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シャーロック・ホームズの冒険———ゲイティスによる前書き

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BBCの"シャーロック"のヒットによって、原典のサー・アーサー・コナン・ドイルの一連のホームズ作品が新たな読者を獲得している模様です。
ペーパーバックも表紙をドラマの写真に一新して新版を発売しています。「冒険」「緋色の研究」「四つの署名」「バスバヴィル家の犬」、それぞれにM.ゲイティス、S.モファット、B.カンバーバッチ、M.フリーマンが前書きを書いているというおいしいおまけが付きます。
ゲイティスの前書きの簡単な抄訳をしてみました。いかにホームズ物を愛しているかが言葉の端々から伝わってくると思います…が。(伝わらなかったら訳の拙さだと思ってくださいね)


↓ここから

古いブライアーのパイプを取り出して、未開封の手紙を暖炉の上にジャックナイフで刺し止めたわたしは物思いにふける。窓の外では秋分の大風が唸りをあげて、見知らぬ人が必死に呼び鈴の紐を引いているのが聞こえる。さあ、冒険に乗り出す準備完了だ。用意はいいか?

「シャーロック・ホームズの冒険」の前書きを書く機会をいただいたことは真に名誉であるとともに大きな喜びである。ひとつには本書はわたしにとってすべてのホームズ小説の中で最高の一冊だからである。本書はアーサー・コナン・ドイルによって書かれた最初の文学作品としての成功を収めたもので、彼の驚くべき独創的な才能からあふれ出たとどまるところを知らない機知にとんだすばらしい着想のうねりの中で書かれたものである。

しかしながら本書がわたしにとってこれほど身近な存在であり続けたのにはもう一つわけがある。まさにこれがわたしが最初に読んだホームズとワトソンのコンビが事件を解決する本だったからだ。
文学における「不滅の友情」を初めてそれと意識したのがいつだったかはっきりしないが、7歳以前に教室の壁にホームズの絵がピンで留められていたのをはっきり覚えている(それには"名探偵"という題が付いていた)。バジル・ラスボーンとナイジェル・ブルースのすばらしい映画は、永遠に消えることのないイメージをすでにわたしの心に焼き付けていた。
どうしようもなくダサい子供だったわたしは小さな黄色いプラスチック製の曲がったパイプにココナツ・タバコ(*甘いお菓子)を詰め込んで(何せ1970年代のことだったのだ!)、懐具合の悪いときはこれは刈ったばかりの草になったりしたが、父の吸うエンバシーno.3の煙草の灰の長さから彼の行動を推理しようとした。だが父が泥に足を踏み入れた、そしてネイションワイド(*BBCの平日のニュース番組)を見ながら煙草に火をつけたということ以上にわかったという覚えがない。

ところがわたしはまだ原作のどの話も読んだことはなかった。ある運命的な土曜日が来るまでは。
それは、ようやく風疹が治りかかったところで、病気でがまんしたごほうびにWHスミス(*英国中心に展開する本、CDなどの大手チェーン店)で何でも好きな本を買ってもらえることになった日だった。
たくさんの欲しい本の中であれこれ迷った末に、わたしの手の真っ新の50ペンス紙幣と交換する栄誉に浴したのは、表紙がシドニー・パジェットのイラストの分厚い紫色のパン・ペーパーバックだった。それが「シャーロック・ホームズの冒険」だった。どのページをめくってもぞくぞくするようなミステリーと、ややあくの強いヴィクトリア朝時代の魅力があふれているという予感がした。わたしはたちまちぞっこん参ってしまった。
しかし本編が始まる前に前書きがあった。内容自体はあまりよく覚えていないが、その最後が感動的な情感に満ちた文で締めくくられていたことだけははっきりしている。それはこんな具合だった。「自分がまだこの話を読んでいなければどんなによかっただろうと思う、これが初めて読むのであったなら!」その夜わたしはベッドに戻ってその文に身震いした。ぼくはこれから初めて読むんだ!と。

ページをめくり、ハザリー氏の親指の恐ろしい顛末を知り(*技師の親指)、あの悪名高いアイリーン・アドラー(*ボヘミアの醜聞)や高慢ちきなジャベズ・ウィルソン(*赤毛組合)に出会った。奇妙なネズミ(A Rat)の意味に気づき(*ボスコム谷の惨劇)、イライアス・オープンショウに死を宣告する封筒の中身を知った(*オレンジの種5つ)。まだある、アイザ・ホィットニーと「金の延べ棒」(*唇のねじれた男)、クリスマスの鵞鳥に隠された秘密(*青い紅玉)、ストーク・モランにあるロイロット家(*まだらの紐)。
全編が深紅色のヴィクトリア時代のベルベットにも引けを取らない濃厚でめくるめくメロドラマで「冒険」はわたしの期待を裏切らなかった、いやそれ以上のものだった。
どの物語も核心部分には、これ以上似ても似つかぬという二人の男の間に通う暗黙の心にひびく友情があった。世間に通じ、直裁で尊敬に値するワトソンと浮世離れした冷徹で傲慢なホームズ。わたしはこのくだりを読むや、ふたりがとてつもなく好きになった。「シャーロック・ホームズにとって彼女は常に『あの女(ひと)』である。」ロマンスの香りをかぎつけ、それが失われたことをそれとなくほのめかす憂いを感じたからだ。

