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いくたびも雪の深さを尋ねけり

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"いくたびも雪の深さを尋ねけり"
正岡子規「病中雪四句」の中の一句です。子規と言えば、司馬遼太郎「坂の上の雲」が長期ドラマ化されて、三人の主要人物のひとりである正岡子規が再び注目されるようになってきました。
とはいえ今日子規の句を採り上げたのは子規ブームに乗ってのことではありません。前回のブログ記事で書いた雪中苦行のさなかにふいと上記の子規の句を思い出したからです。

さてこの句は、子規が病に伏せる中、東京には珍しい大雪が降った。雪に心は逸るものの、障子の向こう、庭に積もっている雪を自分では立って覗きに行けない、そのもどかしさが家人に幾度も雪はどのくらい積もったと尋ねさせることになった、という大意だと思われます。

この句を知ったのは小学生の時分です。わかりやすい名句の一つとして何かで読み囓りしたのでしょう。教科書で習ったのならこの句にこれからお話する「とんだ」解釈をくわえることも無かったでしょうから。

小学生の頃は、今よりもずっと雪がよく降ったように思います。
下校の際に長靴を半ば埋もれさせてわずかに人の踏み分けた道をたどりつつ、朝の登校時よりも更に雪の嵩が増えていることに気がついて、朝からいったいどのくらい降ったんだろうなどと思ったものです。
そういう体験が元になってわたしの脳内では子規の句のイメージがとんだフェーズに転換されました。

たとえばこんなふうです。小さな村から野原を越えて山辺の方に一本延びる、やっと人ひとりが通れるだけの踏み分け道があります。道をたどる人が、なんとたくさん雪が降ったものだと思いつつ、たまさかに前から来る人がいるとすれ違う時に「えらく降ったもんだの、いったいどのくらい積もったかのう」と挨拶代わりに雪の深さを尋ねているそういう情景を描いていたのです。

考えてみれば、実際に目前の積雪があるのですから人に「尋ね」なくても雪の深さはわかりそうなものですが、如何せん小学生の感性と知識では見えぬ雪の深さを尋ねる病床の俳人という屈折したイメージは思いつかないものでした。
結果、実に自然に単純に、道行く人が雪の多さに辟易しながら互いに言ってもせんないと知りつつも、「寒いのう、雪はどんだけ降ったかのう」と言葉を交わして、また遠ざかっていく、これはいかにもありそうなことと思いこんだのです。

おそらく一昔前の雪国の雪道を経験した人ならこういった発想が生まれるのを理解してもらえるのではないでしょうか。
実際、数日前の大雪のとき外へ出て除雪をするたびに、同じく戸外にいる近所の方と、幾度と無く「ひどく降りましたね、いったいどれぐらい降ったんでしょうね、いつまで降るんでしょうね」などという実質的に役にも立たない会話を交わしたところです。
自然現象はいかんともしがたく、その脅威の前に人は無力であり艱難を甘受しなければならない──それは誰もがよくわかっていることです。しかしそうはいっても愚痴の一つも漏らしたくなります。愚痴をこぼし、また聞くことで、みんなが運命共同体であることを確認し、辛いのはあんただけじゃないよ、わたしも同じだよ、だからいっしょに頑張ろうねという無言のうちに了解しあっているのでしょう。苦難を共有することで自然に連帯感を持ち、それを慰めにして力に換える──無意識のうちに無力なもの同士が自衛する心理的システムと見るのはこじつけに過ぎるかな?

こう考えると道行く人に(見ればわかる)雪の深さを尋ねるというのも、(句の出自とはまったく違うものの)あながち単なるこっけいな思い違いとして捨ててしまうには惜しい解釈かもしれない、南国生まれの子規先生には申し訳ないけれど、まあ赦してもらえるかなと、今夜はひとりで悦に入って頷いておりました。

付記1.  「深さ」という言葉にも落とし穴があったのかもしれない。
雪の深さといえば、最低でも5、60cmはあるというのが常識の雪国感覚。子規は四国は松山生まれ、東京にしても雪が降るのは珍しいのだから大仰に「深さ」といったのかも知れない。
深さといえば、立っているレベルをゼロとしてそこからマイナスの距離。高さといえばレベルゼロからプラスの距離ということになる。雪の深さと聞くとわたしならずぼっと足が埋もれてしまう以上の深さであり、雪の高さといえば屋根の上の雪とか立山などで雪を切って道路を開通させたとき両側にできる雪の壁のイメージをもつ。

付記2. 困っているとき、人は他人も同じ境遇であることに慰めを見いだすのかもしれない。
マイナス方向への共感、それで自分の不幸が軽減されるわけではないけれども、一種の諦めを感じるのだろう。「あの人んとこも大変なんやでうちも仕方ないのお」というわけである。
悲しいかなプラス方向の共感はあまり実感できない。むしろ自分のうちに慶事があってもよそに同様な慶事があると自分の喜びが減じられるという情けない感覚をもったことはないだろうか。
そこへいくと自然現象の災難はみなひとしなみであり何の損得勘定もなく同病相憐れむことができるからであろう。

Comments

そう言えば、今住んでいる県の前に住んでいた県で雪が降った時
「おはよう!今日は凄く雪が積もったよね?」
が挨拶でした。

今じゃ雪がなかなか積もらない県なのでこの挨拶も聞けません。
なんか寂しい様な…

>丞相閣下
やっと雪が緩んで来ましたが、2,3日後にはまた降るとか。。。
ひまがあると外へ出てスコップで雪を崩して早くとけるようにいじくっています。
腰も手も痛くなりました。
なかなか積もらない程度の雪の風情を楽しむ方がなんぼかましですよ!

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