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やっと春めきました

今日で2月尽。
寒い中にも春めいた日差しが感じられる日も。
庭にはまだ雪が残り折れた枝も痛々しいけれど、それでも枝先の健やかな芽が心なしかすっきりと立ち膨らんでいるような気がします。
繧繝縁を模した背景はQween's Free Worldさんからお借りいたしました。雛祭りもすぐですね。

オリンピック終盤

オリンピック三昧で2週間、いつもTVから流れてくる歓声と応援のブラスの音、アナウンサーの興奮した声。ときには同じVTR映像に、「いつもいっしょなのばっかり」と不平を言ったり、マイナーな競技でも見てあげるよ、と声なき声援を送ったり。
DVDレコーダーのHDはフィギュアスケートの長時間の録画のためそろそろ満杯状態。
だって午前3時から起きられないから(寝ないでいるのはできても、翌日がこわい)。
荒川さん、やったね。ずっと前から彼女のクール・ビューティは魅力的でした。衣装のセンスもいい。今回のSPでの赤と白の衣装も、フリーの日本の着物を思わせるブルーと青緑のも縦線を協調して、しかも観客に媚びない潔さがありましたね。
でも一番わたしが好きなのは全日本のSPで着た手先まで一体の白と黒のモノトーンの衣装。あのときの編み込みの髪型もよかった。もしかして今日のエキジビであの衣装が見られないかと期待したんですが、もう一つの青い方のでしたね。
他の人の演技がまず技があって、技と技をつなぐ滑りがあるように感じられたのに対して、彼女は全編を埋め尽くす滑りがあってその中に技が頭を出しているような印象を持ちました。無駄な動きがないというか流れる水の自然さを思わせる技術は大した物なのでしょうね。

今日は国公立大学入試前期日程の一日目、たくさんのオリンピックどころではない受験生さんたちにエールを送ります!

何となくオリンピック

このところいささかストレスフルな生活を送っています。
一つ大きなお仕事ができたのでそれに取りかかっているものの、なかなか先が見えてきません。
時間ばかり経っていくのに進捗が遅々たるもので、それでいらいらがつのるのでしょう。

TVはオリンピックの中継を点けっぱなしで、ついそちらに視線が行ってしまいます。それほど真剣に見ているわけではありませんが、4年に一度のせっかくの機会を無駄にしないように興奮を味わっています。スケート、フィギュアのような派手な競技ももちろんですが、カーリングとかスキーの距離競技もとても面白いものです。
あちこちに見られる鮮やかな色の会場設営の"しきり"や旗などにさすがイタリアと言いたくなるような色遣いの妙があります。白い氷雪の中、褐色の木々の間を原色を組み合わせたウェアとゼッケンの選手が細いノルディックのスキーに乗って走っていくのを見ていると、気分もよくなるようです。

オリンピックを飽きるまで見て、リヴでちょこちょこ遊んで、また仕事に戻る。。。こんな日課がまだしばらく続きそうです。

おとっつあん、頑張る!

11日午前4時(日本時間)トリノオリンピック開会式がはじまりました。
オリンピック大好き人間を自称するわたしとしては、これは見逃すわけにはいきません。
途中でへたれる危険性があったのでしっかり録画を開始。初めこそ頑張って見ていましたが、やはり眠気には勝てず、後半は翌日に回すことにして就寝。

いつのころから開会式の大がかりなショー化が始まったのか記憶はおぼろげですが、ジョン爺が音楽監督をしたロサンゼルス大会(夏の五輪)の時に、大がかりな公式提携企業の採用問題など報じられたことを覚えています。多分その頃から国家の威信をかけて行う堅苦しい五輪から、有力企業のスポンサーをつけて、高額で放映権を売って、ど派手なショーを行う場へと変容し始めたのでしょう。

今回も選手入場から後の、いわゆる体育系の式次第は付け足しの感がありました。それ以前のイタリア・トリノ市の大宣伝、アピールをめざしたエキジビションはまさに総力戦でした。
多数の市民ボランティアあり、フェラーリのF1あり、炎と花火、バルーンとワイヤーワークとイメージの具象化、歴史を再現して細部にまでこだわった衣装を身につけた群像、数え切れないほどの場面転換と種々の意味を与えられた扮装をした多くの人々。

