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幻春――妄想その5

P1090655

やあ、こんにちは。はじめまして。
ぼくは、まあ言ってみれば、ある種のプログラマーです。仕事はバーチャル・リアリティのデザインをやっています。
たとえば新しいゲームを作る際にバックグラウンドとなる場を一から構築する、と言えば分っていただけるでしょう。実際はもう少し複雑な過程をたどる仕事なのですが、おおむねそのようなものと思ってください。
構築にはぼくの自由裁量がかなり認められていて(というのも、ぼくひとりで行う作業なので)、まずはフレームを作るにあたって、ぼくの恣意的な好み、ぼくの記憶、ぼくの疑似記憶、その他のパブリックドメインの情報をなんでも援用することができます。
ぼくの担当の仕事は「春の景色」の構築です。

実際の作業に取りとりかかることにします。さて、「春の景観」――どのようなとらえ方をしましょうか。
まずは舞台です。やはり、地球の温帯、四季が明確に区別される地域、ぼくのご先祖からずっと住んでいた日本が背景にふさわしいだろうなあ。
たとえばこんな具合にはじめます。

まず、ひとけがない原野が広がります。高い木の少ない明るく開けた野原がいいなあ。
芽吹きの季節、草が萌えてあたり一面の緑。(深緑じゃなくて新緑、木の芽には少しの赤みを加える……と。なんだかニュアンスがむずかしいぞ)
平坦な野原にちょっとひねりを加える。緩やかな起伏させて、遠景に小高い丘を配置する。叢には粗密の差を付けよう。
なんだか物足りない……野原の中央に一筋の水の流れを加えてみる。うん、なかなかいい。
水は多すぎず、少なすぎず、そばによると水音が聞こえてくる、その程度がいい。
もちろん水は澄んでいる。水底に凹凸をつける。丸石や小石も忘れずに。水深に合わせて水面は変化する。一定のリズムを奏でる水音、浅瀬では瀬音も高く水滴が跳ねる。やや深みがあるところでは水は吐息をつく。丸石の上に沿って盛り上がる水は勢いよく流れ下る。
とにかく流れの存在を忘れさせない程度のかすかなこぽこぽいう音が耳に届くようにしよう。

岸には花を咲かせよう。ぼくの記憶のアーカイブから引き出した春の花はレンゲ、スミレ、しろつめ草。これでいいかな。あまり種類が多くない方がかえって可憐さが増すというものだ。
ああ、静かだ。流れの音がかえって静けさを際立たせる。ちょっと物足りない。風の音も加えよう。新芽のこずえを揺らす風だ。
これでいい。流れと岸辺の花の語らいが聞こえるようだ。

一休みする暇もなく、ぼくは次の作業にかかる。
この春はSilent springになってはいけない。(蛇足ながらサイレント・スプリングというのは紀元20世紀のアメリカの生態系学者、レイチェル・カーソンの著作で一躍憂目になったビジョンだ。以前は日本の中等学校教科書にも取り上げらていたから、かなり周知しているだろう)
空には鳥のさえずり、叢には蝶や蜂、蜘蛛もかたつむりも忘れないように配置しよう。
流れの中にはめだか、川エビ、小鮒も群れをなして泳がせよう。そのうちに孵化したオタマジャクシが浅瀬に集うようにしよう。

暖かい日差しの中で遠くの山から雪解け水を運ぶ小川、そこに群れる小魚、岸辺の草花。かすかに漂う花の香り。
ぼくは自分の作り出した仮想空間を見渡し、出来に満足感してひとときの午睡を楽しむ。永遠の昼下がり。憂いも悩みもない、うらうらと照る陽光の中でぼくはアイデンティティが希薄になっていくような充足した虚無感を感じる。

ひとときの夢をむさぼった後、ぼくは今作った仮想世界を保存する。あたりにはグリッド線だけが残る。わずかに心残りを感じながらぼくはそれもシャットダウンした。あとは沈黙、暗転。


