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火星の人

Martian
最近二度繰り返して読む本はほとんどないのですが、この本は昨年、今年と二度読んだ稀有な例です。
理由は単純、ただ面白い―――これぞ究極のハードSFかもしれません。

火星探査第三次ミッション隊が強烈な砂嵐に見舞われて開始後6日で火星から撤退を余儀なくされます。退避行動の中で運悪く折れたアンテナに直撃されたマーク・ワトニー、生体モニターがフラットになったのを知った他の乗員たちは離脱不能になる限界までワトニーを探すものの、やむなくマークを残して火星を去ります。
ところがどっこいワトニーは偶然が重なって奇跡的に生存していた、ここから物語は始まります。

すでに映画化され先週から公開されているのでストーリーをご存じの方も多いと思います。かなり原作に忠実な映画化で成功作だと思いますが。
そこで、もし映画を見られて予告で煽られた深刻さがなくて物足りなかったり、こんなおちゃらけ……と感じられた方がいたら(確かにゼロ・グラビティ的な生還劇ではなかったので。というのもゼロ・グラは1、2分を争う生死をかけた挑戦で緊張感も半端じゃなかったのに対して、こちらは年単位のサバイバル、長期戦のうちにさまざまな困難を解決していくわけですから)ですから改めて言いたいです、どうぞ原作を読んで楽しんでくださいと。

語り口が一人称のログの形をとっていること、とても計算されたスタイルです。あくまでも読まれることは期待しないが(それでもいつか読まれるかもしれないという期待の元に)書かれた記録、という体裁なのでマーク・ワトニーの行った脚色が見られるという面白みがあります。(おそらくあまり情けない惨めなぐちを吐く自分の姿を見せたくないというような?)

酸素、水、食料すべて生存に不可欠な物資の不足をいかに解決するか、から始まって持てる知識の動員、手持ちのアイテムの(予想もつかないような)活用、その詳細を逐一記録。
そこにはご都合主義のラッキーなめっけものもないし、もちろん宇宙人の襲撃や都合よく他の国からの火星探索機が来ることもありません。
本来ならこれ以上ないくらいに事態は深刻、どう転んでも近々の死を免れない現実にマークの気力は萎え孤独と失意と絶望の負のスパイラルが延々と続いても仕方がないのですが、それを敢えてカットしたところがすごい!
おそらく記録に残さないところでそのような事態に陥る機会や危険性を描くという選択もあったのでしょうが、そこは読者の想像に任せるという姿勢が爽快です。

限りなく深刻になる代わりに読者はマークの技術者魂ともいうべき、目先の問題を一つずつ解決していく(つぶしていくともいう)バイタリティに喝采し、事態の悪化のどん底にいてもそれすら笑い飛ばそうという生命力に共感を覚えて惜しみない声援を送ります。成功に"Yes!"と飛び上がって喜び、失敗に素直に落ち込む(他人の目がないからね!私たちの忘れてしまった子供の純真さですw)様子がなんともほほえましいのです。

読み進めていくと、一難去ってまた一難的に次々とマークに襲い掛かる困難(大厄災というよりも、この流れで行けばおそらくこういう不具合が出るかも……というような、しかし解決なしには次へ進めない)にマークは絶対に転んでも負けないで何か対処法を見つけて生き抜く、そして脱出をやり遂げるという確信を持ち話の展開を心待ちにします。
問題の解決法にしても、突拍子もない思い付きではなく、いわばアポロ13式限られた手持ちのアイテムをいかに有効利用するか、そのプロセスを非理工学系の読者にも想像できるように現実に即しての展開、それも入念な実験とテストの末の運用など、そのまま現実に適用できるように感じてしまいます。マークの孤立奮闘のログに並行して地球サイドのNASAとマークを(結果的には)置き去りにしたクルーの地球へ帰還する宇宙船のプロットが絡みます。どのグループの描写も必要以上に重くならない、マークのシークエンスにうまく対比するような軽妙さがあります。
それぞれにマークの生還に向けて力を尽くす、また尽くしきれないところが丁寧に描かれます。

某国の(別にネタバレしてもいいんですけどw)推進ロケットを利用させてもらうアイディアにしても(そっちのマーケットを狙ったの?)笑えるし、最近よく話題に上るフライ・バイ航法をちゃっかり取り入れるところも冴えています。

パス・ファインダーのプログラムを修正して初めてNASAとテキストで通信できるようになったとき、「きみの発言は全世界に公開されているから言葉に気をつけて」といわれて、そうかい、そうかい、それじゃとばかりに卑猥語を打つ、あっぱれ反骨精神など惜しみなくちりばめられているマークのユーモアも、裏返せばマークの科学者としての自分を含めたものを客観的に見ることのできる能力に他ならないということなのです。こうやって数え上げていくと、結局この本は「面白い」という一言に収束していくようです。ぜひとも一読をお勧めしたい本です。

先週公開されたリドリー・スコット監督、マット・デイモン主演の「火星の人」(公開タイトルは「オデッセイ」)を見に行きました。長い原作なのでカットされたディテールが惜しまれますが概ね原作のテイストは保たれていたと感じました。何よりも深刻でなく、しかも見終わって爽快。ただし原作はもっと効果的なところで終っていました。映画ではさすがにあそこでエンドマークでは、まるでTV放映の映画がプッツン切れで終ってCMが始まるような気分的消化不良になるかもしれませんが、どうしても原作から入った者にとっては後日談は付け足しにしか思えないのです。
そういうところが小説と映画のクライマックスへの導き方の違いかもしれないですね。

