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悩めるポワロ

Poirot_oex_2満を持してのオリエント急行殺人事件のTVドラマ化である。主演デヴィッド・スーシェ。
あまりにも有名なA・フィニー/ポワロの映画のイメージを払拭する出色の出来、しかし実に考えさせられるドラマだった。

見所はwhodunitの謎解きの面白さももちろんであるが、それにもまして前面に現れたポワロの深い苦悩である。それは理性と感情の葛藤、文化との大義の矛盾、宗教と現実の相克であり、わたしたち個々に対しても普遍的な疑問を投げかけている。

ポワロはかつては警察組織の一員として法の番人であり、引退した現在も、犯した罪は理由の如何によらず犯したという厳然たる事実により、身を持って贖わなければならないという懲罰に対する感覚を持っている。
それを端的に表した短いエピソードが最初に描かれる。その場面でポワロは罪は罪とのスタンスを貫き、その結果犯人が命を自ら絶つのだが、そのことが彼に迷いを与えはしないし、彼に後悔を迫ることもない。彼の信念は揺るがない。
ちなみにこれは原作ではポワロがフランス陸軍内の事件を解決した手際の良さと、何故に彼がシリアにいるのかという合理的説明のために添えられている挿話に過ぎないのだが。

その後、いよいよわたしたちがよく知っているオリエント急行殺人事件の幕が上がる。
しかし、ここにまた周到に原作にはないもう一つのエピソードがさり気なく加えられている。
主要登場人物であるミス・デベナムとアーバスノット大佐の初出の場面。現地の女性が姦通罪で衆人に石を投げられて懲罰を受ける、それを目撃してショックを受けるデベナムにポワロが語る。あれは私怨を晴らすリンチではない、現地の不文法であり、彼らは正義を行なっているのだ。残虐に見えるからといってわれわれに批判はできない、文化の違いなのだと諭すのである。
後に自らの言葉に対峙しなければならなくなるのは全くの皮肉である。実に練られた脚本であるといえよう。

物語は原作に忠実に進む。様々な国籍の老若男女を乗せた国際社会の縮図のオリエント急行列車内で大金を持った粗野で素行の怪しいアメリカ人男性が殺害される。しかも大雪のために列車は立ち往生して密室状態になる。捜査依頼を受けたポワロは被害者が何年か前にアメリカで起きた幼児誘拐殺人事件の犯人であることを知る。しかもこの男は逮捕されながら金とコネを使って訴追を逃れて行方をくらましていたのである。列車に乗り合わせた一見無関係の人々から聞き込み調査を行ううちにポワロは驚愕の真相をつかむ。それはwhodunitよりもwhydunitに着目した結果だった。

クリスティは作品にいくつか推理小説の禁じ手を使っている。「アクロイド殺人事件」それにこの「オリエント急行殺人事件」がそのひとつである。詳しいことを書くのは興を削ぐのでやめておこう。とはいえ、もう周知の事ではあるのだけれど。

終盤にポワロは殺人の実行者、つまり殺人犯をユーゴスラビア当局に(列車が立ち往生したのがユーゴスラビア領内なので)引き渡そうとする。法に従った当然の処置である。しかし彼にはもうひとつの選択肢が提示される。架空のマフィアが殺人を犯し逃亡したという第二の「真相」で、証拠物件まである。法を遵守するポワロはその第二の解決を一言のもとに退ける。

犯人はポワロにこう訴える。法のもとに正義が行われない時はどうしたらいいのか。神の裁きを祈るだけなのか。自分は冷酷な殺人者のせいで命を失った5人のために現世では期待できない正義を行ったのだ、と。
ポワロは激しく反駁する。罪を贖わせるためにこそ法があるのだ、個人が正義を盾に報復で人を殺せばそれは取りも直さず「殺人」なのである。殺人に正義も不正義もない。複数人で行えばリンチである。正義の名における殺人を正当化することはできない、と。

しかしポワロのルサンチマンは犯人の主張に共鳴している。法は人が安全に生きていくために人が作ったものである。しかるに、その法が人を守れない時、否、むしろ人を害する時にそれを遵守する価値があるのか。法と言えど、あくまで自分たちの社会のルールであり、それが普遍的な正義である保証はない。文化が違えば集団殺人が正義となる社会も存在する――冒頭のシリアでの出来事を自らの口で語ったではないか。
彼が拠り所としている法の原点である戒律「汝殺す勿れ」にしても、その戒律を破った者には相応の罰が下される。つまりは報復法なのである。
よって罪を犯しながら罰を逃れていることは許されないのである。法によって罰が下されるのが理想的であるが、現実はその限りでない。ポワロの情は犯人に傾く。彼を押しとどめるのは個人が罰の執行者にはなってはいけないという「局地的な文化に根ざした法」への遵法意識だけである。彼はもう「絶対的正義」が存在しないことを知ってしまったのだ。

もう一つポワロに突きつけられた疑問は、人が神の代理人になってはいけないのかということである。
ここに至るためにドラマでは早くに敬虔な宗教人としてのポワロを描いている。今までのシリーズには珍しくポワロがロザリオを持ち、聖母の祈りを唱えるシーンがある。違和感を持ったが、ポワロの内的な苦悩を浮き彫りにするための布石であった。しかも祈るポワロの姿と交互に誘拐殺人犯が隣室で祈る姿が描かれる。人はおのれのためにおのれの神に祈る、われわれの外に神が在るのでない、神はわれわれの中に在るのだと言わんばかりに。