これらの物語からベイカー街221Bの舌なめずりしたくなるような情景の詳細を知ることができるし、決して読むことができない事件について初めての言及があるのも知ることになる。(パラドール・チェンバーの怪事件! アマチュア乞食クラブ事件!ワーバートン大佐の狂気!)(*オレンジの種5つ/技師の親指)ホームズの冷徹なくせに人を魅了する天才ぶりを改めて感じさせられるのである。

スティーヴン・モファットとふたりでこの話を現代版でやるという着想を得たとき(正確には現代版をまたやろうとしたときというべきか。ラスボーンとブルースがもうやっていたからだ——*ユニバーサル制作、1940年代に舞台を設定した。ラスボーンがホームズ、ブルースがワトソン)
豪華絢爛のヴィクトリア時代に愛着が持てずに舞台を現代にしたのではない。むしろ彼らの不滅の友情を覆い隠す霧を(文字通り)ふきとばしたいと思ったからだ。わたしたちはすっかりホームズとワトソンの二人に夢中になった、そんな気がした。
どうしてこれほど彼らに恋焦がれてしまったのかをはっきりさせるために、まず素晴らしい原典に立ち戻りたいと思った。この作業を行ったことで、このまえに書いた脚色の中で、わずかであるが原作のいくらかの部分をドラマ化して描くことができた———これはかなりうまくいったと自分で言えるのがうれしい。
たとえばバーツ病院での二人の運命的出会い、死後の痣の出方を調べるために死体を鞭打つホームズ、戦争で負傷したはずなのに妙に楽に動き回るワトソン、関心のないことには驚くほど無知なホームズ、地球が太陽の周りを回っているという事実を知らないとか! これらのことである。

わたしたちは自分たちが創造したベイカー街のやんちゃ坊主たちに対する反響に感動したり喜んだりしつつも、常に回帰すべきはドイルであることを忘れなかった。いくども問題が頭をもたげたが、いつも答えはサー・アーサーが用意してくれていた。
「花婿失踪事件」(*本来なら同一人物事件とでもいえばいいのか)を読み返していたときに珠玉の発見がたまたまあった。
作中でホームズとワトソンは一人の女性が221Bの番地表示をためらいながら見上げるのを観察している。「『こういったそぶりは前にも見たことがある』暖炉に煙草の吸い殻を投げ込んでホームズが言った。『舗道でそわそわするのは恋愛沙汰と決まっている。助言が欲しいけれどこういったことは内容が微妙なので人に話したりわかってもらえるかどうか迷っている。だが、ここからでもはっきりわかる。男にひどい目にあわされた女はためらったりしない、そういうときにはたいてい呼び鈴の紐を引きちぎる(ほどに鳴らす)ものだよ』
これ以上に純粋で素晴らしく書き得ることができるだろうか。

「冒険」をむさぼるように読んだあと、わたしは他の話も全部読みたいという愚かな願望に取り付かれて「コンプリート・シャーロック・ホームズ」(*ホームズ全集)に手を出した。
もちろんモファットが指摘したがるように、シャーロック・ホームズ全作を読んだことが子供の遊び仲間のなかで名誉の勲章になるなんて妄想するのは完全にいかれてるやつだけなのだ!
今日に至るまでわたしは時間をかけてもっとじっくり作品を味わっていないことが悔やまれる。いまでもあの古いよれよれになった本は手元にとってある。どの黄ばんだページにも愛着があり、中にあるたくさんの喜びに心をときめかす。あの最初の一連の作品「冒険」はいつでも一番のお気に入りである。

ゆえに、はるか昔のPanペーパーバックの前書きの言葉を借りるならば、"この本を読むのがこれが最初ならどんなによかっただろう。”と言いたい。
もしこれを読んでいるあなたが、まだこの作品の神聖なページをめくっておらず、阿片窟と悪魔のような継父の世界や、血塗られた高価な宝石と復讐を誓う秘密の結社などの世界にもろに頭から突っ込んでいないのなら、わたしはあなたがうらやましい。 ほんとうにうらやましく思う。あなたは今一生に一度の楽しいひとときを経験しようとしているのだから。