有人火星飛行も現実味を帯びてきた最近、これはSF にしてSF に非ずなのかもしれません、うん、実際にあり得る話ですね。

4月まとめ、主に本

タイトル書きながら、なんだか恥ずかしい、もう5月も中旬だというのに。
気を取り直して予定通りまとめをしますか。

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ラーセンの"ミレニアム"以来はまり気味の北欧ミステリ、これがまたたくさんあるのですが、4月にまとめてよんだのがこちら。
ラーシュ・ケプレルのリンナ警部シリーズ3作です。覆面作家としてデビューしたケプレル、実は純文学作家夫婦の合作で(ペンネームは著作の一つ、天文学者のティコ・ブラーエからケプラーつながり、それにミレニアムのラーソンから取ったらしい)作家の正体を明らかにしようとするだけにかなりの騒ぎになったらしい、これも面白いエピソードです。
「催眠」ではそれほど感じなかったけれど「契約」「交霊」と後作になるにつれて映画を見ているようなスピード感と展開の速さに驚かされます。これまで読んだ北欧ミステリの、どちらかというと一年の半ばが夜、半ばが昼という地域性を反映するような物語の展開が緩やかでキャラクターをじっくり書き込んでいくテイストとは異なったキレのいい簡素さに読む快感を覚えました。
そうはいっても処々にさりげなく添えられている目に映る風景や肌に感じる気象などの描写の的確さ、心地よさは秀逸です。めまぐるしい場面転換の間に挟まれるこういった描写が物語に奥行を与えることで、読者を振り回すだけのせわしない小説から間違いなく一線を画しています。つまり……読んでいて楽しい、ほっとする、それでいて早く読み進みたい気持ちを逸らせる力があるとでも言いましょうか。
事件はどれもかなり血なまぐさく暴力的です。スウェーデン国家警察のヨーナ・リンナ警部のタフさにも(嘘でしょというくらいの)驚くし、徐々に明らかになってくる個人的な闇の秘密の部分もあって(わかってしまうとかなりあっけないけれど)直線的に一話完結といったTVドラマのようなあっけなさにがっかりすることはなさそうです。とはいえ、半ばで犯人の予想がついてしまうような「純朴な」ストーリーもありますが、進展型の連作なので、ここまで付き合ったからには最後まで……と義理を尽くしてしまいそうです。
何のかんの言っても面白いから読み続けるんですけどね。

洋菓子 vs 和菓子

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洋菓子の巻
これまたおいしい小説群です。
上田早夕里 「ショコラティエの勲章」(画像は昨日の記事に)
ここに挙げた2作(ラ・パティスリー、菓子フェスの庭)は「ショコラティエの勲章」とは別の流れのストーリーですが、時系列的にはパティスリーが先行、間にショコラティエが入って菓子フェスがパティスリーの後日譚になります。登場人物もお互いに顔を出しますし、同時に二つの洋菓子店でお話が進行している構成だと理解しています。

「ショコラティエの勲章」は一人称語りで、神戸で和菓子店の販売をしているあかりさんが近くにできたショコラトリーに評判のショコラを買いにいくことから始まります。ちょっとした事件が起こり知り合いになったシェフの長峰さんとショコラを挟んでさまざまな人生にほんの少し触れて、ほんの少し何か影響を与えたり、何かをもらったりしていく物語です。

昨日のあんちゃんのお話に比べればもう少し深刻で人生の機微に立ち入った語り口です。ショコラという甘くてほろ苦い素材から連想されるように人生の幸福、喜び、楽しい思い出とともに哀感やかなえられなかった願いや時の経過を経てまろやかに熟した人間関係など、繊細な筆致で描かれます。

しかし、何よりもこの本を生き生きとさせているもの、しばらく経つとまた手に取って読みたくさせるもの、それはお菓子のおいしい描写です。ショコラ、ガレット・デ・ロワ、アイスクリーム、ブリュレ、ガトー・ショコラ、マカロン、ムース、オペラ……どれもが食べてみたいと切に思うような読むおいしさです。微妙な風味や隠し味、美しい形、香り、どれもどうしようもないほど刺激的です。

物語の最後にそれとなく示されたのは、万人においしいお菓子はなく、食べる人それぞれの「味」に対する経験がおいしさを感じさせるのだということ。だからシェフの長峰さんはその都度食べる人の事情に合わせた特別のお菓子を作る。単に好みという段階にとどまらず、相手がお菓子の味に何を求めているのかを推し量りながら。それが彼の卓越した腕に裏打ちされた職人としてのこだわりであり、常に追い求めるべき自分の菓子作りに課した目標なのだなあということが何となくわかってきます。
あかりさんはそういう長峰さんを敬意をもって見つめ、年末の夜に落ちてきた雪をショコラティエに捧げる勲章だと心の中で思うのです。

和菓子、洋菓子ともに命をつなぐ主食から一歩引いた控えめなところにいるからこそ、こんなにゆとりのあるおいしさを標榜できるのでしょうね。
願わくば、こちとらもショーケースの中の素敵にきれいなケーキや宝石みたいなショコラや、はんなりぽったりとした上生菓子を見て「わ、高っ!」などと下賤な感想を漏らさずにゆったりといただいて味を楽しめるだけのゆとりを持ちたいものです。

和菓子 vs 洋菓子

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生きている楽しみの一つはおいしいものを食べることであるといっても……いいですよね。
少なくとも私の場合はそうです。
古来そういう気分に浮かされた人は多いと見えて学生時代読んだサバランの「美味礼賛」などがまず頭に浮かびます。

和菓子の巻

坂本司 「和菓子のアン」最近おいしく読みました。
モラトリアムを自認する杏子(あん)ちゃんがデパ地下の和菓子売場でバイトを始め、一癖も二癖もある美人店長、和菓子職人をめざす表イケメン内乙女の先輩店員、しっかり者でびっくりの同僚店員にもまれながら、和菓子の魅力に開眼して、さまざまなお客さんの人生模様(?)を「お買い上げになる」和菓子との関連から垣間見、奥深い和菓子の薀蓄を身につけつつ、次第に自分に対する自信を取り戻していくという、楽しくもおいしいお話です。

和菓子には日本の折々の時節と分特徴をもったものが作られます。菓子の名一つとっても完全な理解には古文の素養が必要だったり、知識のみではなくそれを自家のものとして体感できる感性が求められます。
この本では、そのあたりを押し付けがましくなくやんわりと紹介するだけにとどめています。啓蒙書的にこれ見よがしに知識のオンパレードだったら読者はしらけてしまうし、肝心のストーリーが分断されてしまいます。そのさじ加減をよく承知していて、もう知っている人には「そうそう、よく知ってるね」とうるさくなくほほえましく感じられ、知らない人には「へえ、そうなんだ、なんだかおもしろい」と素直に感心して関心を持ってもらえる程度に書かれています。

決して美人のほうには入らない、しかもちょっと太目のアンちゃんですが、呑み込みは早いし機転は効くし、他人に対して素直な感情で接するのは読んでいても気持ちがよくなります。周囲の人々のちょっと大げさなキャラも、時々しらけ気味になりますが、その描写も短いし近ごろの軽いタッチの小説にはよくあることなのでそれほど気にせずにストーリーにまた乗ることができます。

和菓子は洋菓子に対して地味だし飛ぶようにも売れないけれど、息の長い商品ともいえます。毎月必ず同じ銘果を買う夫人、一つだけ異なる銘柄を出すことで言外の警告をしようともくろむ女性社員、洋菓子の売り子さんの人知れぬ葛藤、はてはデパ地下の「売れ残り」予備軍を一手に引き受ける伝説的な売り子さん、一件あっち筋の人でなんだかこわいことをアンちゃんにしゃべりまくるおじさん……軽いミステリを中心に据えて、デパ地下という極めて人間臭い閉鎖的な空間の中で、非日常的に詩情を持つ和菓子を巡る人間たち。さまざまに楽しく、ユーモラスで、ほろりとさせられます。

