを繰り返した挙げ句……疑問文じゃなかった!! そのまま大文字表記でWHOでした
他にも音楽や映画、神話、数学、いろいろ取りそろえてネタ満載です。とても楽しくて時の経つのを忘れてしまいました。
トライしてどうしてもわかりにくい、なんてのがありましたらメセ下さい。わかりにくいヒントを差し上げますから。

Moon Walkers

Time_jul27 本日届いたTIME誌、2009年7月27日号です。
ただただ、感慨のため息です。
人類が月に到達したあの日から40年が経過したのですね。
この写真は余りにも有名で、アポロ計画の象徴であるかのように幾度も目にしてきました。身近に感じていただけに、それほどに過去の物であったとは……。頭でわかったつもりでいても、改めて40周年と書かれて、その間に何が起きたか……冷戦後の世界、ベルリンの壁の崩壊、ソビエトの消滅、セルビア・コソボ紛争、湾岸戦争、9.11同時多発テロ、イラク侵攻、そして経済危機…40年も試行錯誤の時を経て、世界は果たしてよくなったのか悪くなったのか……

さて、感慨を抱いて表紙をめくった途端に、これまたやられた!と思いました。


Time_louis_vitton

これはルイ・ヴィトンの見開き広告です。
TIMEにはよくヴィトンの広告が載ります。有名人を起用しながら、その人となりを生かしたとても自然な写真で、商品は慎ましやかな小道具、点景として画面に収まっているだけで、見ても楽しい仕上がりになっています。最近ではアウトドアを楽しむショーン・コネリーや、フランシスとソフィアのコッポラ親娘の写真など記憶に残る作品があります。
今回の月面到達40年とタイアップした写真には参ったと思いました。
Some journeys change mankind forever, Sally Ride, first American woman in space. Buzz Aldrin, Apollo 11, first steps on the moon in 1969. Jim Lovell, Apollo 13, commander. とあります。
3人の宇宙飛行士、その中には月の上を歩いた事のある人物も含め、それぞれの思いを胸に遙かに輝く月を見つめる。実にドラマを感じさせる演出です。
もちろん実際に夜半の月を見上げたの実写ではなく、おそらく撮影はスタジオであろうし、計算された服装、車など一流のアーティストの作り上げた映像でしょうが、狙いとするところの情感を伝えた手腕には舌を巻かずにはいられません。
宇宙は計り知れなくも広大なのに、人生は短い。しかしその刹那とも言える人生の、そのまたほんの短い時間に宇宙に直に触れる体験をもち、その体験が彼らの人生をまた、大きく変えることになった。
彼方に見える月は、その上を歩き、その周囲を回った、本人にとってもそれは実際の体験であったのかすら定かでない夢のような姿を見せている、それは初めての人類がこの世界に現れて以来変わらぬ姿を保っている。そして私たちの目にもおなじ様に映っている。
そんなことをつらつらと考えさせられる見開きページでした。

Time_moonwalkersこちらがカバーストーリー、タイトルがMoon Walkers。右ページ大写しはオルドリン氏。マイケルに対するオマージュも感じられて、ほっこりした気持ちになりました。
明日は皆既日食が日本で見られます。当地では部分食ですが、晴天になることを念じながら、束の間の天体の音楽に耳を傾けたいと思います。


ジェダイ・クエスト10

20081024_jq10明日、というかもう今日ですが、ジェダイ・クエスト10巻が発売になります。楽しみですね

お世話になった方にお見せするのに後書きを英訳しようと思うのですが……こういうのも何だけど、日英は難しいですね。
簡単な文章でも日本語で書かれたものはすべからくニュアンスがわかるので、それをぬかりなく英訳しようと思うと(もちろん、自分の力不足が一番の原因だけれども)英文がごてごて、折れ曲がり、不要に長く、副詞が付いて、結局すっきり言いたいことが通じないものです。
こういうときには、思い切って書いた文章を破棄して、本当に必要な事のみを、主語と動詞をはっきりさせて、なるべく簡潔な文に分けて書いていく、作文の基本に戻らなければならないのだと再確認しました。