こういった大イベントに付き物の途中に感じる退屈さもなく、主催者側の押しつけがましさもなく、唯一意見性がはっきり見られたのがオノ・ヨーコのジョン・レノンからのメッセージでしたが、手垢が付いたような雰囲気だけの世界平和への訴えは興ざめでした。70年代風の素朴な平和回帰を歌ったメッセージは五輪の平和を基調にした理念と違和感はなかったものの今更という感がありました。でもその後に歌われたイマジン詠唱のために意見性は弱められショーの一部として溶け込んでいました。
つまるところ、色彩とデザインが溢れる手の込んだ大がかりな大変楽しめるショー、これがおおまかに持った印象でした。

ところが、ところが、最後に、どっか~~~んとやられました。

なんと、パヴァロッティのおとっつあんが登場したのです。
バルセロナ大会の開会式に3大テノールが登場したときよりもっとびっくり。
だってねえ、引退するっていってたじゃあありませんか。まさかまたあのやさしい顔をした巨躯がステージで見られるとは!
しかも鳴りだした前奏は、トゥーランドットの3幕1場の"Nessun Dorma"
おとっつあんの十八番中の十八番。
こんな嬉しいことがあっていいんでしょうか。
最後のVincero!の絶唱まで、うっとりと聞き惚れました。オペラ座もどきの深紅の大カーテンが左右から下りて閉会になりましたが、深夜から夜明けまでライブを見ていたならば、本当に「誰も眠ってはいけない」を地でいくことになったのでしょうね。

ほんとに粋な開会式の閉幕でした。

フライト・プラン

フライト・プラン途中からネタバレを含みます。(予告あり)未見の方はご注意下さい。

賛否両論のある映画です。否を唱える人は設定の甘さ、破綻を攻撃し、賛同者は主人公である母親の一途さ、行動力に強い共感を覚えると言います。
確かに見終わって最初に感じたことは、ストーリーラインに無理が多すぎるのではないか、という素朴な疑問でした。
ドイツからアメリカへ飛ぶジャンボ──高度1万メートルの巨大な「密室」で忽然と6才の少女が消え失せてしまいます。着想としてはとてもスリリングでした。(フォーゴットンという先行作品があるのでユニークではありませんでしたが)
その新型ジャンボの設計エンジニアでもある母親カイルは、知力と体力、気力の全てを奮い起こして消えた娘、ジュリアの行方を捜します。機長に掛け合い、400人以上の乗客を座席に着かせて徹底的な捜索を始めます。しかし娘が機内にいた物的証拠の持ち物も消え失せ、娘の搭乗記録もなく、姿を目にした人もおらず、カイルは周囲の人々から精神的におかしいのではないのかと疑われます。追い打ちをかけるように娘はドイツで既に死亡しているという知らせが届くと、遂に半狂乱になります。前夜に隣家の窓から覗いていた男と似たアラブ系の男性客に詰め寄ったりするのですが、同乗している航空保安官カーソンに行動を阻止されて座席に拘束状態になってしまいます。

以降はネタバレを含みます。未見の方はご注意下さい。

ジョディ・フォスターというと羊たちの沈黙、パニックルームでの行動力溢れる女性のイメージがありますが、今回もその轍を踏み外していません。それこそダイ・ハードのマックレーンかランボーかと思うような抜群の行動力を見せます。
かけられた手錠をトイレではずしてもらって、トイレの上部のハッチから機械室、貨物室へと侵入して娘の姿を求めます。しかし望みをかけていた夫の棺にも娘は入れられておらず(この辺りは観客ももしやと期待をかけるのですが)再びカーソンに捕まってしまいます。
逃げるカイル、行く手にあのアラブ系の男が立ちふさがりカイルは昏倒させられてしまいます。意識を取り戻すと、乗り合わせたというカウンセラーが話しかけます。
夫と子供の死とは認めにくい辛いことかも知れないが現実に向き合いなさい、悲しみは心の内に止めないで話してご覧なさい、と。
消耗して失意にあってもカイルは彼女に言います、「あなたは他人だ」と。
諄々と説くセラピストの言葉にカイルは魔が差したように気弱になります。自分に自信が持てなくなってきたのです。しかしそのときカイルは、まさに娘がここにいたという物証を目撃します。それは他人にはわからなくてもカイルには絶対的な証拠でした。
ここにいたってカイルには現実的陰謀が着々と進んでいて娘と自分はその渦中に巻き込まれていると確信します。