これが、ただおいしいお店の和スイーツを紹介する本だったら手にとっても読まなかったと思います。
上生菓子やお干菓子からみたらし団子、大福餅にいたるまでのさまざまな和菓子をキーにして少しずつ進んでいく時と変化していく人間をソフトに緩やかに、描いています―――それこそ和菓子のはんなりした色合いのように。
声高に和菓子ってこんなにおいしいんだよ、と叫ばなくても読んでいるうちに、ああ和菓子が食べたいと思わせるような本。

こんど出かけたら桜餅を買ってこよう、と心にきめたのでした。
明日は洋菓子の巻w

四つの署名———フリーマンによる前書き

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さて、大詰めに近づいてきました。今回は「四つの署名」前書きはマーティン・フリーマンです。
カンバーバッチよりもさらに話口調で、ワトソンのキャラクターがそのまま話しているようです。
これまた前回同様、言語明瞭意味不明瞭というところがあります。おそらく読まれると、ははあこれね、とわかることと思います。
わたくしことながら、明日から一週間旅行に出るので、それまでにアップしてしまおうと急いだ楽屋裏があります。
フリーマンの言葉を借りれば、こういったことは大急ぎですべきじゃないんだ、ということになりそうですが。
では、どうぞ。

↓ここから

「マーティン、シャーロック・ホームズの現代版へ出演を依頼したいんだが?」
あれ、ま。

頭の中で警報がなった。テレビ用語で「現代」ってどういう意味だ? ラップで推理をやるのか? ホームズとワトソンがレクサスに 乗ってレストレードに会いに行く道すがらロンドンの街中に爆弾を投げ回るのか? しかもレストレードは車イスに乗ってるレスビア ンで昼食にはクラスAのドラッグがお好みだったりして。

実際は、このドラマについてのデイリー・メイルの記事を読めばぼくたちの作り上げた物がわかる。
だが、脇道へそれるが…ほんとうに警戒していたのはホームズが「かっこよく」なるという考えだった。いい意味のかっこいいじゃなくてテレビでの「かっこいい」だ 。それは、ほら…ちっともかっこよくないだろう? 
それにちよっと心配だったのは原作から離れすぎてしまうんじゃないかというこ とだった——ご推察の通り、原作はどれも読んだことがなかったんだけど、ね。

  コナン・ドイル?要チェック。バスカヴィル家の犬?要チェック。(あなたが投げかけてくれるホームズもの、どんなバージョンでも 見ますよ)ラスボーンとブルース? もちろん!(彼らはぼくの初めてのホームズ体験だった、今でもすばらしいと思ってる)
いい話は(はいはい、モファットとゲイティスはさておいて、後で彼らの話はするよ)ベネディクト・カンバーバッチにホームズをや らせようとしていることだった。オーケー、なかなか耳寄りな話だ。ずっと彼はいい仕事をしてると思っていたし、シャーロックにう ってつけだ、問題ない。しかし、だ。ぼくにワトソンをやれだって。これっていいことか? 興味がもてる役だろうか?別のやつが賢 さをひけらかしているときに、カメラの外で何かもごもご言うなんて、ちっとも面白いと思わなかった。

そのうえ、ナイジェル・ブルースに心からの敬意を払っていうのだが(ぼくにとってのワトソンは彼だけだ)、彼は永遠のワトソン役 でぼくよりも731年くらいも年長だった。(まあ、そういう感じに見えたのだ——ずっと昔のことだ。当時彼はやっと26歳だった)

脚本が届いて何もかもが、そうまったく何もかもすべてが腑に落ちた。雰囲気、進行速度、シャーロックとジョンの関係、アクション と、ぼくが会話の掛け合いと好んで呼ぶ部分のバランス———それらがページから飛び立ちぼくはぶっとんだ。スティーヴン・モファ ットとマーク・ゲイティスは間違いなく優秀な尊敬に値する脚本家だ。だが、ワトソンはぼくが思っていたよりもずっと活動的だった 。彼らが確かにそうしたんだね? 「もごもご」を引っ込めて代わりに「ドスッ!」(*重たい打撃音の擬態音、ボスッ、ドコッ)を加 えた?

いや、実際にはそうじゃない。スティーヴンとマークがシャーロックの脚本家としてやったことは奇跡に他ならないことだったと言い たいのだ。彼らの創案と革新は天才の技にちかいものだ——もしそういうものがあればだ。しかしぼくはおいおいわかっていくことに なるのだが、コナン・ドイルの素材は思っていたよりもずっと現代的で、ちっとも小ぢんまりとはしていなかった。

ジョンは傷病兵としてアフガニスタンから帰還した軍医だった、原作のワトソンと同じである。肉体的に堅固な男で、これも原作通り だ。さっきも言ったように現時点でぼくはコナン・ドイルを読み切っていない。だが、ジョン役をやるとサインしてから原作に親しみ 始めた。それは今も続いている。こういったことはあわててされるべきじゃないし、まだまだ読む原作が残っているのはうれしいこと だ。

たくさんの話がドラマ化してくれとせがんでいる———ほとんどがドラマ化にこれ以上いい話が思いつかない話であるのは偶然ではな い。ただ筋立てがとても巧妙だからというだけではない、実際とても巧妙なのだけど。また、人物がとてもうまく描かれているからと いうだけでもない、実際とてもうまく描かれているのだが。
会話の掛け合いが絶妙なのだ!読めば読むほど、さまざまなTVと映画の脚色において、ドイルの編み出した会話のすべてがまったく変更されていないということがわかってくるのだ。そこにはドラマがある。 真の機知がある。あなたが今手に取っている本がそのいい例だ。

ぼくに言えるのはこの本にメアリー・モースタンがでてくることだ。ジョン・ワトソンにとっていい知らせだ。残りはあなたがご自分 で見つけ出してください。そして、たっぷり楽しんでください。

マーティン・フリーマン

おや、この回には訳者による注はなかった、それだけわかりやすかった…のかな?