なんだか締まらない話しですが、JQ10については、後日ゆっくりお話できたらいいなと思っています。

あ、それより先にクロアチアへの旅行の話しも書かなければいけないんだ(汗

百姓の足坊さんの足

子供のころ買ってもらった世界の童話集の中には、当然の事ながら「日本の童話」の一巻もありました。ところが、当時ギリシア神話に始まってイギリスの童話、ドイツの童話、フランス、中国、インドとバタ臭い外国のお話に夢中になっていた私には、日本の童話というのがどうも野暮ったく、田舎臭いものに感じられて、敬遠してなかなか読みだせませんでした。
結局、かなり後になって読んだのですが、今となってはどんなお話が入っていたのかほとんど覚えていません。ある一つの話を除いては、です。
それが、「百姓の足坊さんの足」という童話です。
なぜ今頃になってふいに思い出したかということはまた後のお話として、まずはこの話のあらすじをかんたんに思い出してみます。

小さな村の百姓の菊次は村の寺の住職の下男のような仕事をしています。ある時、二人は米初穂で寄進の米を頂きに檀家を回りに出かけます。一日廻って、遠くの谷に着いたときに日が暮れ、一軒の家で勧められて酒をごちそうになります。すっかりいい気分になった二人はさらに谷の奥に一軒回り残した家があったのですが、もうやめにして帰ることにします。
山道を越えなければならないので二人は先を急いでいました。すると後ろから呼び声がします。見るとその家のお婆さんがふうふういいながら追いかけてきます。寄進するお米をもって来たのです。ありがたく受け取ったお米でしたが、米を入れる籠が一杯で升のまま籠に載せて歩くうちに、山道でうっかりよろけて地面にぶちまけてしまいます。わっと叫んですくい上げますが土が一杯混ざってしまいます。すると酔った勢いで坊さんがこの米はいらないと米を地面にあけて踏みつけて蹴散らしてしまいます。これでもうわからなくなっただろうと。菊次も思わず足を出していっしょに米を踏みつけてしまいます。
さて、菊次には年老いた母親がいて、いつも母親は米は百姓の命、米を粗末にすると罰(ばち)が当たるといっていました。菊次は母に「この足で米を踏んだけれど罰など当たってない」と豪語すると、母は心配そうに「当たらぬといいがの」と足を見つめます。菊次も意地になって「ちくりとも痛くない」と口にだした途端、足にちくりと痛みが走って、見る見るうちに我慢できないほどの痛みになります。米を踏んだ罰が当たったのです。
どうしても痛みの去らない菊次でしたが、自らを恥じるどころか、坊さんも同罪とばかりに坊さんの様子を窺いに寺に行きます。しかし、立派な袈裟を着て、「一粒の米にも仏様がいらっしゃるからこぼしてはいけない」などと説教を垂れる坊さんの足はちっとも痛んでいる様子もありません。菊次は内心穏やかではありません。同じ米を踏んだのにどうして自分だけ足がこんなに痛まなければならないのかがわからなかったからです。
しかし、やがて菊次ははたと思いあたりました。坊さんはいくら口で米は尊いといっても、自分が土を耕して草を引き額に汗して米を作っているのではありません、一粒の米の中にどれほどの百姓の苦労が込められているのか、実際には知らないのです。それに引き替え百姓の自分は身を以て知っているはずだ、その自分が米を粗末に扱ったから罰が当たったのだということなのです。
菊次は初めて心から申し訳なかったと悔い、天にも地にも、母親にも、米をくれた老婆にも謝ります。すると、足の痛みは消えました。しかし足は萎えたように力が入らず、ぺたりぺたりと引きずって歩かなければなりませんでした。
それでも菊次は痛みの去ったことに感謝して、その後の人生を傲らず謙虚に生きることになります。
さて、年月が流れ、菊次は死にました。奇しくも同じ日に坊さんも一生を終わりました。この世を離れた坊さんは一本道を歩いています。すると前に菊次も歩いているではありませんか。菊次は自分の人生を振り返って、善行などしてこなかった、おまけに米を踏みつけた自分は当然地獄へ行くと思っています。それに引き替え坊さんは立派な衣を纏って仏に仕え、村の衆を導き善行を積んだのだから間違いなく極楽へ行くけるものと思っています。
一本道が二つに分かれ、菊次は足を引きずりながら一方へ、坊さんは他方へ別れて進みます。大分行ってからふと菊次の方を見た坊さんは目を疑います。とぼとぼと道をたどる菊次の姿は後光がさした仏の姿をしているではありませんか。そして、自分の行く先の空は暗く雲がたれ込めています。坊さんは自分の足がちりちりと痛み出しているのに気が付きました。

