my reading report

  • ■ Book Shelf

relative sites

Powered by Six Apart
Member since 07/2006

« May 2005 | Main | July 2005 »

蒲公英草紙──常野物語

蒲公英草紙 書物そのものの持つテンポがあることを、とてもよくわからせてくれた一冊。
「光の帝国──常野物語」の続編。発刊後即購入したものの、ちょうどブラウンの「天使と悪魔」を読んでいる途中だったので、我慢に我慢を重ねて、「天使・・・」読了後満を持して読み出しました。
第1ページから、自分の読むスピードが自然に遅くなるという珍しい現象を体験しました。

今までも恩田陸のいくつかの作品を読みながら、
──ああ、この人と感覚が同じだ
──この人のテンポが心地よい
こう感じたことが何度かありましたが、今回ほど強く感じたことはありませんでした。

特別に新奇な人目を引く実験的表現があるわけでもないし、ことさら小難しい理屈をこねたり、読者に「深遠なる黙考」を要求するわけでもありません。
しかし、とろとろ流れるような言葉の繋がり、思わずはっとするような何気ない景色や空の模様の表現に心引かれるのは、つまりそういう表現を知っている、感じているのに忘れていた、そんな懐かしさを思い出す気分にさせてくれるからなのです。

「光の帝国」第一話「大きな引き出し」に登場した花田一家が登場しますが、あくまでも他の登場人物の中に混じって、話し手である少女の一夏にやってきて去っていく人々のなかの何人かとして描かれていきます。
時代は明治の末、東北の素封家のお抱え医師の娘峰子は、病弱な屋敷の末娘聡子の遊び相手として屋敷に出入りする。蒲公英草紙とは峰子の防備録の名前。
お屋敷の主人夫婦、書生、掛かり人の画家、流浪の仏師、発明家、悪い人は一人もいない。それぞれが自分の生き様の重荷を背負い、あるいは自負を引きずり、あるいは責務を感じながら、時は均等にすぎてゆく。
少女の目を通してそれらの人々の姿が描かれるのが、おもわずはっとさせられるほど真摯な姿である。
自分の薄命を達観しているような聡子、一見粗暴磊落な態度に峰子に対する淡い思いを隠す聡子の兄と峰子の周囲の人々の姿も、風が吹いていくように自然に語られる。

そこへ花田一家が現れる。おいおいわかってくるのだが彼らは普通の人にはない力があり、その力を使って彼らには生涯やらねばならない仕事がある。それは人々の生き様を記憶の中にとどめていくこと。
彼らと日々をともに送るにつれて、語られずとも峰子にも彼らの特異性と献身が理解されてくる。
時代は日露戦争前夜。 怪しい者は「露西亜の間諜」と陰口を叩かれる時代である。
花田一家の真の姿を垣間見ることができた「天聴会」の夜の体験は、峰子と聡子の心に深く彼らの思い出を残すことになる。

流れるように時は移ろい、夏が過ぎ運命の秋がやってくる。
豪雨と山崩れ、村の子供を守って奔流の中に姿を消した聡子。
物語はすべてが巻物を繰るように滑らかに進んでいく。
悲嘆にくれる両親の前に究極の救いをもたらす者が進み出た。

最初にも書いたように、この物語は筋を追って疾く疾くと読み進めるたぐいの本ではありません。
むしろ、言葉が心にひびいて波紋を起こし、その波紋がたゆたいながら最後には消えていく、その過程をじっと楽しみながら読む本だと思われるのです。
従って最後に近づくに連れて速度はますます遅くなり、意識は行きつ戻りつしながら最終のページへと導かれて行きます。
そして最後のあの問いかけに万感がこみ上げてきてあつい涙がこぼれるのを感じるのです。
単行本としては短いものですが、その短さが心地よく、途切れることなく読み通しながらこの本のテンポにしっかり絡め取られている自分を発見するのでした。

あり得ないはあり得ないこともない?

ep3_1.jpg

公開前からいろいろ物議を醸しているEp.3の字幕です。今回もなっちの怪訳が問題になっています・・・・・・それもまたもや非難の嵐。が、しかしこれも深読みができ無いこともないのです。

アナキンが初めてベイダーの姿になってパルの面前で意識を取り戻すシーン、
最初に聞いたのがパドちゃんの安否(当たり前だけど)。
それを逆なでするようにパルが「おまえが殺したんじゃないか!」と言っちゃう。そこでヴェイダーが
「NOooooooooooo!」と叫ぶことになる。
ちなみにそのあたりをスクリプトを借りて来るとこうなります。

DARTH SIDIOUS: (continuing) Lord Vader, can you hear me?