バスカヴィル家の犬———カンバーバッチによる前書き

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三冊目となりました。今回の前書きはSHERLOCKのタイトルロールを演じるベネディクト・カンバーバッチ。
ゲイティスやモファットと世代が違うというか、わたしが彼らの年代に近いので心情に親近感を覚えるだけかもしれませんが、いままでとちょっと変わった雰囲気の語り口です。まるで目の前でベニーが話しているようです。
中にはこりゃなんじゃ?というような箇所がありましたが、前後からおそらくこういうことを言っているのだろうと類推して訳したところもあります。おいおい訂正すべきは訂正するつもりなので、ご愛嬌としてご覧ください。では、始まり始まり。


↓ここから

「ホームズさん、それは巨大な犬の足跡だったんです!」
  すごい一節だ。
  おわり。
  ちょっと待て、ほんとうにぼくに「犬」の前書きをまるまる書かせたいのか?
 (もしこれがミュージカルだったら、いつもの調子でやれるのに。”ハウンド!” ミュージカル…ああ、いい思いつきが… 集中しろ、カンバーバッチ!)

これってマーティン・フリーマンの陰謀じゃないのか? 彼はあのシリーズは遠からず(*シャーロックじゃなくて)"ジョン"と改名さ れるだろうと確信しているんだから。
結局のところ、これはホームズの原作中で一番よく知られていてしかも恐ろしい話だ。それでいて全編15章のうちホームズが出てこな い章が6つもある。なぜなんだ?

あきらかに犬のせいだ! おっとすまない、これはネタバレだった……
しかし、シャーロックなら近場にいるでかい犬について嗅ぎまわることであっさりと正解に達してしまうだろう。そしてぼくらは221B に戻ってゆっくりタンタロスの煉獄(*暖炉のこと)をこじ開け石炭入れからもう一本タバコを取り出す余裕ができるというものだ。
ともかく、マーク・ゲイティスがこうしてはいけないってことはないよね? マークはぼくらのバージョンの犬を書いたし、おまけ犬も飼っているのだから! 名前はブンセン!
マークと(それにブンセン)に対してフェアであるために言っておくが、炎は「そのかっと開けた口から吹き出」さないし、(前の晩 に食べたニシンの臭いにおいを出さなければだが)、目が「熾火のように」光ることもないし、「逆立った毛や垂れたのど」の体の輪 郭が「ちらちらした炎に」包まれているわけでもない。それどころか、ブンセンはごろごろ転がってよだれを垂らしおなかを出して撫 でてくれとせがむのだ。

ぼくはシャーロック・ホームズに関しては晩生だった。3年前にやっと手をつけて今もなお進行中である。今でこそホームズもの を全部読んだが、最初はまったくのど素人で、知り合いだったふたりのホームズのビッグマニアに頼りっきりだった———そう、ス ティーヴン・モファットとマーク・ゲイティスのことだ。世界で一番偉大な(コンサルト嘱託、とはいうが思うにオールラウンドの) 探偵を演じるうえで必要な直感を彼らにリードしてもらった。ぼくにとって幸運だったのは、彼らがはったりじゃなくて本物だったこと、 そしてわが国のトップクラスの脚本家の二人であったことだ。
ぼくは最初から読み始めた。そして「緋色の研究」を読んではたと気がついた。原作はすべてのキャラクターの位置づけのための青写真で、シャーロックを演じる際の天の恵みだったのだ。

ドクター・ワトソンは、職業柄、とても観察眼の鋭い人だ。(ふん、見るには見るが観察しているとは限らないと、ホームズはしばしばワトソンにくぎを刺す)しかし、ページの中でホームズに生き生きした実像を与える人物としてワトソンは申し分なくすばらしいのだ。だから役作りのための読書にいっそう拍車がかかった。この驚くべき物語に関するあらゆるものが加速度的に大好きになっていったように。ホームズ聖典を読むのが課題だとは、なんて喜ばしいことだろう。ああ、役者冥利に尽きるというものだ!

初期のころにワトソンがホームズの外見的特徴に関するすばらしい描写をしている;「彼を観察しているといやおうなしに思い出すの が純血種のよく訓練されたフォックスハウンドだ。懸命になってクンクン鳴きながら途切れた匂いを再び嗅ぎあてるまで獲物が潜んで いるあたりを行きつ戻りつ駆け回るのだ。」
のちにホームズは自分を「狼ではなく犬だ」と表現しており、匂いをつけていくときの興奮しきった犬の一面を持つとともに一方では 221Bの暖炉のそばでの無気力にふさぎ込んで夢見るような振る舞いでもう一つの犬の姿を見せるのである。

ホームズ聖典にはたくさんの犬が登場する。夜に吠える犬、吠えない犬。「グロリア・スコット号」ではホームズは大学時代にブルテ リアに噛まれて治るのに10日かかったということが明らかになる。あの印象的な雑種犬のトビーもいる。半分スパニエルで半分ラーチ ャー(*狩猟用に仕込んだ雑種犬)の心強い味方。(確かあれは四分の一がグレイハウンドとアイリッシュウルフハウンドじゃなかった かな? 集中しろ、カンバーバッチ!!)
ともかく、ラーチャーにかけあわされたスパニエルのことよりも(物語の展開から考えると…この例では犬のサイズが優性だったよう だ)ホームズは「ロンドン中の刑事よりもトビーの助けの方が欲しい」と思ったことを考えるんだ!

しかし、ホームズ聖典の中でほんとうに重要な犬は一匹だ。それはダートムーアの霧の中に禍々しい歩みを進める——バスカヴィル一 族にかけられた古の呪いだ!

ぼくはこのすばらしい話を最初に読んでもらったのを覚えている。学校の先生だったか、人を楽しませるのが上手だった父だったか、どちらかにだ。怪奇の部分に芯から震え上がったけれども、きっとわれらがヒーローのホームズが倦むことなく論理で突き詰めて迷信の蜘蛛の巣を吹き払ってくれるだろうと期待した。
だが、待てよ! ドクター・ワトソンがダートムーアへ行くことになった…それも一人で! 最近のぼくたちのBBCのSHERLOCKでは ロンドンを離れロケーションで数日を過ごした。物語のもうひとりの主役ともいうべきダートムーアに出会うために。
それは呆然となるほどの光景だった。なだらかに起伏する丘や谷が急に広漠として荘厳なムーアに変わっていく。日没の薄れゆく日 の光の中にその景色がどこまでもずっと続いていく。日が沈むとまたたく間に気温が下がり、あたりの景色はどことなく人を寄せ付け ないよそよそしく荒れ果てたものに変わる。これこそ、コナン・ドイルが巧みに急峻な岩山と霧の悪夢の風景に作り変えた、寂寥感あふ れる凄絶な美しさあふれる場所なのだ。
物音が実際より近くに聞こえる。あなたは伸ばした手の先の闇の中に潜むものにおののいて胸がぎゆっと締まる。そして、彼方から吠え声が…そのおぞましさと救いのなさに背筋が凍る。飢えと復讐に満ちた獣の咆哮!