小学生低学年の時に読んだきりなので、記憶違いがあるかも知れませんが、お話の筋はこんなふうだったと覚えています。
勧善懲悪とか、罰とか、一粒の米にも仏が宿るとか、坊さん、百姓、地獄、極楽、などという言葉や観念が古めかしくて子供心にも「古い話」に思われましたが、何か一笑に付すことができない、読み応えのあるずっしりとした読後感のある話でした。おそらく読者の年齢や性別などに関わらず、読んだ人に同じような素朴な同意を呼び起こす力を持った話であると思います。歳月を経て今もなお筋を覚えているのはそのせいだと思います。
古めかしくても、子供ながらに物を通して人の苦労を思い遣る心が大切であることをしっかり教えてくれた物語だったと思います。
さて、これを書くにあたって検索をかけたら、なんとこの話の作者は「ごんぎつね」「手袋を買いに」「おぢいさんのランプ」などで有名な新美南吉でした。そうか、あの屈折した心の襞をさらりと書き上げ、さらに余韻のある終わり方で締めくくるやり方は新美南吉ならばさもありなんと思われる手腕でした。

どうして何十年も思い出さなかったこの話を今頃になって不意に思い出したのか、種明かしです。
このところ一カ月足が痛かったことは先日の記事にも書いた通りですが、「足が痛い」というのがキーワードになって、私の記憶の中に埋もれていたこの話が意識の上に戻ってきたようです。ちくりと痛む、それが耐え難いほど痛くなる、それなのに原因がわからない、どうもこの辺りかと。
一応、坐骨神経痛と診断はついたものの、痛みがそれで引くわけでもなく、このまま痛みが続けば来月のCJにも行けるかどうか自信が持てなくなりました。何も悪いことしてないのに……みたいに愚痴っていて、ふと思うに、菊次のように実は悪いことをたくさんしているのに気が付いていないだけかも知れないという考えも湧いてきます。だらけた罪、仕事を怠けた罪、家事を母任せにしている罪、知ったかぶりをした罪、口実を理由に運動しなかった罪、それは数え切れないほどの罪が重なって、今日のこの痛みを発現させているのじゃないかと。

こういう妄想はおもしろいものです。もちろん本気で信じているわけではありませんが、それでもばかばかしいと笑い飛ばしてしまえないところに、私にも日本人の土着の感覚がしっかり流れているように感じてしまいます。
物を大切にすると豪語して何が恥ずかしいことがありましょうか。お米の中に八十八人の神様がいると信じても何ら困ることはありません。こういう素朴な信条を、本気で堂々と口に出来なくなったことが、わたしの一番の罪であるのかも知れません。そんなことを思いながら、今一度昔の本を蔵から探し出して読んでみようと思いました。

ジェダイ・クエスト-8~オークラ出版ブログより

Jq8_oklaChikoさんのブログでもう早々と紹介して頂いています。
簡単なあらすじと共に、例の「今回のみどころ」が書かれています。「大好評!」と銘打ってありますねw
>大好評! 今回の見どころを超簡単に紹介♪
■オビ=ワンがセクハラ行為? そして、シーリお色気大作戦??? ジェダイたちに何が起こったのか──?!

これを見て思わず吹き出してしまいました。確かに言えてます。オークラの担当さんGJであります。
メイスがどど~んと中央に仁王立ちした表紙からは窺い知れないような、お笑い満載の予告です。もしかしてメイスまでおちょくられたりして……。
前半は、シーリ姐さんとオビ=ワンは変装ごっこ、アナ坊とフェラスくんは二人の変身ぶりにあてられて、いつもの仲の悪さもどこへやら。妙なところで気があった二人でした。
もちろん、ワルのオメガや年増のアーバーも健在。アルカトラズみたいな犯罪者の集まった星で、またなにか悪巧みを考えているようです。
シリアスな展開になるにもかかわらず、前半の軽さがずっと最後まで波紋を残す、一風変わったテイストの巻です。どうぞお楽しみに!