DARTH VADER, with his dark mask and helmet, moves up into the frame until he is in a CLOSEUP.

DARTH VADER: Yes, My Master.

DARTH VADER looks around the room.

DARTH VADER: (continuing) Where is Padme? Is she safe, is she all right?

DARTH SIDIOUS moves closer to the half droid/half man.

DARTH SIDIOUS: I'm afraid she died. ... it seems in your anger, you killed her.

A LOW GROAN emanates from Vader's mask. Suddenly everything in the room begins to implode, including some of the DROIDS.

DARTH VADER: I couldn't have! She was alive! I felt her! She was alive! It's impossible! No!!!

VADER SCREAMS, breaks his bonds to the table, and steps forward, waving his hands, causing objects to fly around the room. SIDIOUS deflects the objects, but some of the DROIDS aren't so lucky. VADER'S PAINFUL SCREAMS echo throughout the Center.
(意味だけ訳しておきます)
ダース・シディアス:(台詞前から続いて) ベイダー卿、私の声が聞こえるか?
   ダース・ヴェイダー黒いマスクとヘルメットを着けた姿でクローズアップ
DV: はい、マスター
   ヴェイダー部屋の中を見回す
DV: (台詞前から続いて) パドメはどこです? 彼女はどうなりました?だいじょうぶですか?
   シディアス、半人半ドロイドとなりはてたアナキンに近づく
DS: 残念ながら死んだ・・・お前が怒りにまかせて彼女を殺したようだ
   低い唸り声がヴェイダーのマスクの下からわき起こる 突然ドロイド数体を含む部屋の中の什器がすべて内側から破裂し始める
DV : わたしに彼女が殺せたはずがない! 彼女は生きていた! そんなことはあり得ない! No!!

ヴェイダーは叫ぶ 処置台に固定してあった腕の固定具を引きちぎり前へ数歩進む 腕を振るってその結果さまざまな物が室内を飛び回ることになる
シディアスは飛び回る物を避けるがドロイドの中には不運にも避けられず衝突昏倒するものも出る 
ヴェイダーの苦渋の叫びは(手術再生)センターの中に響き渡る

最大の問題になったのは、試写会の時"No!!!"の字幕が「ありえな~い!」になっていて観客から総スカンを食った、そして先々行時には削られていたってのはもやは有名な逸話になりました。

でもね、アナキンとしては、パドちゃんを死から救いたい一心でジェダイを裏切りダークサイドに転じた、仲間も子供も殺した。しかし何物にも代え難く大切なパドちゃんから裏切られたのではという猜疑、激情の行為と果ては師であり最大の友人のオビとの死闘、その結果、自分の肉体もひいてはフォースへの絶大な力も失った────→それだけの代償を払いながら、
「お前がころしたんやんけ」と言われたら 「あり得ない!!」と言いたくもなるわな

"Nooooooooo!" にあたる、適切なこれ一言という訳語は無いよね
ケネディの暗殺の時もジャクリーン・ケネディの 発した"Oh ! No!"という叫びはメディアも訳しにくくて苦労していてたと記憶する。結局 「オー、ノー!」が一種流行語のように人々の口にされたから。

Noというのはすべてを否定したいという気持ちがストレートに出た言葉でしょう、だから無理に訳しても、
「いやだ~」 (だだっ子みたい)
「うそだ~」 (TRORの騒動を思い出すね)
「やめて~」 (Ep.2を思い出すね)
どれもだめだめ、ちっちっち
ちなみにEp.1のオビのNooooo!は「マスター!」だったものね。(TVトレーラーの時は「マスター!」だとネタバレになるというので 「止めろー!」に差し替えたとか、苦労しますね)
Ep.2のマスターのお声での「アナキン、アナキン、No!」はどんな字幕でしたっけ、DVD回して見ればいいんですが、もうへたれています。ESBの"I'm your father.""No!"も記憶が定かではありません。どなたか今までのNo! がどんな字幕付きだったか教えてください。字幕が削除してあったようにも思うのですが。
いろいろ試してみても、これという決定打がなくて、不十分よりは無いほうがましという結論に達したのかも。