マーク・ゲイティス

*印は訳者による注

怖い話 ———昔猩々、今SHERLOCK

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こういうものが出てくる季節となりました。

実際真夏に飾るものってあまり無いんですね。
例年、七夕が過ぎると貝殻や浮き球を使った海仕様か器にガラス玉や睡蓮の葉を浮かべる水盤仕様あたりを交互に飾っていたんですが、何か飽きてしまって。
今年はこれ、以前に紹介した「めでたや」の"おばけ~"。

火の玉くんの横目に一目ぼれしまして値段も見ずにレジへ。幸いお手頃価格でよかったあ。

記憶に残る最初の怖い話は———小さいころ見た映画。
たぶん夏休みの東映動画と二本立てで何の心構えもなく見てしまったもの。
記憶の中では白黒で、ストーリーも何も覚えていません。
時代劇。豪華な着物を着て髪を高く結って簪がちらちら揺れる典型的お姫様が(あんみつ姫スタイルを想像して)白い巨大狒々にさらわれるお話。
毛むくじゃらの白い怪物(今にして思えば猩々だね)が深夜お屋敷の中庭に現れてそれを取り囲む捕り手、縄を投げたり刺又で取り押さえようとするのだけれど白猩々の怪力の前には無力、次々に跳ね飛ばされて、哀れ姫君は猩々に掻っ攫われて屋根の上に…。
詳細は違っているかもしれないけれど、とにかく猩々の顔の恐ろしかったこと、この世ならぬ怪物の姿が恐ろしく画面を見ていられなかった。
私のあまりの怖がりように一緒に行った母が「こわかったら外へ出ようか?」と言ったのをよく覚えています。
映像で見た恐ろしい姿はその後ずっとトラウマチックに何度も暗闇に現れてきました。

文字で読んで恐ろしかったのは創刊間もない週刊マーガレットに載っていた「本当にあった怖い話」的な読み物。
今にして思えばポーの「黒猫」あたりがネタなのでしょうが、外国の(ここがミソ、いかにもありそうという先入観を与えるのです)古い建物で、そこに住むことになった少女が(ここで自分と同年代で感情移入を誘う)月光に照らされた壁に見知らぬ少女の姿が浮かぶのを目撃するといったお話。殺されて壁に塗り込められていたといいます。
ご丁寧にも直視しても見えず鏡にだけ映ると。
月光、鏡、直には見えない、死んでいる少女———こ、これは怖いっ。
おかげでしばらくは白壁を見られなかったし、とにかく明かりをつけて回ってました。

怖さには視覚的なものと想像が関与するものがあるようです。精神活動が単純な年少の時には特に視覚的に怖いものが印象に強く残りやすい。
大人の感覚で陳腐なありふれたお化け屋敷風の映像でも子供心には大きなダメージを与えるかも。
となるとそういうものを子供に見せないように周囲の大人が気を配らないといけないんでしょうね。
自分が平気だからといって子供にホラー映画を一緒に見せるような鈍感大人であってはいけない———これ、自分の事です。今更ながらに深く反省。

想像力が働いて怖いものがさらに怖くなるのは年齢的にもう一段階上のことになるのでしょう。
こちらはもう自己責任というか、怖がりながらもどこか楽しんでいるところがあります。お化け屋敷に入ったり、ホラー映画を見に行ったりする一種の自虐的M的行為かと。

現実的に怖い話はいっぱいありすぎます。家にいても地震、竜巻、外へ出れば暴走車に出合い頭の無差別殺人、ものを食べれば添加物に残留農薬、薬害もあれば熱中症、年金はあてにならないし…つまり怖い話に囲まれて生活しているようなものです、こうなると怖い話が当たり前になってしまいますね。

現実のつまらない怖い話はさておいて、最近での一番怖い話は"SHERLOCK2"の第3話、ライヘンバッハ・フォール。

onionさんのブログコメントにもあったように、初めて見たときには一週間もあのシーンが目に焼き付いて、何度も頭をよぎった、まさにそうでした。
でも、私の場合は例のシーンのちょいと前、あのモリアーティの凄惨シーン!

脈絡なしに浮かんだ言葉が「肉を切らせて骨を断つ」、それに「帝都物語」の目方恵子が加藤との対決のために行った覚悟の行為…

偏執的と言ってしまえばそれまでだけど、好敵手、いや一生に一度巡り合うかどうかという自分に匹敵するライバルを滅ぼすために、最後の障害となるのが自分ならばその道を断つという、その判断の確かさ、そして判断に基づいて論理的に導かれる解決策を一瞬にしてためらいなく遂行する強い意志、実行力。まさにスポック的。
しかし決定的にスポックと違うところは、この冷静な判断の下には暗い鬱勃とした情熱があること。触れるものを焼き尽くすような暗く熱いパトス。

試しにモリアーティの感情を追ってみましょう。
自らが認めた生涯のライバルを完璧に打ちのめせると確信した歓喜と陶酔。しかし裏返しにすれば征服・被征服の関係は次の一手でまったく逆転する可能性があるとの認識があるので、極めて危ういがゆえにさらに甘美な勝利の陶酔です。
勝利を確信している優越感ゆえに敗者が消えゆくことを惜しみ、好敵手が消えた後の世界は退屈極まると嘆く。
互いに他の存在が自分を輝かせることを知っている。だから二者は一体。表と裏。まさに愛の告白!