ラスト・オブ・ジェダイ_10

Loj_10本日Amazonより届きました。
Last of the Jedi "Reckoning"、 これがシリーズ最終巻、しかもワトソン女史はJA以来の長きに渡るスピンオフ執筆に一応終止符を打つと宣言していることもあり、彼女の手になる最後のSW本になる可能性があります。
私のみならずEpi3以降のフェラス・オリンを描いたこのシリーズで、一番の興味はフェラスとヴェイダーの勝負はどうなるのか、はてまたフェラスの生死は、どのような終わり方をするのか……ということに尽きると思います。
そこで、やってはいけないことをやってしまいました──最終ページを読んでしまった!
ハリー・ポッターの第七巻でも同じ事をやっちゃったんですが、懲りないというか、こらえ性がないというか。
内容はお話できませんが、ある程度予測がついた終わり方でした。これだけは言ってもいいかな? 余り悲劇的な終わり方ではありません。ちょうどEpi3の最後に感じたような、しみじみとした情感漂うラストでしたね。ワトソン女史GJであります。
時の流れは容赦なく、すべての物のうえに等しく跡を刻んでいきます。人は去り、死に、社会は変わり、星すら滅びて行きますが、そのときどきに生きていくものたちにとっては、どの瞬間とても同じく重要でかけがえのない物であることは永遠の真理です。
わたし的には、最後にオビとフェラスに、一杯飲みながら来し方行く末をじっくり一晩語り明かせてやりたかったなあ……なんて妄想が一人走りしています。
しかし、もう本は出てしまいましたね、これで終わりだぁ……まさに、まさにEpi3の終わりで感じたのと同じ哀惜の念ですよ!

輝くもの天より墜ち

 Brightness連休中に読みあげました。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの久々の長編です。
作者は名前から長い間男性と思われていましたが、実は女性で、その事実が発覚したときにはティプトリー・ショックと呼ばれるセンセーションを巻き起こしたという逸話もあります。
この作品は80年代に出版されましたが、邦訳がなく、もう一方の長編「たったひとつの冴えたやりかた」がでてから20年ぶりの出版ということになります。「たったひとつの……」がかなり感動的であったために、書店で見つけ嬉々として買ってきました。

扉を開けるとロッジの部屋見取り図があって、一見ミステリー仕立てです。しかも目次から24時間を経時的に追ったものと知れます。
銀河辺境の立ち入り厳禁の惑星、ダミエム、そこに住むのは昆虫から進化したダミエム人。ヒューマンが介在した虐殺の歴史があり、現在は厳しく立ち入りが制限され3人の保護官が駐在する。ここに二十年以上前に爆発した惑星から出た爆発前線のフレアが到来する、その荷電粒子のせいで全天をおおうオーロラのような壮麗な光の饗宴が見られる。それを見物するために選ばれた十人以上のさまざまな種族、種類の人々が訪れたところから物語は始まります。
それぞれの人々の背後に潜む人生があるものは深刻に、あるものは軽く、語られます。予定外の訪問者の謎の行動、ダミエム現地人が被った苦難の歴史、そもそも惑星の爆発を引き起こした責任はヒューマンにあることなどが、前線の接近と相通じるように徐々に明らかになって緊張が高まります。

全天を彩る想像を絶するような光の中で起きた悲劇的な事件、それは滅びた星の住人の最後の一人の行った報復でした。物語は特に奇抜な装いもなく淡々と述べられ、事件が起き、それを収拾しようとする人々の努力が描かれ、最後にノヴァ前線の通過と共に終息を迎えます。もちろんSF仕立てミステリーなので前線が通過するときに起きるある現象が及ぼす影響が人々の運命を決定する重要な伏線になっていますが、それが中心となることはありません。あくまでも副次的な影響としてのみ言及されます。

しかし、この物語の凄さはSFやミステリ風味の部分よりも、徐々に緩慢に死に向かっていくような全編の流れにあります。最終的に中心の人物が死ぬことになりますが、私たちはどうしてもこの人物と作家ティプトリーを重ねたイメージを持ってしまいます。「死」に対する作家の感覚が終章に至ってまさに一人称で語られ、一種の諦観が読みながらじわじわとこちらの心に浸潤してくるのが感じられます。死に行く惑星、その美しさすら実は虚像であったのかもしれないという恐れ。死ぬのに手助けはいらない、誰にでも平等に訪れる、はじめてでもちゃんと死ねる……最終に近づいて、事件も解決し、音楽でいえばコーダにあたる余韻を楽しむ部分にさしかかって、思いもかけずこれを文字で読みながら、しかも自分のことのように追体験するのは、意表を突かれた驚きでした。