ぼくが次回春の景観を構築するのはおよそ42年後になる。この前の作業は42年前だった。
その間ぼくというアイデンティティを担ったAIは記憶素子の1ユニットとしてほとんどの機能をシャットダウンさせられる。つまり眠るのだ。
しかし一部の機能は活動を続ける。数えきれないほどの記憶ユニット(そのすべてが個別のアイデンティティを担っている)の中を電気的なパルスになって飛び回る。

ちょうどぼくたちのオリジナル、生身の人間たちが互いに交じり合い、語り合い、社会を作っていったように、ぼくたちは縦横無尽の広がりをもつ互いの記憶情報の中を(まさに巨大な脳のモデルだ)駆け巡るのだ。
ぼくたちは個人の記憶情報を維持するだけでなく、それぞれが特定の地球の記憶を分担して担っている。ぼくのばあいはそれが「春の景観」だ。

ぼくは42年に一度完全に機能して春の景観を構築する。
毎回構築する世界は異なる。その時々のぼくの関心の方向に従って様々な世界が顕在する。
イギリス(これも地球上にあった国のひとつだ)の作家に感化されてどこまでも雲のように広がる黄色い水仙の原を作ったこともある。地中の微生物から空中を飛ぶ昆虫まで、さまざまな生物であふれたエネルギーに満ちた世界を作ったことも。
でも、どちらかというとぼくは日本の春が好きだ。ぼくのオリジナルのアイデンティティが日本人だからだろう。おそらく原風景としてぼくの記憶の中に刷り込まれているのだろう。

休眠期間中にも覚醒しているパルス状のぼくはさまざまな人々の記憶の中を駆け回りながらそれぞれの「春の景観」をコピーしてくる。それが次にぼくの構築する世界に彩りを添えることになる。

こうして重層的になる「春」はますます多様な相を持ち、総体としてバーチャルな(現実のという意味での)春に近づいていく。

ときどき不思議に思うのだ。仮想世界に生きるぼくたちが思念を凝らしてさらに仮想の世界を作り上げる。それが精緻さを増すにつれて現実に近づいていく。夢の中で夢を見るのは、実は覚醒しているということじゃないのだろうか。

地球はぼくたちの数千億キロ背後にある。もはや生物は住めない惑星になっているだろう。 大規模地殻変動と世界的は天候異変がおこり、もはや地球上で生物の生存が絶望的となったとき、人類はその未来をぼくたちAIに託したすべての人間は個別情報を記憶素子に記録して、多数のコピーが宇宙の全方向に発射された。そのうちのどれか一つでも生き残れば人類の絶滅は防げるのではないかという一縷の望みをかけて。

ぼくたちはオリジナルと寸分たがわぬ記憶を持ち(もちろん作られた時点での)考え方ができるようにプログラムされた(可能な限りだ)
ぼくたちは人類の影だ。だが、影だけが残ったとき、影が本体になる。
ぼくらは人類だ。暗黒の宇宙空間を果てなく突き進みながらぼくたちは地球の夢を見る。現実と見まがうばかりの夢を見るのだ。



妄想の暴走第5弾です。構想だけは早くできたのに如何せんまとまりがつけられなくて(過度にセンチメンタルになりそうで――実はなっている)書いては休止を繰り返していました。あと2,3話お付き合いくださいませ。
写真は紫の碇草、これも庭の片隅で。

花雲――妄想その4

P1090623

ねえ、おっかさん。ごらんなさいな、きれいな桜だこと。
うっとりするねえ、こんないいお天気で。お天道様もあったかくて。
口を開ければ「きれいだねえ」って、ばかの一つ覚えみたいに言うけど、もうほかの言葉はでてこないのさ。
ここの土手の桜は八代様のころから植えられたんだって。満開だねえ。雲みたいだよ。