ここまでに観客をミスリードするいくつかの仕掛けがあります。
冒頭から謎を含んだ夫の死を確認するモルグ、夫との穏やかな語らい、夫の姿を思い出す地下鉄、それらがフラッシュバックで順不同で現れるために、彼女自身が夫の死に何か関与があるのではないのかと深読みさせられます。娘の部屋を隣家の男が覗いていたように見えたこと、これは偶然なのか。
いかにも怪しげなアラブ系の男達、反目しているようで実はぐるなのではないかと疑惑の残るアメリカ人男性、セラピストの眼差しも意味ありげで彼女までカイルを精神的に追いつめる一役を買っているのでは、などと疑惑が疑惑を生みます。
ただミスリードを行うだけでその後始末ができていないと尻切れトンボの感を拭えません。張った伏線は最後までには必ず合理的解決を見せなければなりません。ただ仕掛けを数多く作っても思わせぶりだけでは観客に対して無責任であり、観客側としても後々考えてみればそれを見せられる必然性が見いだせないでしょう。
そこに脚本の詰めの甘さがあり、ストリーラインの綻びが指摘されるのです。

航空機の中で人が一人忽然と消え、その存在さえ不明確になる、この非現実的な事件に現実的説明を与えるとしたら、(この際、宇宙人のアブダクション説は横へおいておいて)複数の実行犯が必要、その動機は、テロの手段か、怨恨か金銭か──なぜ航空機内の誘拐という手間のかかる犯罪を犯すか、その必然性は? こうして考えていくと犯人の狙いが明らかになってくると言うのですが。

しかし緻密に練り上げたはずの計画が実は偶然に頼っている部分の多いことに気が付きます。
夫の死の後いつ帰国するか、遺体を運ぶのか、子供が他の乗客乗員に目撃されることはないのか、そしてカイルがこれほどまでに決死の行動力を発揮するのか、まさにそのフライトに犯人グループが疑われることなく乗り合わせることが可能なのか。条件があまりに流動的なので、結果的に犯人グループの目論見はほぼ達成できたのではあるけれど、現実的にはこの計画がうまく筋書き通りに行く可能性は極めて小さい事は予想に難くありません。このあたりが、ご都合主義と感じられる一番のプロットの脆弱な部分と言えるでしょう。

全編の4分の3あたりで犯人の正体が明らかになり、その目的と手段もあっけなく開示されてしまいます。それまでに念入りに子供の消失の謎を畳みかけるように描いてきたわりには種明かしはあまりにも単純で、複雑なプロットを期待した観客は拍子抜けします。
ショーン・ビーンの機長はかっこいいのに、活躍の場はありません。機長は航空機の最高責任者であるはずなのに→航空マーシャルの指示通りに動いたり、カイルがテロ目的で騒擾を起こしたという報告を受けて自ら要求を確認するという基本的な対応をしていません。←最後に飛行機を下りるとき、カイル、カーソンと3人になるシーン、これからショーン・ビーンが何か活躍をするのかと期待しましたが、残念!これも肩すかしでした。
地上へ問い合わせた娘の件、通信は機関士が行うんでしたよね。→アテンダントのお姉さんが通信するわけではありません。でもいつも通信記録を持ってきたのは彼女だったから、もしかしたら改竄した記録を(あらかじめ用意して置いてのを)←機長に見せたのかも知れませんが。

爆薬の分量は機械室と貨物室を破壊するだけに終わりましたが、当初から犯人グループは自分たちは機体を離れてからカイルと娘だけを残して証拠隠滅するつもりだったのなら、もっと多量に、機体全体を一度に破壊できるだけの分量を用意すべきだったし、また如何にカイルが機体の堅固な部分を知っていたにしても扉1枚で爆発の衝撃を免れるはずもないのですが。このあたりはインディペンデンス・デイで、やはりドア一枚で宇宙船からの致死的な熱線攻撃から逃れる←ご都合と同工異曲です。