ティプトリーの晩年の作であり、夫とのかねてよりの取り決め通り二人の人生を締めくくったという事情もあって、もちろん物語を書き上げるうえでのそれなりの計算もあった構成ではあるでしょうが、その裏に抑えようとしても顔を出す作家の生の姿に触れたようなどきっとする体験でした。作品に作家の実人生を反映させることについては賛否両論があるでしょうが、わたし自身はこの作品に関してはこれで好かった、というよりもこれ以外のやり方はなかったように思われます。

緩慢に訪れる人の死、星の死、美の死……最初にそのイメージがあってそれが600頁にも及ぶ長編になったような気がします。自分もある程度「死」を他人事として軽くみられなくなった年代に近づいてきたのかもしれませんが、読後感は奇妙に明るく「死」を恐れる気持ちが軽減されるような思いでした。冗長に感じられるかもしれませんが、是非とも一読をお薦めしたい本です。

余談っぽくなりますが、読み始めてすぐにある違和感に囚われました。文体が現在形で進行するのです。ちょうど芝居のト書きのように。原文で確かめたところ、まさにその通り。さすがに浅倉久志さんの訳は手慣れていて、最初戸惑った現在形も読み進むうちに心地よい響きになったことを付け加えておきます。

ドレスデン・ファイル

Storm_front久々に面白い本を読みました。
裏カバーにこうあります──おれの名はハリー・ドレスデン。シカゴでただひとり電話帳の職業欄に<魔法使い>として登録してある男だ。中略 痛快ハードボイルド・ファンタジィ登場。
最近犯罪捜査ミステリを好んで読んでいるので、つい手にとったというわけ。そもそも「魔法使い」モノと正面切って宣伝している物は敬遠するのだけれど、やらなければ行けない仕事がたまっている反動もあって、2~3ページ立ち読みして即購入。
読み出したら、これが止まらない。最後は結局仕事が終わってから明け方4時まで眠気も知らずに読んでしまいました。
ストーリーはさておいて、楽しかったのが語り口、一人称で「おれ」ハリーが巻き込まれる2日間の事件を細かにたどっていくのですが、このハリー、魔法使いを標榜するインチキじゃなくて本当に魔法使い。
シカゴではやらない事務所を構えているのだけれど、そろそろ家賃滞納で危ないところ。警察のコンサルタントもしていて時折お呼びがかかる。ある日二つの仕事が一度にはいる。警察特殊捜査班に呼ばれて行った先にあった惨殺死体、どう見ても魔法を使って殺されたと思われる男女二人、並行して魔法にかぶれたダンナの行方をさがしてという女性からの依頼。
一見なんの関連も無さそうなこの二つが実は絡み合ってくる。
それだけじゃない、さすがにシカゴ、裏社会を仕切るファミリーのボスから脅されたり、表には見えない「魔法使い」社会からにらまれている前歴があって、厳しいコードに従わなければならないという制約、監視があることなど、物語を複雑にしていく。
魔法使いといっても、ファミリーあり、売春組織、新しい麻薬が現れ、乱交儀式もあればモンスターも出るという具合で、お子様向きとはいえない。
だが、そこの展開の速さ、主人公ハリーを襲う一難去ってまた一難の面白さ、痛い痛い、どこまでハリーを痛めつければ気が済むのかというまさに「24」の乗りが大いに気に入りました。
謎解きもよくできているし、幾度と無くハリーが遭遇する「どうにもならない」状況──たとえば、モンスターに襲われて直径1メートルの結界に逃げ込んだはいいけれど、いっしょに逃げ込んだ女性(先に逃がすつもりで、「逃げ薬」を呑ませた=実は呑んだのは隣にあった「惚れ薬」)、薬が効いてハリーに猛然とアタック……
こんな状況でなければ、と悔やむ暇もない、少しでも体が円から出たら取って食われる、どうする、ハリー?
と、こんな風におもわずにやつく場面の多いこと。
ハリーがデータベース代わりにしているのは歳経た精霊のボブ。人間の頭蓋骨の中に住んでいてハリーのよき協力者なのけれど、口もわるけりゃハリーを完全に馬鹿にしているところもある。
このキャラって……どこかで見たぞと思ったら、「ハウルの動く城」のカルシファーとよく似ている──といってもゆめゆめ映画のキャラを思い出してくださるな、あくまでも原作のハウルとカルシファーの絡みである。
最終的に満身創痍になりながら、魔術師のコードは破らず、強敵を撃退してめでたしめでたしになるのだけれど(これは言っても良いでしょう)、嬉しいことにこれはシリーズの第一作。
しかも今のところこのシリーズは9作まで出ているのだから、これは楽しまなくては!