ポワロとて宗教は(所詮)おのれを律するための心の拠り所であることは理解しているだろうし、現実にはどうしても神の意思とは思えないような不条理があることも経験しているはずである。
正義が行われない事実の解決を神に肩代わりさせてしまうことを潔しとはしないであろう。むしろ彼はそのような理不尽に対しては憤りを感じる人である。

よって法に代わって、そして神に代わって、正義のために殺人を犯した人を一律に「殺人犯」として告発していいのだろうか、という疑問が彼の心に芽生える。
翻ってもしそれを許すならば、今度はポワロ自身が殺人を見逃すということで法を破り、しかも殺人を肯定するということで戒律を破ることになる。更に百歩譲って正義の処罰を認めたとしても、犯人は殺人を犯した罪を贖う責任がある。


最後までポワロは遵法者であろうとする。しかし、寒さと苦悩で憔悴の表情の彼が現地警察に行った報告は第二の「真実」であった。
ポワロによる告発を覚悟して列車の外に出ていた犯人は驚きのうちに安堵する。しかし、ポワロに心の平安はなかった。
彼は列車から遠ざかるように歩き続ける。殺人を見逃したことで彼もまた犯罪者であり、殺人を肯定したことで彼もまた戒律に背いた背教者となったのである。彼の心には「犯罪者!」「背教者!」というおのれを糾弾する言葉が鳴り響いていたことであろう。

ポワロはおのれの心の信じるところに従ってこの決定を下した。彼を動かしたのは法でも宗教でもなく血の通った人間に対する情であった。しかし、なお善良な宗教者であり法の守り手であるポワロは自分を許すことができないでいる。大願成就に安堵する人々の間に戻っていくことはできない。
ポワロの内面で、今までゆるぎなかった法と宗教に対する信念が打ち砕かれようとしている。彼を支えて来た価値体系が瓦解しようとしている。
様々な感情がないまぜになった中でポケットから取り出したロザリオに許しを請う口づけをすることもせず、かと言ってロザリオを投げ捨てもせず、ポワロは泣きながらなおも列車から遠ざかるのであった。

原作ではポワロは結論を出していない。込み入った動機と詳細に練られた計画で行われた前代未聞の殺人事件の真相という第一の解決と、マフィアの犯人逃亡という第二の解決を提示して、選択はオリエント急行の重役に委ねて自分は退いている。1974年の映画でも同様に事件の解決と現実にどう対処するかは切り離して自分は任を降りている。その結果、オリエント急行の中でシャンパンで乾杯、これで手打ちということになる。この結末を見た時に面白いけれどこんな脳天気でいいのかという疑問で、あっけらかんとした明るい結末に違和感を抱いたものだった。

このドラマはおそらく映画では欠如していたポワロなら当然悩んだであろう葛藤に焦点を絞った秀逸な作品である。ポワロ物の中でも一、二を争う秀作になることと思う。


Comments

……なんかわたし、もう書くことなくなっちゃったなあw
というか、放送を見てもやもやしていたものがとても整理されて文章になっていて、ありがたいです。
見たけど、どう文章にするか戸惑っていたので。

本当に、今回のポワロさんは苦悩の人でしたね。
このあとの「カーテン」の終幕に向けての布石かもしれませんが、スーシェさんの老け具合と熊倉さんの声で、増幅されるものがあります。

これまでの映像ではポワロが宗教に頼る場面はほとんどなかったですよね?
今回、前夜の「ハロウィーン・パーティ」でも教会に通ってたし、かなり宗教的な立ち位置で、割とドライな印象だったポワロが、ちょっと変わったなあと思いました。

>onionさん

見た時から胸につかえるものがあって、これは何かまとめて吐き出しておかなきゃ心が鬱々として晴れない、そんな気持ちで一気書きしました。
くどいところが多々あり、もっと推敲が必要ですね。
onionさんのレビューも見たいですよー

長編でドラマ化されてないのがあと4編とか(NHKの資料による)
カーテンももちろん。早く見たいような、それで終わりと思うとまだまだ見たくないような。
ああ、こちらも永遠のジレンマであります。

オリエント急行殺人事件。
もう20年以上前に、テレビで放映された映画をみたことがあります。
NHKだったかな・・・
そのシリーズでナイル殺人事件もみました。
今のような、斬新なカメラワークもなく、
淡々とストーリーが展開していく中でも、「誰が犯人なのだろう???」と
思いを廻らせながらラストで犯人がわかるまでの楽しみは
推理映画の醍醐味ですよね。
ストーリーに加えて、オリエント急行という電車の存在や風景が
当時の私にはとても新鮮に感じられたこと・・・
懐かしく思い出します。

>しゅんけんままさん

フィニーのオリエント急行ですね。何のかんの言っても名作ですね。
ショーン・コネリーやグレタ・ガルボなんていう超有名どころの俳優さんがたくさん出ていて宝箱みたいな映画でした。

ナイル殺人事件もよかったですね。舞台になったピンクのホテル、実物をナイル河から眺めました。その時は改装中ということでした。

同じ原作でも映画化の手法によってここまで異なる作品になるのかと驚く一方、新しい切り口に関心することも多々あります。
それが原作ものの脚色の面白さなんでしょうね。まだまだ知らないことはいっぱいです。

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