あなたが本書を初めて読むのなら、ようこそ。これから本の中でスリルが待ち構えるていると思うとあなたがうらやましい。旧友に会いに 戻ってきたのなら、このようなことで時間を取らせてしまったことをお詫びしたい。
さあ、紳士淑女の皆々様! シャーロック・ホームズの扱った事件の中でも最も有名で愛された、恐ろしくもぞっとするほど美しい物 語、バスカヴィル家の犬でございます。

    これでよかったかな? もう一度やらせてもらえる? 
    え、これは撮影と違うって…?
    ああ、なんてこった!

ベネディクト・カンバーバッチ
(*は訳者による注)


緋色の研究———モファットによる前書き

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前項のゲイティスさんに続いてスティーヴン・モファットさんによる前書きを紹介します。
コナン・ドイルによる60篇のシャーロック・ホームズ小説(長編4、短編56)の記念すべき第一作である「緋色の研究」(A Study in Scarlet)です。

モファットとゲイティスの制作したBBCドラマSHERLOCKの第一作は「ピンク色の研究」(A Study in Pink)は、もちろんこの作品へのオマージュです。
彼のシャーロック・ホームズへの愛はゲイティスのそれに勝るとも劣らぬくらいです。言葉の端々から愛がうかがわれます。読んでいる読者としてもほほえましいというか羨ましさまで感じるほどです。それでは、お楽しみください。


↓ここから

小さい頃、シャーロック・ホームズの名前は聞いたことがあったが本も読んだことはないし、映画も見たことはなかった。
一度だけホームズ=ワトソンの映画をちらっと見たことはあるが(わたしはどうも彼らをあべこべに受け取ったようだ。ワトソンの方が年上に見えたので賢いのだろうと思い込んだ)すぐに子供部屋へ戻された。その時放送していたのは「バスカヴィル家の犬」でとてつもなくおっそろしいシロモノだったからだ。
案の定その夜、ベッドの中で震えながら頭の中では妄想が始まった———階下がダートムーアと化し、下から巨大な犬の吠え声が聞こえてきたのだ!

シャーロック・ホームズは探偵だ、それは知っていたし推理小説も楽しんでいた。(たとえほとんどが謎解きの説明で基本的には答えが出せなかったクルードのゲームみたいなものであったにせよ)(*Cluedoイギリス、ワディントン社の犯人当てのゲーム)だが、明らかにこのシャーロック・ホームズの話は他とは違っていた。そこには怪物と戦う探偵がいた…

「シャーロック・ホームズってどんな人なの?」わたしは何度も父に聞いたものだ。あのころは答えを見つけるのが簡単ではなかった。インターネットは何マイルも離れた図書館にしかなくて、そこへ行くにはバスを乗り換えなければならなかった(ブロードバンドのスピードが遅いと不平を垂れていたのと同じころの昔の話である)。おまけにわたしがよく行く書店にはシャーロック・ホームズの本などなさそうだった。

そうこうするうち、ある週末にわたしは祖父母の家に泊まりに行った。いつもはこのお泊りは好きだったのだが、その時に限ってわたしはむっつりしていた。友達や両親が恋しくなりかかっていたからだ。祖父母の家に残されて(ぽいっと放り出されるようにだ、間違いなくわたしにはそう思えた)ふくれっ面でわたしは自分にあてがわれた部屋へ行った。するとベッドの上にプレゼントがあった。たぶんわたしに対して悪いという気持ちがあったのだろうが、そんなことはどうでもよかった。なぜって? それは本だったからだ。それも部屋の入り口からでもどんな本か分かった——表紙には黄色っぽい霧を背景に鹿撃ち帽をかぶった男の黒いシルエットの横顔があった。

黄色い霧だ! とっつきにこれ以上かっこいいものがあっただろうか! 大気汚染防止法は大いに褒められるべきものだが、詩的文学に関してはいかがなものだろうか? さらにじっくり見ると、その本は今あなたが手にしている本、つまりサー・アーサー・コナン・ドイルによる「緋色の研究」だった。シャーロック・ホームズの冒険というキャッチフレーズがあった。そう、疑いの余地はなかった。

実際それは単に有名なシャーロック・ホームズの話であるにとどまらなかった——第一作だったのだ!そもそもの始まりの話。ほんとうのいの一番なのだ。この出来事のおかげでわたしはホームズの全作品を読破したすべての人々の中で、最初から正しい順序で読んだ数少ない読者になれたのだと思いたい。
まさに第一作目の本の第一ページ目をめくるとき、本は巨大な扉が開くように軋み重々しい音をたてたにちがいない———その後決して離れることのない新しい世界に第一歩を記したのだから。

読み出した後に押し寄せてくるありとあらゆるものがわかっていたならば、わたしはページをめくることができなかったかもしれない!
ムーアに跋扈する巨大な犬、呼び鈴の紐を伝う蛇、卑劣なモリアーティと美しいアイリーン・アドラー。ブルース・パティントン計画と夜間に番犬の用をなさない犬。さらに戦時下のロンドンでナチと戦うバジル・ラスボーンとスパイダー・ウーマンの非現実的な夢、そしてジェレミー・ブレットはグラナダテレビの優れたシリーズでそれまで退屈だったテレビに劇場の演劇なみの衝撃を与えてくれた。ビリー・ワイルダーは天分を子供のころのお気に入りに余すところなく注ぎ込み、美しくも不気味な——それでいてとびきり面白い———シャーロック・ホームズの冒険(*The Private Life of Sherlock Holmes 1970年 脚本・監督・制作)をわたしたちの前に繰り広げた。

もしまだこの本を読んでいないなら、さあさっさと読んでください。わたしはネタバレはきらいだし、あなたも、どうなるかだんだんわかってくるにつれてネタバレがなくてよかった、と思うようになるだろう。だから、さあ今から読んでください、読み終わったらまた次の文の頭に戻ってきてください。


やあ、再びようこそ。驚きだったでしょう? なんと大胆に小気味よくスマートな語り口であることか。いかにヴィクトリア時代の枠を超えて控えめに現代風に書かれていることか。最初の登場にしてキャラクターが完全に出来上がって、しかも恐ろしいほどのシャーロック・ホームズについてはどうだろう? すべての小説の中のもっとも偉大なヒーローの一人、その男の最初の姿をわたしたちはどのようにして知るのであろうか。なんと彼は解剖室で死体を鞭打っているのだ。
それから100年以上もたって、マーク・ゲイティスとともにわたしたちなりの現代版を制作した折に、われらの新シャーロック・ホームズの登場に際してまったく同じことをさせた。このわたしたちの勇気とエネルギーに対して多大な喝采をもらった。だが、わたしたちが得たほかの多くの秀逸な着想と同じく、これも原典からそのまま使ったものだった。