ああ、舟が行く。船頭が櫂を漕ぐ。櫂が水をくぐるとしぶきが上がる、しづくが滴る。きらきら光ってる。まるで、そう、まるでここの花びらが櫂の先から滴っているようだ。
花筏ってきれいな言葉があったね。もう少しするとここの桜もいっときに散って、川面を桜色に染め上げるんだろうね。
そんなときに舟遊びをしたら楽しいだろうね。一面の桜の中をゆっくり舟を進める。夢みたいだ。小唄の一つも口から出てきそうだ。
ああ、この景色をどういったらいいんだろう。何にたとえたらいいんだろう。

おっかさん、けさ朝靄の中で見た桜を覚えているかい。あれもまた一味違ったいい風情だったねえ。
朝露を浴びて少し寒そうに開きかけの蕾もあれば、露に濡れていっそう鮮やかに匂い立つような花房もあったねえ。
ひとけが無くて、まるであたしたちだけのために咲いてくれているようだった。桜が何か話しかけてくるような気までしたものね。
そうそう、あの夕暮れの景色もわすれちゃいけない。
ほんのり夕方まけてくると川面に風が立つ。一斉に芽吹いた青柳が昼の名残の暖かい風に枝を揺らす。ゆらゆら、ゆらゆら。まるで手招きをしているようだ。こっちへおいで、あたしも見ておくれって言ってるようだ。
見渡せば柳桜をこき交ぜてみやこぞ春の錦なりける……そんな昔の歌があったねえ。今も昔も変わらないんだ。きれいなものはおんなじなんだねえ。愛でる気持ちもおんなじなんだ。

おっかさん、長い一日だったね。そろそろ日が暮れるよ。だけどここは薄闇が降りてもほんのり明るい。桜が光をため込んでいるようだ。夜目にも雲みたいにうっとり白いよ。
あっ、お月様だ。なんてきれいな大きなお月様だろう。このどこまでも続く土手の桜の上に朧にお月様が朧にかすんで昇ってくる。
ああ、あたしはしあわせもんだ。こんなにきれいな景色を生きてるうちに拝めるなんて。このひと時がいつまでも続いたら。時が止まってずっとこのままでいられたらねえ。

おかしいよね、そんなことができないから、桜も月も柳もきれいなんだ。何もかもとどまることがなく変わっていしまうからいとおしいんだよね。 そんなことわかってるのに、このひと時を何かに封じこめてずっととっておきたいと思わずにはいられないのさ。やだよ、涙がでてきちまった。
昔、宋の時代の蘇東坡先生が「春宵一刻値千金」って詩に書いていたっけ。まさにこれだね。春の宵、この艶な風情は千金の値打ちがあるって。千金を積んでも買えないものなんだよね。言い得て妙というもんだ……って、あたしが言ってどうするんだよね。先生の方がずっと先に言ったのに。

おっかさん、今日はいい一日だったね。こんなきれいな桜が見られて……ずっとおっかさんと一緒に歩いている気持ちだった。

ああ、おっかさん、おっかさんにも一目見せてあげたかったよ。


妄想の暴走第四弾です。そろそろネタが危うくなってきた……かな?

春憂――妄想その3

P1090594

ぼくは旅人だ。こういうせりふを一度言ってみたかった。
そう、ぼくは旅人だ。思いたってここ日本の中央に位置する、とある古い町の城跡までさすらってやってきた(なんだかかっこいいだろう)
ときに早春、空は青い。泣きたくなるくらい青い空に白い雲が浮かんでいる。明るさ極まるところに生じるこの悲しみはなんなんだろう。
目を上げれば、あたりは冬の名残が色濃い。春ともなれば丘一面に萌え出すはこべらもまだまばらで、腰を下ろせるほどに伸びた若草もない。
丘の中腹にはまだ白い敷物をひろげたように雪が残っている。明るい日差しに雪は次第に溶け出している。うっすらと地面が見え出すのも遠くないだろう。