さて、今回の「ありえない~」なんですよね。。
ヴェイダーの疑念と驚愕と絶望と否定を一言で表そうとしたら、うーん、「あり得ない!」もあながちあり得ない選択じゃなかったと思うんですよね。「あり得ない」そのものは悪い表現では無いんですが。
ただ、時期的に悪かったのは「ありえな~い」がまるで女子高生の軽佻な流行語を連想させてしまったことでしょう。変な手垢のついた言葉を選んだのは思慮がたりなかったといわざるを得ないわなあ。
じゃ、どうする? 少なくとも、いやだ、だめだ、やめろ──どれでも意が足りない。だからといって長々と字幕をつけられない。だからやめときゃいいのに、というのは結果論で律儀にすべての台詞に字幕をつけなきゃという苦し紛れの決断だったのかもしれませんね。
だから No! はその場に一番適した強い否定を含む言葉で置き換えるしかないんでしょうね。

でも 「あ り え な ~ い !」 これ、確かに字幕では見たくないですねえ。

SW Episode3 Revenge of the Sith

見てきたからには内容にどうしても触れますのでネタバレを含みます。

先々行をやっと見てきました。
なあに、今回は事前情報も集めず、自分なりに楽しむんだと開き直っていたのに、アメリカまで行ったとか都会の試写会で見たという話を小耳に挟むたびになにやら取り残されたような気分で、くさくさしていたのですが、やっと、やっと見てきました。

よかったです!
確かに話の筋はもう決まっていたし、見所も大まかわかっていましたから、いきおい目の行き場は画面の凄さ、音響の冴え、音楽の凝りよう、台詞の含み。。。

(それにしても、あーあ、やっぱりラブシーンはだめだめでしたw 恋は盲目、心が砕けて、思わず聞いている方が赤面しそうです)
なっちの字幕には読みが浅いところがいくつか見られました。(多分観る回を重ねる毎に増えていくものと思われます)というか、もう少し工夫してほしいと思われるところが、です。

時間的にはちっとも長く感じられませんでした。
共和国の壊滅、パルの正体暴露、アナキンのダーク墜ち、ジェダイの殲滅、火口落ち、双子誕生とビッグイベントを無理なく描ききるためには、それはたくさんのシーンとそれを繋ぐ絶妙のカットと、緩急を巧みに配分した構成と、そして何より時間が必要なのですから。

トリロジーへ繋がることを強く意識したメカや衣装、音楽には思わず懐かしさまで感じてしまいました。
そしてますますアレック・ギネスそっくりになったオビ=ワンの軽妙さ、重厚さ、そして真摯なキャラづくりに、オビ=ワン萌えが再燃。
今回はドア閉めで見せてくれました。

まったくとりとめがない、これは感想になってませんね。
来週また先行を見に行って少しゆとりを持って観てきたいと思います。

沙羅双樹の花の色

沙羅の花.jpg

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす、おごれる人も久しからずただ春の世の夢のごとし

一度は誰でも耳にし、口に唱えたことがあるでしょう、平家物語の冒頭。
祇園精舎はお釈迦様が悟りを開かれたインドのありがたいお寺だそうだ。ところが、 沙羅双樹とはどんな花なのか、高校の教科書にも写真はおろか説明もありませんでした。
写真の花が「沙羅」と知ったのはかなり後になってからです。
別名を「夏椿」といって、一日花。朝開いたら次の朝までにぽとりとおちています。
鬱陶しい梅雨の時期に涼しげに楚々とした風情で咲く白い花。時間をかけて指先ほどの蕾が硬く丸くなって白味を帯びてやっと咲いても、一日すらその美しさをとどめることはできない、この儚さが来し方行く先定めない人の世を思わせるのでしょうか。