注;コード認識があるにもかかわらずスパムコメントが多いのでこのエントリはコメントをお断りにさせて頂きます

ジェダイですのよ

N_ota映画字幕翻訳者の太田直子さんの新書「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」を楽しく読みました。
書かれている軽い調子とは裏腹に、映画字幕ならではの翻訳の苦心や、苦心が実らない実利主義への苦言、映画を見る大衆の教養程度の低下への嘆きなど、いちいちうなづける箇所ばかり。
もちろん、苦言ばかりではありません。苦手分野でのご自分の失敗談や楽屋裏ネタバレ話など、こちらもまたにやりにやりと、読む顔が崩れるところが大変たくさんありました。
中でも2箇所、考えされられるところ、まさにその通りと共感を覚える所がありました。

まず、いわゆる禁止用語について書かれたところ。
映画字幕のみならず、文字の刊行物には厳しい禁止用語──(PCワードとも言いますね。Political Correctness……政治的に正しいなんて訳が出たために、いまいちわかり難かったのですが、政治家(politician)が公共の場で口にできる言葉という意味だとの解題がついていて、なるほどと膝を打ちました)──があって、理由の如何に関わらず、その言葉を使うのは御法度になっています。
太田さんが引っかかったのは、個人に対する差別感情がなんらない用法での、その手の言葉の使用まで杓子定規にだめと判定する配給会社の姿勢だったといいます。
何度も押し問答の末に、かの大文豪ドストエフスキーの文学作品のタイトルとして定着している言葉をその文学作品を語る際にそのまま用いることを承知させたという体験談には、大変感動しました。これがダメなら他の人に仕事を回してくれとまでいう背水の陣で交渉した結果でした。
しかし、成功しなかった場合にも考えさせられました。
個人への差別ではないと抗議したにもかかわらず、「その言葉を見聞きして、少しでも心に痛みを感じる人がいる限りその言葉は使ってはならない」という上司の言葉には重みがありました。使う側の心構えではなく、あくまで受け取る側の立場に立って考えろという、当たり前ながら、ともすれば自己の正当性を信ずるが故に、鈍感になってしまっている他者への配慮をまず考えるべきだという主張は、わたしたちすべてが肝に銘じなければならないことだと思います。

さて、第二は、キャラクターの設定について。
それこそ、この投稿のタイトルと関連しています。
まず太田さんの著書より簡単にその辺りを。
インドネシアの貧しい家庭、見るからに無学でぐうたらな父親が裕福な少年からもらっきた物を嬉しそうに見る息子に「そんなもんもらうんじゃねえ、さっさと返してきやがれ!」と字幕をつけました。
字幕は英語台本から翻訳して、その後インドネシア語の専門家にチェックしてもらったのですが、専門家から、親は極貧の生活をしていても子供の教育やしつけに熱心だ、このシーンも言葉は乱暴ではなく、言い聞かせるように穏やかな言葉遣いだと指摘されたとあります。つまり、「生活水準が低い=下品・乱暴」というステレオタイプの偏見があったと作者は反省しています。見た目で勝手にキャラクターを設定してしまったというわけです。
人の話している言葉のニュアンスはネイティブでない者にはなかなかわかりません。最低意味を把握するために付する字幕ですが、時には思いがけなく強力な影響力を持っていることが改めて理解させられました。
さらに太田さんは話を進めて、米大リーグやNBAの選手が話している字幕に、その口調とは合っていなくても、決まって「おれは……何とかだぜ!」の様な表現が現れることにも注目しています。まさに偏見、固定観念のなせる技だと。そもそも、なぜ彼の一人称は「おれ」なのか、と。