そのうえ、われらのヒーローはまったく正統派ヒーローっぽくないだろう? 冷徹でうぬぼれやでユーモアのセンスがなくて、自分の選んだ職業に没頭する様子は気味が悪いほどだ。常人には不可解な秀でた能力をもつ一方で彼の知識にはとんだ欠落がある、それについてワトソンが作ったぞっとするリストがある。
ずっと昔には、わたしのヒーロー像はこんなものではなかった。わたしが期待したのは、魅力的で勇敢で心優しいヒーロー——でも、そこはほら、わたしはやめずに読み続けた。わたしを駆り立てたのは「推理」だった。ああ、なんとその推理にぞくぞくしたことだろう。はじめて会った時シャーロックはたちどころにワトソンが最近アフガニスタンから帰ってきたことを知った。しかし、どうやって? ドイルは答えを明かさずにあなたに待ちぼうけをくらわしただろう? そして彼は初めての事件現場へ赴き、みんなに殺人者は赤ら顔の人物だと告げるのだ。わたしはここでもどきっとした———どうしてそんなことができるのだろう? どうしたらこういう顔だという証拠が空気中に残るのだろう? またもやドイルに手玉にとられて読者はページをむさぼり読むことになる。どうやってこんな不思議な芸当ができたのか探り当てようと必死になる。

本を読み終わるころには自分がほんとうにシャーロック・ホームズが好きなのか確信が持てなくなった——正直言って、どうして好きになれる?——だがいままでに読んだ本の登場人物でこれほど虜にさせられ、胸を躍らせたキャラクターはいなかった。ホームズはわたしを安心して落ち着かさせてくれなかった。わたしはいつも自分の立ち位置がわからなくなった。しばしの間素晴らしい頭脳のひらめきに畏敬の念に撃たれたと思うと、次の瞬間に彼は傲慢さと残酷さでわたしの横っ面をひっぱたくのだった。そしてストーリーテリングの達人であるドイルはさらにそれに輪をかけて持ち上げたり蹴落としたりするのだ。

本書のすぐ後に書かれた「四つの署名」でホームズは事件が途絶えた退屈さをまぎらわすために麻薬を使う——心底ショックを受けた———ところがすぐに彼はひとつの懐中時計から持ち主の全体像を推理するのだ。そしてわたしはそれにまた心を躍らした。
同時にホームズはドクター・ワトソンに対していつも意地悪く接する。女性に対する許しがたい発言をするし、一連の作品の中でドイルが繰り返し描くことになる素晴らしい天才のひらめきをもって自分が登場する話を酷評するのだ!
(*ワトソンの書いた)「緋色の研究」がこうむったもっともひどい(*ホームズによる)批評を知りたいなら続編を読むといい。(*四つの署名の冒頭)———シャーロック・ホームズは自分の仕事の報告書としてのこの本が気に入らないと公式に表明する。とっくに野心的な出版社がシャーロックの言ったこきおろしを引用して表紙に載せてもいいころだと思うのだが。
ドイルの文才へ手放しの賞賛を送ることが多いが、生意気な態度と信頼性とを結びつけるこの大胆なアイディアには毎度のことながら笑わされるのだ。

もうひとつの物語が連作の中で進行している。静かにゆっくり近づいてくるので読者はその存在になかなか気がつかない。そして徐々に頭の中に姿をとり出すすべての事のように、それが肝心要なのだ。
これらすべての輝かしい小説はひっくるめて見ればふたりの友情の物語に他ならない。すべての小説作品の中で、最高の不滅のもっとも心温まる友情。このふたりの男たちが互いに愛し合っていることに疑いの余地はない。しかしそれは物語中では決して明言されていない、触れられてすらいない。
二人は一緒に冒険をする。ホームズは冷淡でワトソンは忍耐強い。ホームズは才知をひらめかせ、ワトソンは勇敢さを示す。しかしふたりは常ににともにある。常に全幅の信頼を互いに抱いている。まさにそれだけのことである。おおよその男同士の友情と同様に、なにもかもが推測の中にあり、なにひとつ言葉では語られないのである。

ああ、ひとつだけをのぞいて。ただ一度だけ、それが読者の運なのだ。もしあなたがわたしがしたように出版されたとおりの順で読み進むならば「三人ガリデブ」に行き当たるまでにずいぶんと長い時間待たなければならない。(*シャーロック・ホームズの事件簿掲載、56ある短編の49番目)だが、焦ってはいけない。順を追って読み続けたまえ——その瞬間が訪れたとき、きっとあなたは涙を押しとどめようと瞬きを繰り返すだろう。

先日、マークとわたしはSHERLOCKの来シーズンについて制作発表をした。当然のことながら、シャーロック・ホームズの永続的な魅力はなんですかという質問が出た。マークは「推理、そしてもちろん友情だ」と答えた。もしシャーロック・ホームズの物語が小説という形で最大のヒットであるならば———まったくその通りなのだが———人が彼らのようなヒーローを好むということから人間についてどのようなことが推論されるだろう? 結局のところ、わたしたちは心地よい理性と佳き友情を愛する、ということなのだ。

  それがあればわたしは生きていけると思うのだ。

スティーヴン・モファット

(*は訳者による注)

シャーロック・ホームズの冒険———ゲイティスによる前書き

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BBCの"シャーロック"のヒットによって、原典のサー・アーサー・コナン・ドイルの一連のホームズ作品が新たな読者を獲得している模様です。
ペーパーバックも表紙をドラマの写真に一新して新版を発売しています。「冒険」「緋色の研究」「四つの署名」「バスバヴィル家の犬」、それぞれにM.ゲイティス、S.モファット、B.カンバーバッチ、M.フリーマンが前書きを書いているというおいしいおまけが付きます。
ゲイティスの前書きの簡単な抄訳をしてみました。いかにホームズ物を愛しているかが言葉の端々から伝わってくると思います…が。(伝わらなかったら訳の拙さだと思ってくださいね)


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古いブライアーのパイプを取り出して、未開封の手紙を暖炉の上にジャックナイフで刺し止めたわたしは物思いにふける。窓の外では秋分の大風が唸りをあげて、見知らぬ人が必死に呼び鈴の紐を引いているのが聞こえる。さあ、冒険に乗り出す準備完了だ。用意はいいか?