庭に植えてから十年余り。ようやく毎年たくさんの花をつけるようになりました。
根本近くから幹が二股に別れて一本の木が二本のように見えます。これが「双樹」の名のもとになったのかも知れないと勝手に解釈していますが、今までに見かけたこの手の木がみな根本のほうで二股割れているのは、あながち偶然とも言い切れないような気がします。

うつむき加減に開いて陽の光に透けるような花弁の中に黄金の蘂を見せながら暗い梅雨の空に一点の光を添える、沙羅の花。しばし朝に夕に眺めて人の世の無常と、だからこそ、すべての時間を悔いが残らないように過ごすという永遠の課題について思いをはせるとしましょう。

天使と悪魔

天使と悪魔

ダ・ヴィンチ・コードを読み終わってすぐに読み出しました。友人から借りたDVCが、余りに面白かったのでたまらずAmazonでDVCと一緒に購入した物です。
これが面白い! DVCよりも面白いといってもいいほどです。なぜこんなにまだるっこいレビューしか書けないか、そのわけはまだ第67章までしか読んでないからw
日本語版だったら多分1日かからずに読み切ってしまうのでしょうが、PB版ではなかなかはかどりません、しかしその分、気を持たせられること、はらはらさせられること。
ページをめくるたびに新しい展開が。
おおっ、ああっ・・・・・・はあ・・・ふう~
と、まあこんな具合です。
相変わらず殺人が起きてラングドンが電話で起こされる、その後はあれよあれよと舞台は一気にヨーロッパへ。SF畑の人には堪えられない反物質!
スタトレファンには思わず顔のほころぶ一節もあり。ラングドンのぼやきのおもしろさ。
話は記憶に新しいコンクラーベ、その当日に大規模テロの予告が。
行方不明になった枢機卿の殺害予告、と矢継ぎ早に押し寄せる危機の動的な興奮と、ラングドンが持てる知識と推理の機微を働かせて謎を解き明かしていく静的な沈思黙考の対比が話の展開にメリハリを付けています。
行動的な若い女性科学者ビットリアとの(ちょっとべたな)掛け合いもパターンだけれど楽しめるし。
書店へ行けば日本語版が平積みしてあるのを、こちらを読み終わるまで見るものかと横目で見て帰ってきました。
さて、後半はどうなるのでしょうか。まだまだお楽しみは続きます。

G.モローとの邂逅

一角獣

Gustave Moreau(1826-1828)
ギュスタブ・モロー、彼とのつきあいは長くなる。
小さい頃から美術史関連の本を読むのは好きだったが、大学時代に専攻が美学美術史学ということもあって、いろいろ主に西洋美術に関する本を読む機会が多かった。
フランス新古典主義からロマン主義、そして印象派へとうねる大きな流れをひもとく中で心を引かれたのが象徴派ともいわれるひときわ異彩を放つモローだった。

緻密で美しい造形と、時には人の心の深淵をえぐるような色彩、そして何よりも描くテーマがギリシア神話から旧約聖書、イスラム、インドといったエキゾティシズムに充ち満ちて、まさにこういっては失礼かも知れないが私の好み、そのものだった。
現在その作品の多くがパリの生前の住処を美術館にした"モロー美術館"に収蔵されている。
モローを見るならパリへ、パリへ行ったらモロー美術館へ、こう思っていた。

モローの実物を目にしたのは3回。
最初は70年代に岡山のデパートの画廊に何点か。この折りかなり無理をして見に出かけた。今でも覚えているのは「トロイのヘレン」連作の中の一枚。城壁にたたずむヘレンも城壁も背景の空もほとんどモノクロのようなグレイと白、優雅に片手に花を持ち衣を垂らして屹立するヘレン、その白い衣は下半分は暗い赤と黒の油絵具が塗られている。ヘレンのために流された血糊が見えた。

その後1995年に京都でモロー展があり、これも見に行った。"雅歌"の繊細な美しさに魅せられた。

そして、今年、灘の庫県立美術館で7月30日まで開かれているモロー展、3回目の邂逅。
今までにない多数の作品、それも代表作と数えられる"一角獣"やサロメの"出現"、その他小品ながら心を引かれる"夕べの声"や"インドの詩人"など絶対にこの目で見たかった作品が目白押しである。