実はこのあたり、わたしもずっと頭を悩まし続けて来たことで、いまだもって解決策は見いだせていません。
英語では男も女も"I"なのに日本語となると、どの「わたし」を採用するかでその人の性別、年齢、時代物なら身分、教養程度、下手すると人格まで決定していてしまうから厄介です。おまけにどの「わたし」にもそれに従って使う語尾がおおよそ決まってくるのですから、早い話「わたし」が文全体を規定すると言っても言い過ぎではありません。
かといって、テストの英文和訳ならいざ知らず、すべて「わたし」で語尾は「~です」というのはまったく現実的ではありません。変化のあるのが日本語の特質なのですから、それを無視しては生きた日本語になりません。ただ、どの程度に何を採用するか、その匙加減がとても難しいのです。

ちょっと例を一つ。
SWのジェダイといえば最盛期にはオビ=ワンをはじめ、ヨーダ、クワイ=ガン、メイス、アナキン、と上げていけばきりがないのですが、スピンオフ小説には有名どころ以外にもオリジナルのキャラクターが大勢います。特にあるスピンオフシリーズでは女性ジェダイがたくさん活躍します。フェミニズムの現れか、それとも作者が女性だからか、単に登場人物をバラエティに富ませたいからか、その辺りは不明ですが。
もちろん原文では男性ジェダイと女性ジェダイの言葉遣いはまったく差がありません。あるとしたらヨーダ様の逆さま語法くらいでしょうか(笑
ところが、訳す段になると急に女性ジェダイが「~だわ」「~なのよ」「~なのね」と女性語尾を使い出します。ライトセーバーを振るって獅子奮迅の活躍をしたり、高速でスターファイターを操って次々指示を下すのに「~わ、よ、ね」でも無いと思いました。 しかもジェダイは幼少時より聖堂で育ち、男女の差なく同じ教育、訓練を受けてくるのですから、基本的に差は無いと考えられます。ですからジェダイの言葉遣いは基本的に同じであるとしていいのではないか、特に男性原理で動いている女性ジェダイは男性言葉を使ってもいいのではないか、いや女性言葉を使ってはおかしいのではないだろうか……そんな具合に考えて、女性にも「~だ」「~なのだ」とやりましたが……。
問題がいくつか浮上しました。複数のジェダイが出てくるとあまりにも同じ言葉遣いばかりで単調、面白くない、誰が話しているかわからない。最悪、女性らしくない、かわいげがない……orz
そうなんですよ、英語の場合必ず誰が言ったか、少なくとも女性が言ったか男性が言ったか書かれているので問題はないのに、そのまま日本語にすると、やたら「~と言った」が目に付き出します。それも「彼が、彼女が」となるとさらに違和感は増し、かといっていちいち名を使って「○○は言った」としても重たくなります。
結局、適度に女性語尾を足して、かといって使いすぎは、安っぽく作為的になりますから、適度に男性風に言い切りにして。場面も緊迫した急の場面では短く男性的に、心情をかたるような緩の場面では多少なよなよとした風情で女性言葉をつかってもらいます。
すると、今度は性格に一貫性がなくなってきて、この人は一体どういう性格なのか、とわからなくなってきます。日本語が母語である以上、女性は女性の言葉を使わないと、人格まで変わってしまうようなのです。
何度も口に出してみて、こんなことこんな場面では言わないよね~と、ばっさり切ったり、どう見てもへたな芝居の台詞みたいとがっかりしてみたり、いっそのこと「~じゃん」であったり、「~とか」「~みたいな」などという言葉のほうが実際に話されている言葉に近いのではないかと乱暴なことを考えたりして、再考、再考の繰り返しです。

知らず知らずのうちに自分の中にできあがっていく登場人物のキャラクター、それが勝手に口を開いて日本語で話を始める、そうなってくれれば一番いいのですが、それはとりもなおさず英語から日本語へ意味以上の転換を行っている──つまりわたしの好みの恣意的なキャラクター付けが定着しつつあるということなんだと思うと、げに怖ろしき翻訳ではあります。

※このエントリのタイトル「ジェダイですのよ」は星新一さんのショート・ショート「殺し屋ですのよ」から頂きました。これも、殺し屋という職業と女性とのギャップを一言で表している、一度聞いたら忘れられないタイトルです。