「シャーロック・ホームズの冒険」の前書きを書く機会をいただいたことは真に名誉であるとともに大きな喜びである。ひとつには本書はわたしにとってすべてのホームズ小説の中で最高の一冊だからである。本書はアーサー・コナン・ドイルによって書かれた最初の文学作品としての成功を収めたもので、彼の驚くべき独創的な才能からあふれ出たとどまるところを知らない機知にとんだすばらしい着想のうねりの中で書かれたものである。

しかしながら本書がわたしにとってこれほど身近な存在であり続けたのにはもう一つわけがある。まさにこれがわたしが最初に読んだホームズとワトソンのコンビが事件を解決する本だったからだ。
文学における「不滅の友情」を初めてそれと意識したのがいつだったかはっきりしないが、7歳以前に教室の壁にホームズの絵がピンで留められていたのをはっきり覚えている(それには"名探偵"という題が付いていた)。バジル・ラスボーンとナイジェル・ブルースのすばらしい映画は、永遠に消えることのないイメージをすでにわたしの心に焼き付けていた。
どうしようもなくダサい子供だったわたしは小さな黄色いプラスチック製の曲がったパイプにココナツ・タバコ(*甘いお菓子)を詰め込んで(何せ1970年代のことだったのだ!)、懐具合の悪いときはこれは刈ったばかりの草になったりしたが、父の吸うエンバシーno.3の煙草の灰の長さから彼の行動を推理しようとした。だが父が泥に足を踏み入れた、そしてネイションワイド(*BBCの平日のニュース番組)を見ながら煙草に火をつけたということ以上にわかったという覚えがない。

ところがわたしはまだ原作のどの話も読んだことはなかった。ある運命的な土曜日が来るまでは。
それは、ようやく風疹が治りかかったところで、病気でがまんしたごほうびにWHスミス(*英国中心に展開する本、CDなどの大手チェーン店)で何でも好きな本を買ってもらえることになった日だった。
たくさんの欲しい本の中であれこれ迷った末に、わたしの手の真っ新の50ペンス紙幣と交換する栄誉に浴したのは、表紙がシドニー・パジェットのイラストの分厚い紫色のパン・ペーパーバックだった。それが「シャーロック・ホームズの冒険」だった。どのページをめくってもぞくぞくするようなミステリーと、ややあくの強いヴィクトリア朝時代の魅力があふれているという予感がした。わたしはたちまちぞっこん参ってしまった。
しかし本編が始まる前に前書きがあった。内容自体はあまりよく覚えていないが、その最後が感動的な情感に満ちた文で締めくくられていたことだけははっきりしている。それはこんな具合だった。「自分がまだこの話を読んでいなければどんなによかっただろうと思う、これが初めて読むのであったなら!」その夜わたしはベッドに戻ってその文に身震いした。ぼくはこれから初めて読むんだ!と。

ページをめくり、ハザリー氏の親指の恐ろしい顛末を知り(*技師の親指)、あの悪名高いアイリーン・アドラー(*ボヘミアの醜聞)や高慢ちきなジャベズ・ウィルソン(*赤毛組合)に出会った。奇妙なネズミ(A Rat)の意味に気づき(*ボスコム谷の惨劇)、イライアス・オープンショウに死を宣告する封筒の中身を知った(*オレンジの種5つ)。まだある、アイザ・ホィットニーと「金の延べ棒」(*唇のねじれた男)、クリスマスの鵞鳥に隠された秘密(*青い紅玉)、ストーク・モランにあるロイロット家(*まだらの紐)。
全編が深紅色のヴィクトリア時代のベルベットにも引けを取らない濃厚でめくるめくメロドラマで「冒険」はわたしの期待を裏切らなかった、いやそれ以上のものだった。
どの物語も核心部分には、これ以上似ても似つかぬという二人の男の間に通う暗黙の心にひびく友情があった。世間に通じ、直裁で尊敬に値するワトソンと浮世離れした冷徹で傲慢なホームズ。わたしはこのくだりを読むや、ふたりがとてつもなく好きになった。「シャーロック・ホームズにとって彼女は常に『あの女(ひと)』である。」ロマンスの香りをかぎつけ、それが失われたことをそれとなくほのめかす憂いを感じたからだ。

これらの物語からベイカー街221Bの舌なめずりしたくなるような情景の詳細を知ることができるし、決して読むことができない事件について初めての言及があるのも知ることになる。(パラドール・チェンバーの怪事件! アマチュア乞食クラブ事件!ワーバートン大佐の狂気!)(*オレンジの種5つ/技師の親指)ホームズの冷徹なくせに人を魅了する天才ぶりを改めて感じさせられるのである。

スティーヴン・モファットとふたりでこの話を現代版でやるという着想を得たとき(正確には現代版をまたやろうとしたときというべきか。ラスボーンとブルースがもうやっていたからだ——*ユニバーサル制作、1940年代に舞台を設定した。ラスボーンがホームズ、ブルースがワトソン)
豪華絢爛のヴィクトリア時代に愛着が持てずに舞台を現代にしたのではない。むしろ彼らの不滅の友情を覆い隠す霧を(文字通り)ふきとばしたいと思ったからだ。わたしたちはすっかりホームズとワトソンの二人に夢中になった、そんな気がした。
どうしてこれほど彼らに恋焦がれてしまったのかをはっきりさせるために、まず素晴らしい原典に立ち戻りたいと思った。この作業を行ったことで、このまえに書いた脚色の中で、わずかであるが原作のいくらかの部分をドラマ化して描くことができた———これはかなりうまくいったと自分で言えるのがうれしい。
たとえばバーツ病院での二人の運命的出会い、死後の痣の出方を調べるために死体を鞭打つホームズ、戦争で負傷したはずなのに妙に楽に動き回るワトソン、関心のないことには驚くほど無知なホームズ、地球が太陽の周りを回っているという事実を知らないとか! これらのことである。

わたしたちは自分たちが創造したベイカー街のやんちゃ坊主たちに対する反響に感動したり喜んだりしつつも、常に回帰すべきはドイルであることを忘れなかった。いくども問題が頭をもたげたが、いつも答えはサー・アーサーが用意してくれていた。
「花婿失踪事件」(*本来なら同一人物事件とでもいえばいいのか)を読み返していたときに珠玉の発見がたまたまあった。
作中でホームズとワトソンは一人の女性が221Bの番地表示をためらいながら見上げるのを観察している。「『こういったそぶりは前にも見たことがある』暖炉に煙草の吸い殻を投げ込んでホームズが言った。『舗道でそわそわするのは恋愛沙汰と決まっている。助言が欲しいけれどこういったことは内容が微妙なので人に話したりわかってもらえるかどうか迷っている。だが、ここからでもはっきりわかる。男にひどい目にあわされた女はためらったりしない、そういうときにはたいてい呼び鈴の紐を引きちぎる(ほどに鳴らす)ものだよ』
これ以上に純粋で素晴らしく書き得ることができるだろうか。