土曜日、梅雨入りと台風の影響で時折雨足が強まる中、モローに会いに神戸へ出かけた。
兵庫県美は私の大好きな美術館。迷路のような構造は一歩中へ入ると日常空間から特別の空間へ迷い込んだような気分にさせられる。大きな建物は中に入っているだけで周りにある質量と圧迫感をひしひしと感じてしまうものだが、ここはどこからでも空が見える。質量を持ちながら重量を感じさせない構造というのだろうか。
とにかくここへ行くと何度も迷いそうになる、しかしそれが快い。敢えて館内の案内図など見たくない。曲がったところに思わぬ通路があったり出入り口がわからなくなったり、毎回楽しみが多い。

土曜日だったが人出もそれほど無く、静かな館内、柔らかな暗めの照明、浮かび出る大作の油絵とその間に点在する紙本の水彩画、数多くのデッサン習作。
人体を的確に描きながらそこに寓意を込め、精神性と感情との、女性的なる物と男性原理の衝突を描き、繊細緻密にして大胆、時に淡冷、時に濃厚。
しかしそのどれもが、向き合ったときに嫌悪の情を催させる物が一つも無い。新古典派の彫像のような硬さから感じる拒絶感もないし、印象派の独りよがりも感じられない。
古からの物語を秘めた図柄には、物語を知る者にはそれを確かめて楽しませる図像的な配慮と工夫があり、また知らなくても、直接的に感じられる動きと色彩のバランスに、やはり心を奪われる。

「一角獣」の美しさ、宗教や時代の特定を越えた永遠の楽園、アルカディアの現出。女性の衣装に施された線描が浮き上がって不思議な二重の空間を感じさせる。
「夕べの声」、重力を遮断した世界。ただ美しいだけではない、背後の峻険な山肌からは、厳然とした荒地を凌駕してのみ生まれる美や芸術への憧憬が伝わってくる。
「インドの詩人」は地上的なエキゾティシズム、西洋にあって想像する、この世ならぬ世界への憧れの結晶ともいうべき細密画の手法を取り入れた魅力的な水彩画。不思議なことにこのエキゾティシズムは極東の私たちにも同様に異国情緒を引き起こすのである。

最後にサロメについて語らなければならないのだが、夕べの声やインドの詩人の醸す美しくも憧れに満ちた世界に酔っている今、サロメの妖しさに触れたく無いような気分もする。
その気分になったときに項を改めてとっくりと語ってみたいと思う。

英李(ゆすら梅)酒

liquor.jpgberry.jpg

収穫! 
あまりのかわいさに一枚パチリ。
その後は早速果実酒作りです。
総量が300gなのでホワイトリカーも少なくていいのに、小瓶って売ってないんですねw
アルコール分と糖分、味に酸味が無いのでレモンを半分(検索でしらべた通りに)
さて・・・・・・っと、飲み頃はいつになるのでしょうか。
味はさておいてとっても楽しみ!

ゆすらうめ

yusuraume.jpg

ゆすらうめ、"桜桃"とも"山桜桃"とも書くようです。
今年はいつになく花付きもよく、日に日に実が赤く熟していきます。
後ろには無粋なトタン張りの小屋があるのですが、一面に蔦が茂って覆い隠してくれています。
風が吹くと一斉に同じ方向にざわざわ揺れて、深山の景色ようです。いつも枝や葉や、何かが動いている庭は心をときめかせてくれるものです。
ゆすら梅の隣にこれまた小振りの庭梅があります。
こちらも花の可憐さに惚れ込んで植えた木です。
ゆすら梅の花が一重で先端がほんのり薄紅色に染まるゆかしさの花なら、庭梅はぱっと開いた五瓣の鮮桃色の花の中心に驚くほどたくさんの細い雄蘂が放射状に広がって、小さいながらに可憐で華麗という言葉がぴったりの花。こちらも控えめな実が膨らみつつあります。
検索かけるとゆすら梅は食べられる(しかも美味しい!)し、果実酒もつくれるとのこと。片手に乗るくらいの収穫だけれども、ゆすら梅酒に挑戦してみようかしらん。。