つっこみどころは満載ですが、それでは映画自体が面白くないのかと言われると、これが面白いのです。どのような逆境にも耐えて子供のために命をかける母親、こういう表現をすると手垢の付いた題材に思えますが、新鮮に感じられたのは、やはりジョディー演じる母親が、極めて理性的で知性に基づいて行動していることでしょう。直感的盲目的直情的火事場のばか力ではなく、気も動転しながら死にものぐるいの行動を取るにしても、その根底には信念に支えられた合理的効率的な醒めた知性を感じます。
四面楚歌で全くの孤立奮闘をするのですが、きっと娘を見つけだし二人とも助かるのだという確信を観客に持たせてくれます。はらはらしながらもどこか安心して見ていられる、そういう人物像を演じられるジョディーはさすがに演技派だと思います。

最後に一言、→言いがかりをつけられたアラブ系の人が手荷物を渡してくれたのに、笑顔を見せるだけ? あやまんなさいよね←見ていて意外だった最後の一件です。それに緊急避難ではあっても航空機の運航を妨害したんだから、何かお咎めはないのでしょうかね?
これも余計な心配かな。

お湯のない暮らし

一昨夜は殊に寒い一夜でした。
室外に設置してあるガス湯沸かし器の、給水管か給湯管かどちらか定かではありませんが、しっかり凍ってしまいました。
え? 管にお湯をかければいいって? そうなんですが──給湯器のある所へ行くには、屋根雪を下ろして山となった雪山を越えていかなければなりません。しかも昨日は終日雪が降りしきり、外へ出るのもいとわしい。それで、今まで先例もあることだし、半日も我慢すれば溶けるだろうと、自然回復を待つことにしました。

お湯が出ない──それは言葉で言うほど生やさしい物ではありませんでした。
昔はお湯などないのが当たり前だった、食器洗いも洗顔も全部手の切れるような水でやったものだ、そんな声が聞こえてきますが、だからといって精神論が勝利するたぐいの物ではありませんでした。
食器洗いはまだ我慢できました。でも途中から手の感覚は消えて、果たして汚れがきちんと落ちているのかどうかも定かではありません。だって感触で確かめようがないのですから。
食事の支度も手で水を使うことを最小限に押さえて、湯豆腐と解凍焼き鳥w

悲劇はその後に。まずシャワーを使えない。このときまでに、昼間に雪をかき分けても給湯器を見ておくべきだったと後悔。しかし、もちろん時既に遅しで先に立たずです。
洗顔だけはしないわけには行きません。水で洗い出しましたが、冷たいというより感覚は痛い、それでも洗顔剤を洗い流すために何度となく顔に水をかけて、タオルで押さえながら洗い上がった顔を鏡を見たら、赤を通り越して紫がかった色味に。。。
冬場に水中に落ちた人が2,3分で死んでしまうというのが誇張ではないことを身をもって知りました。

一晩開けて今朝。
やはりお湯は出ません。それどころか昨日まで出た水の方まで出なくなっています。
覚悟を決めてヤカンに湧かしたお湯を入れて雪山をよじのぼりました。
新雪をスコップで落としつつ凍り付いた雪に足場を作りながら渡っていきます。給湯器の所にたどり着いて、しまった、給水管給湯管が出ている箇所はスチールのボックスになって保護されていたのです・・・・・・プラスドライバーがなければ外せません。
仕方なく、またヤカンを下げて雪山を引き返し、ドライバーをポケットに突っ込んで出直しです。
やっとの思いでガス元栓を締めてお湯をかけていると、やおら、くしゅくしゅかりかりと水の流れる音。
ついに水が流れ始めました。
室内へ戻って試しに出したお湯の温かかったこと。。。

たかがお湯、されどお湯。お湯なしでは日常生活も一気に冷え込んでしまいました。むなしく洗い物は溜まるしゴミの始末もおざなり。寒さを厭って食事の支度も内容も貧弱この上なく、そして何より人心までおざなりになってしまって寒々とした虚無感のようなものに浸食されだした事でした。

お湯に表される温かさ、生活にはこれがどれほど必要だったか──お湯がなくなって初めて気がついたことでした。