「冒険」をむさぼるように読んだあと、わたしは他の話も全部読みたいという愚かな願望に取り付かれて「コンプリート・シャーロック・ホームズ」(*ホームズ全集)に手を出した。
もちろんモファットが指摘したがるように、シャーロック・ホームズ全作を読んだことが子供の遊び仲間のなかで名誉の勲章になるなんて妄想するのは完全にいかれてるやつだけなのだ!
今日に至るまでわたしは時間をかけてもっとじっくり作品を味わっていないことが悔やまれる。いまでもあの古いよれよれになった本は手元にとってある。どの黄ばんだページにも愛着があり、中にあるたくさんの喜びに心をときめかす。あの最初の一連の作品「冒険」はいつでも一番のお気に入りである。

ゆえに、はるか昔のPanペーパーバックの前書きの言葉を借りるならば、"この本を読むのがこれが最初ならどんなによかっただろう。”と言いたい。
もしこれを読んでいるあなたが、まだこの作品の神聖なページをめくっておらず、阿片窟と悪魔のような継父の世界や、血塗られた高価な宝石と復讐を誓う秘密の結社などの世界にもろに頭から突っ込んでいないのなら、わたしはあなたがうらやましい。 ほんとうにうらやましく思う。あなたは今一生に一度の楽しいひとときを経験しようとしているのだから。

マーク・ゲイティス

*印は訳者による注

ヴェイダー卿子育て奮闘記

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ヴェイダー卿が息子のルーク(4歳)を男手ひとつ(?)で育てるとしたら、というとんでも話。ちなみにエピソード3,5となっております。
日本語版もあります。

怖いもの知らずでやんちゃ、ぐずったり、親の気も知らずにやりたい放題、お片付けはへたくそ、どこへでもついてきたがる、そんなどこにでもいる子供に、手を焼き閉口しながらも一生懸命愛情を注ぐヴェイダー卿の赤裸々な姿が描かれますw

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「これはいい人?悪い人?」「ああ…いい人だ」「悪いやつに見えるけど」「いや、いい人だよ」「ねえもっと描いて」

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痛いの痛いの飛んでけ…

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「ルーク、そこは危ない、早くこっちへ戻っておいで」 親の心配苦労は絶えません。

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子供が褒められれば「あれうちの子です」としっかり親ばか。

それだけ読んでも、だれもが思い当たる親子のほほえましい風景に心なごむのですが、それだけでは終わらないのがSW界の性と言いましょうか、カルマですな。
あの場面のあのセリフ、この場面のあのシーンと、涙ぐましいサービスぶりに一気に読み切りまた読み返し。

そうです、これは全編SWへのオマージュと、そして作者の実生活の親しみに満ち満ちた、まこと「愛の物語」なのです。

最後を飾るのは…

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「パパ、だいすき」


夢のような出会いということ

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ある本の一部を引用してみる。
———前回、いまの私は有体に言えば暇、と書いたが、具体的にどれぐらい暇かというと……。

一、このあいだも読み返したばかりというのに、またもや人生何十度目かの『ガラスの仮面』再読(白泉社漫画文庫版で二十三冊)を達成した。
二、橋本治の『窯変源氏物語』(中央公論新社文庫版で十四冊)を全巻再読した。
三、『サイボーグ009』(秋田漫画文庫版で二十一冊)を三晩連続睡眠不足になりながらも無事に制覇した。

三浦しをん著「夢のような幸福」(新潮文庫)より。

1月に同著者による「舟を編む」を読んで面白さにあてられてから、例によって図書館通いをしてハードカバーの三浦作品をほぼ制覇、まだ足りないと自費で文庫に手を伸ばすこととあいなった。
文庫がこれまた多い、どれにしようか迷いながら題名とカバーのあんまりのキッチュ感にこちらが恥らいながら手にに取ったのが「夢のような幸福」、たまたまぴらりとめくったのが上記の「暇を計測する」のページだった。
ここであらためてガーンとなった。
「ガラ仮面」と「窯変源氏」と「009」の取り合わせ! はばかりながら敢えてこんな取り合わせを選ぶのは世界広しといえどわたしくらいだと思っていたから、まるで自分のヌード写真が(そんなものないけど)知らないうちにパブリックドメインとしてさらされているような羞恥心に近い衝撃を受けてしまったのだ。
これに岩波文庫版「紅楼夢」十二巻まで書いてあったらきっと卒倒して、次にもしやこの人はわたしのドッペルゲンガーかと面会を申し込みに行ったかもしれない(というのはうそ、それくらい吃驚だったってこと)

この後エッセイ本を都合4冊読んでいるがどれもが期待を裏切らない。病院の待合室で思わず吹き出して横の人に怪訝な顔をされた。外で読むのはやばいと就寝前に読むことにしたが、夜中に布団の中で笑いをこらえて悶絶している。
もちろんここに書かれたたくさんの自虐ネタが周到に計算された面白さであることはよくわかる。それでもうまい、凡人が感じていることと同じところから始まって、そうだそうだと共感しているうちに、術中にはまってしまう。乗せられて彼女の思い、時には痛みを追体験して、一体感を持ってしまう。ああ、上手だ。

つらつら振り返って考えるに、ニュースを聞きながら「つい今しがた午前七時から再開した会議で…」などとアナウンサーが言おうものなら「午後だろうが!」と突っ込みを入れる。朝のワイドショーで「めった刺しにされて…」と言えば「滅多切りや滅多突き、滅多打ちはあっても滅多刺しはない!」と茶々を入れ、「食べれるし、見れるし~、ぜ~んぜん良いしぃ~」なんて聞こうものなら「気持ちわりぃ!」と怒る。周りの家族から、いい加減にせいやといつも言われる。
ああ、わたしってこんなに狭量な人間だったのかと「ただこれ天にして、汝が性のつたなきを泣け」と自戒していたのだが、三浦エッセイを読んでいてわが意を得たりの部分があまりに多く、うん、これでもいいのかも、これもありかも…と少し自信が持てるようになった。

しかし見過ごしてはいけない。短い抱腹絶倒のエッセイの中に実は砂金のようにきらりと光る一文が必ず隠れている。それは最後の一行であることも多いが、なんだかこの人はこの一行が書きたいがためにこれを全部書いてきたんだなというようなほっとした気分にさせられる。
蓋し(わたしにとって)名エッセイたる所以であろう。

ここではっと気が付く。この人って娘くらいの歳なんだよね。その人と共感覚もってるなんて、彼女が老成しているのかわたしが幼いのか———聞くだけ愚問だったか。