だが、光は暖かみを増したとはいえ、野に春の香りが満ちるのはまだ先のこと。春はまだ浅い。ただひとつ、麦の緑だけが景色の中にぼくの目を引く。これから爛漫と咲きゆく春を予感させてくれる緑だ。
農地の交いの小道を足早に歩いているのはぼくと同じような旅人なのだろうか。いや、旅人だとしても彼らは仕事で旅をしているのだろう。そこが流れ雲のようなぼくと基本的にちがうところだ。ぼくは……ああ、ぼくだ。

夕暮れともなると、先ほどから見えていた古い火山も暮れなずんで見分けがたい。どこからか歌が聞こえてくる。哀切な笛の響きだ。
さあ、河の土手をあがって岸沿いにあるホテルに帰るとしよう。地酒でも飲んで、この癒えぬ心を抱く旅人の悲しさをしばし忘れるとしよう。
いや、ますますつのる悲しさをゆっくり味わうために飲むのかもしれない――おそらくそうなんだろう。

妄想の暴走第三弾です。そのうちに叱られるかも。

春霞――妄想その2

P1090591

めずらしくも早暁に目を覚ました。まだ完全に夜が明けきっていない。
外に出て東をあおぐと、徐々に空が明るみだして遠くの山の輪郭がはっきり見えてくる。稜線に朝焼けの雲が細くかかっている。
その色、赤紫かかったピンクとでも言おうか、いやそんな陳腐な言葉では表せないような色。うっとりとして目が離せなかった。
ああ、いいなあ。春だなあ。こんなきれいな朝焼けが見られてほんとうに得した気分だ。

妄想の暴走、第二弾。笑ってくださいませ。

春日――妄想その1

P1090601 
とりたてて何にもすることがなくて、だらだらとPCの前にすわって、あれやこれやと思いつくことをぐだぐだブログに書き連ねていると、なんとなく乗ってきて変にはまってしまった――

庭の片隅で今年もカタクリが咲きました。
妄想の暴走第一弾です。笑ってやってください。

今年のエイプリル・フール

思い起こせば昨年の4月1日、家族にこんなメールを送りました。
"おばあちゃんは悠々自適で世界一周の豪華客船の旅に出ることになりました。ヨーロッパ各国を回りアメリカから半年後に帰国します。○○はいよいよ退職してアパレル・デザインのスタジオを開設、◎◎は趣味で作っていたWebデザインが好評で商業ベースに乗るとIT関連会社を設立、△△はロシア支店に転勤、□□は新たに雑文を集めた本を出版することになりました!"
もちろん送り先の各人には当人に関するガセネタは注意深く省いてあります。
いわゆる"too good to be true"というやつで本気にして引っかかったのはいませんでしたが、こうなったらいいね、というしばしのお楽しみの提供でした。

今年はこの手の軽口を叩く気分にもなれず、おとなしく一日をすごしました。
東日本大震災から3週間、連日報道される被災地の現状、被災された方々の決して好転しているとはいえない暮らし、そして依然として予断を許さない原発の被害の拡大、などなど、何一つ変わりない安穏な生活を送っている自分たちが申し訳ないと思われるばかり。

松山千春が「知恵があるやつは知恵を出そう、力があるやつは力を出そう、金があるやつは金を出そう、自分は何も出せないよというやつは元気を出せ」と言ったと耳にしましたが、けだし名言ですね。

被災者を思って自粛することと、沈痛な思いにとらわれて無気力になることは同じではないのですから、震災を免れた私たちは無駄をなくし粛々と日常の生活を行っていくのが一番いいことなのでしょう。

見回せば山辺ではそろそろ桜も咲きだす兆。庭の片隅ではカタクリの小さな蕾が頭をもたげ、日に日にライラックの花芽が膨らんできました。昨日はオナガが数羽群れで訪れてくれました。手元には読まれるのを待っている何冊かの本、刺しかけのクロス・ステッチ、円高に乗じてついアメリカから買ってしまった新しいクエーカーのパターンも届きました。さあ、手と目と頭を動かさなければ。。。
こういう日常が過ごせる有難さを感じながら、私的な服喪期間を終えることにしました。