しかし両立はあり得ない。ゆえにシャーロックを滅ぼす計画の唯一のほころび、脆弱点が自分だと悟った時、迷わず自分の消滅を図った。ここまで自分を追い込んだ相手に心からの謝辞を残して。ふう。
あの"Thank you"には戦慄を覚えましたね。ここまで熱く自らの熱望に従える無垢さをもったvillain(悪党)の造形に拍手。

はい、はい、ストーリー的には無理があるのは十分承知の上で原作も加味してああいう風に持って行った脚本のすごさに感心しているのです。あの衝撃的、予想だにしなかった展開に、その次の衝撃シーンもかすんでしまったというか(これは主人公の第一法則がありますからね)。

ちなみにあの世紀のでっち上げシーンの真相には諸説ありますね。どれも一理あり、また無理ありなのですが、脚本のモファットさんはすべておぜん立てはしてある、手掛かりはすべてあきらかにしてあるのに誰もが見つけそこなっている。いろいろ説を立てているけれどみんな見逃している。われわれは(制作側)どうやってシャーロックが生き延びたのかちゃんと合理的に考えてあるし、実際に何が起きたか、その一部はもう撮影してある、ってなことをインタビューに答えています。
引用した原文はこちら
Steven Moffat, who wrote the series with Mark Gatiss and Steve Thompson, has said all the clues pointing to how Sherlock survived were in the episode. ‘It’s all set up,’ he said. In an interview yesterday, he teased fans further by saying: ‘There is a clue everybody’s missed. So many people theorising about Sherlock’s death online – and they missed it! ‘We’ve worked out how Sherlock survives and actually shot part of what really happened. It all makes sense.’


クリフハンガーはさておき、あれはあれでまさに近頃まれな怖い話でありました。しかもそれを自分が結構肯んじているということがまた怖かったりして。

東京グルメ

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猛暑の中、月初めに東京へ行ってきました。
娘の会社の家族参加イベントに出る、これが口実です。
ホテルのロケーションは抜群。東京駅丸の内、八重洲どちらへも近接。特に丸善の入っているOAZOが眼下にあるのがうれしかった。

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OAZO側から臨むホテル。新橋口出たとこにあります。

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マリアージュ・フレール銀座でティー。
"ミセス・ハドソンのアフタヌーンティー"企画期間には間に合わなかったものの、おすすめの季節限定ミントティー、カサブランカが気に入りました。口をつける前にふっとミントのひそやかな香りがして、口に含むとミントは存在を主張しないという絶妙の塩梅。
ケーキはフルーツ・ババロアとブリュレ。見た目が美しくお味ももちろん。
一階でアイスティーの淹れ方をしっかり習ってきました。フレンチティーとイングリッシュティーの淹れ方が微妙に違うことを初めて知った、ちょっと驚き。

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ディナーはミクニマルノウチ、翌日見に行ったエドワード・バーン=ジョーンズ展をやっている三菱一号館のあるブリックスクエアの一角にに位置しています。
冷製スープ、甘美、けれど飲みにくい器。下に残った分が残念。狐さんでも舐められない?
前菜、魚、肉といずれも適量、抑えた味わいのある逸品で楽しみましたが、喜びすぎて写真を撮るのを失念。

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ようやくわれに返って写したました。しかしすでにデザートになっていました。これはパッションフルーツのスフレとアイスクリーム。
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最後のコーヒーにまたまたチョコレートが添えられてきて大感激。
シャンパンも飲みやすくてあっという間にグラスが空に。
おいしいもの食べているときが一番シアワセというところで意見一致を見ました。

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翌日、オアゾの一階のドゥバイヨルでアイスチョコレート。一口飲んでから、あっと撮影。グラスの汚れはどうぞご容赦のほど。とろーり、甘美、うっとり。カロリーのほどはこの際考えない。

東京へ行くといつも思うのだけれど、ここはグルメとショッピングの街だなあと。
先立つものがあればこの上なく楽しく心躍るところ。
懐がさびしければ肥大する欲求を満足させられずストレスが積もるところ。
もちろん前者でありたいものですが。
今回はおいしいものをいただいて、大好きな絵を堪能して、気に入ったものも少しずつ買い込むことができた、東京はまだわたしににっこりした顔を見せてくれたようです。